陽 気 村

フィーリングを楽しんじゃおうっと

広告

※このエリアは、60日間投稿が無い場合に表示されます。記事を投稿すると、表示されなくなります。

『宇宙とわたしの不思議な関係』

2009-04-27 | スピリチュアル
『 宇宙とわたしの不思議な関係 』

                  黒沢吾耶(くろさわあや)著  

            

  

 宇宙とわたし 無限の叡知からのメッセージ  

 

  草木や花と人間の関係

 

お花に優しい言葉をかけてあげると、喜んで花を咲かせるーという話を私の教室でしましたら、その話を聞いた人たちから間もなく嬉しい報告を受けました。その中の数人からも同じように毎日家に帰って庭やベランダの花に声をかけていたところ、今まで少しも咲かなかった花が、種を蒔いていない場所にもいっせいに花が咲いたというのです。

そこでお宅に伺うと、玄関から家のまわり一面見事に花につつまれていました。そして、一本一本の花が楽しそうにニコニコ笑って迎えてくれたのは、何とも言えないものがありました。
花や草木は自分の存在理由をきちんと認識し、常にその家の人たちの心を安らげるように努めていることがとても嬉しく伝わってきました。庭やベランダいっぱいの花に囲まれて、家族の方々のお顔の表情もぐんと明るく優しくなったみたいです。


あなたがもし、自分は誰とも気が合わないからと一人暮らしをしているようでしたら、植木といっしょに住んで、お互いに無言の中に心を交わしてみてはどうでしょう。とても気持ちが落ち着き、リラックスした気分になれますよ。なぜなら、植物も人間と同じようような心をもっていて、いっしょにいる人の心に優しい波動(愛)を送ってくれるからです。そうしたところから、自分の心を開き、植物を愛せるようになると、自分以外の人も愛せるようになり、調和が取れるようになります。人からの愛を求めるよりも、自分が先に人を愛せる人になることです。

 

 

 夢の中で過去や未来と出会う仕組み

 


夢を見る仕組みはどのようになっているのでしょうか。また、私たちは夢を通して先のことをどうして知ることができるのでしょうか。
眠っているときは意識がない状態で、心はリラックスしています。ふつう、心配したり怒ったりしている状態では眠れないものです。


心の状態を平静にしながら「幸福な気持ち」で眠りにつくと、心の波動が細かく軽量になり、次元の高いところに生命が昇っていきます。その高いところから低いところを見ると未来が見えてくるので、そのときに見たことを記憶しているということになります。
眠っているときに先のことが見えるので、「夢で見た」ことになるわけですから、それが現実となって現れるのは当然でしょう。


その一方で、寝る前に「不安な心理状態」や「心配ごと」を抱えながら眠りについた場合には、無意識の低いところ、すなわち過去を見ています。
私たちの過去が完全に幸福であったならば、人間としてやり直すために肉体をもって誕生してはいません。私たちは自分を改めるために、それぞれの〝理由〟があって誕生していますから、誕生のときに過去の記憶を消し去り、新たな気持ちで生まれてきているわけです。


悩みを心にもつと、波動は粗くなり、心が重くなるので、夢の中で過去に戻り、辛い夢や恐ろしい夢を見ることになり、先のことを夢で見ることはできません。


ご存知の方も多いと思いますが、「レム睡眠」という浅い眠りの状態のときは夢を見やすいと言われています。ふつう、私たちは九十分サイクルで深い眠りをくり返していると言われています。
リラックスした状態で眠りにつけば、脳波は四~八ヘルツのシーター波になり、肉体(身体)は三次元にありながら、高い次元に上がっていき、未来を知ることになります。


反対に、無理なことをしたり、しようとしているときには、心に負担がかかり、心地よく眠れないものです。そのようなときには脳波が粗いものとなり、自分の過去のいやな記憶を夢として見せられてしまいます。

 

 

    どんな夢みてますか?カルちゃんは 朝起きると覚えてないですね。

     眠りにつく前のリラックスな時間ってもしかしたら  大事かも・・・・・・ 

       

   

           今日も最後まで読んでくださって ありがとう 

                       つながっているすべての人に ありがとう    

 

コメント

『働くしあわせ』

2009-04-25 | 講演
 
 『 働くしあわせ 』

               大山 泰弘 講演録

 

    『読書のすすめ』さんおすすめの小冊子です。

 

    日本理化学工業株式会社社長 大山泰弘氏の講演録です。
    ダストレスチョーク(比較的粉の出ないチョーク)を全国に製造販売している会社です。
    従業員は74人。知的障がいのある方54人を雇用しています。
  

  

「知的障がい者に教えられた究極の幸せ」から

 

74人中54人となると、正直、同情だけでは企業経営はできません。どのようにして、障がい者多数雇用の企業経営をしているかについて、少しお話させていただこうと思います。
私どものチョークは普通の石膏チョークと違います。もともと固まらない炭酸カルシウムの粉をなんとか上手に固めて、なおかつ、黒板に傷をつけずに、かつ、きれいに消えて粉の出方の少ないチョークとなりますと、炭酸カルシウムの粉にいくつかのバインダーを混ぜて、それによって書き味とか折損強度を保つ必要があるわけです。私どもの会社は、70%以上知的障がい者を雇用していますので、このようなチョークの配合から出苛までを彼らにやってもらっています。


もちろん、「健常者と同じ様にやりなさい」という考え方ではうまくいきません。健常者がつくる場合と結果が一緒であればいいわけですから、彼らの理解力に合わせた仕事の進め方で結果が出るように、今、持っている能力で製品が出来るように工夫しています。
例えば、彼らは初めの頃こそご父兄の方と同伴で通勤してきますが、一ケ月も経つと一人で通勤してきます。一人で交通事故に合わずに毎日通勤してくるということは、当然、交通信号を識別して横断歩道を渡ってくるわけです。ちゃんと「赤」「黄」「青」の識別して横断歩道を渡ってくるのであれば、「色の区別でその配合作業ができないものか」と考えました。そこで、いくつか種類があるチョークの原料の容器を色で区別するようにしたのです。


そして、例えば、青い容器の材料を出すときは、そのそばにある青く塗った重りを天秤にかけて計量します。機械を使って材料を攪拌(かくはん)する際にも、「スイッチを入れたら砂時計をひっくり返して、上の砂が全部落ちたら機械を止めるんだよ」と教えています。また、チョークの太さでいえば、上限の太さ、下限の太さ、2つの穴を用意しておきまして、下の穴に入ったら×点だ、上の穴に入らないと、これも太いから×点だ、この2つの穴を用意することによって、彼らに製品検査まで任せられるようになりました。
こんな風に、材料の種類を見分けることができない従業員には容器の色分けをする、時計が読めない従業員には砂時計を置くといったように、私どもでは彼らの今ある知的理解力に合わせて道具を用意したり、作業を設定することによって、ほとんどの製造工程をこなしているのです。(中略)

 

このように、彼らの理解力に合わせて作業を設定すればいろいろな仕事を任せることができるのです。
また、知的障がい者の中にもレベルの高い人もいれば、重度の人もいます。最初の頃、まれに知的理解力の高い子が「ぼくは、数も数えられない子や字も読めない子と一緒に働くのは嫌だ。こんな会社につとめるのは嫌だ」と言って、やめてしまうことがありました。そこで、私どもはそういう知的レベルが高くて、いくつも工程をこなす子のために班長という地位をつくることにしました。


一つの仕事を安心して任せられて、かつまた三つまで仕事を覚えられる子を「班長」と呼んで、「他の従業員に教える」という役割を与えたのです。すると、わがままを言っていた子が班長につくことによって新しく実習にくる子を親切に教えるようになったのです。(中略)

そして、何より大事なことは、障がい者一人ひとりにも「ぼくは会社の役に立っているんだ」という思いを常に持たせることです。例えば、学校を卒業して間もない子は、4月、5月に休みがちになるケースが多いんです。そういう子に対して、私どもでは意識的に「君がいなかったので、昨日はこんなに大変だったんだよ」と伝えるようにしています。一人ラインから抜けますと、当然、その一つの部品が入らない不良品が出来上がります。そして、不良品は不良品ボックスの中に入ります。そこで、不良品ボックスに入っている商品をその子に見せながら、「君が来ないと、みんなこの不良の箱に入っちゃうんだよ。だから、君がいないと困っちゃうんだよ」と話すのです。

 

すなわち、「君は会社が必要としている人なんだよ」ということをしっかりと伝えるのです。そうすることで出勤率は大変高く、また、例え個々の能力が低くても、これまでご紹介したような工夫を続けることで、全体の生産性という部分ではそれなりの成果を上げ、なんとか最低賃金を払いながら、会社を続けられているわけです。

 

羅漢16人と知的障がい者

 

お釈迦様のお弟子さんで最高の地位にあるお弟子さん、それを「羅漢」と言うそうです。その「羅漢」の地位にあるお坊さんの中の一人に知的障がい者がいることを私は知りました。その名前は周利槃特(しゅりはんどく)という方だそうです。

 

羅漢16人の中の15人は、お経をすらすら読みながらいろいろと人を説法するお坊さんです。それに対して、「周利槃特は、確かにお経も読めない。しかし、彼が一心不乱に庭を掃除している姿をみたら、思わず手を合わせて拝みたくなる。無言の説法ができるのが彼だ。だから、彼を羅漢の地位に入れられたのですよ」とおっしゃられたそうです。(中略)

 

知的障がい者というのは、十分に字が読めなかったとしても、「その存在だけで人を説得する、人間を、社会を、よりよくするために、それなりの説法のできる人たちである」とこう考えるべきであったし、かつまた、「その説法のおかげで今の日本理化学工業がある」と私は思っております。


 

    歩み寄る姿勢に拍手です。一人一人が喜んで仕事しているような気がしますね。

           

          

          今日も最後まで読んでくださって ありがとう 

 

 

                          つながっているすべての人に ありがとう    

 

コメント

『びんぼう神様さま』

2009-04-20 | 物語
 『 びんぼう神様さま 』

                    画・文 高草洋子 著  

            

 『読書のすすめ』さんに行ってきましたよ。
  ここをはじめて訪れたらまず読む本と
  おすすめしていたのが
  今回、ご紹介する本です。

  ある時、松吉の家にびんぼう神が住み着きました。
  ところが松吉一家は悲しむどころか
  びんぼう神をありがたく拝みはじめるんです。
  びんぼう神はだんだん居心地が悪くなり悩みはじめた。
  そう、びんぼう神が悩むんです。

 

《なんでわしは、神様って呼ばれるんじゃろう?》


この家に来てからというもの、今まで考えたこともないことでびんぼう神は悩んでおった。
それまでのびんぼう神は、自分が来たことでその家が貧乏になってゆくのが楽しみで、貧乏への不平不満、愚痴を聞くのが大好きじゃった。ところがどうじゃ!この家のもんときたら・・・・・。

 

「うちにはびんぼう神さんしかおらんようじゃが、うし松が贅沢も言わんでなんでも喜ぶのは、もしかしたらびんぼう神さんのお陰かもしれんねぇ。」


などと言い出し、古材を拾ってきて、あれよあれよという間に、なんともみすぼらしい神棚を作ってしもうた。びんぼう神があっけに取られて口をポカンとあけている間に、夫婦とうし松の三人は、神棚の前に座り、神妙にパンパンと柏手(かしわで)を打って、


「びんぼう神さん、びんぼう神さん・・・・」


と始めたではないか!びんぼう神は、つい、ダダダッと神棚に駆けていってちょこなんと座ってしもうた。夫婦は


「お陰さんで、うし松も元気に育ってくれとります。贅沢(ぜいたく)一つ言うわけでもなく、稗(ひえ)も粟(あわ)も栗の実一つ、ドジョウ一匹、うちじゃぁみんな宝物ですだ。これも、びんぼう神さんのお陰ですだ。これからもどうぞよろしゅう、お願えします。」


と言うではないか!びんぼう神は生唾をゴクンと飲み込んで、目をくりくりさせるばかりじゃった。


それからというもの、親子三人、貧しい食事の中からびんぼう神にお供えして、毎日毎日、神妙に拝むのじゃった。びんぼう神はいたたまれんかった。

 

今までのびんぼう神は、家の屋根裏部屋の片隅で、ただごろごろとして、その家が貧乏になっていくのを楽しんで眺めておれば良かった。ところが、こうして、感謝されると、この家族が神棚に向かうたんびに、自分も神妙にせないかんような気がして堅苦しゅうてならんかった。まして、子供の紅葉(もみじ)のような手でビシャピシャ柏手を打たれたひにゃぁ、たまったもんじゃなかった。しゃんと背筋を伸ばさなならんわ、尻はもぞもぞするわ・・・・・。

こんな毎日を送っているうちに、びんぼう神はだんだん憂鬱(ゆううつ)になってきた。そして、こんなことを悩むようになった。

 

《なんで嫌われもんのわしを、ただ神さんちゅう名前がついとるちゅうだけで、この家のもんは神棚にまつるんじゃろうか?そもそもおるだけで不幸になることしかしてやれんわしが、なんで神さんて呼ばれるんじゃろう?》

 

こうして、今日もびんぼう神は神棚の上で、フゥーと大きなため息をつくのじゃった。

 

 

 実はこのお話の中では、福の神も悩んで登場します。

「福の神と言われてはいるものの、どうもこのごろどこの家に行っても、願いを叶えれば叶えるほど人間の顔が妙にギラギラして、人相まで悪くなるような気がして、すっきりせんのじゃ」と言って。

やがて松吉どんが住む村に、飢饉がやってきます。
その時、びんぼう神様がとった行動とは・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。

 

 

目に見えない世界がとても身近に思えてくるんだな~

 

 

 『読書のすすめ』さんに行って気がつくことたくさんありました。このお店にある本は本当に生きています。とても不思議なのですが、そんな風に思えるのです。

     

 お店の前で出迎えてくれたプーサン 『本を読むと財布の中は寒くても心の中は温かくまります』と書いてます.

ピースの方は、今回、カルちゃんに感動を与えてくださった読すめの小川さんです。一度、お会いしていただければきっと、小川さんの熱い魅力を感じていただけるかと思います。本当、ツイテルやつです。『いいと思ったら即行動』がモットーのよう。きっと何か起こしてくれるでしょう。一度会っただけでファンになりました~。

小川さんって最後まで喜ばしてくれるんだな~。感激   の涙です。

本当、ありがとう。また、会いに行きますよ~ 

 

          

 

  今回2日間お世話になった堅実な山さん、相談にのっていただいた素敵なNさ ん、柔和なTINKERさん お会いした皆さん本当にありがとう この場をかりて  

     

            また、よろしくね!

 

        今日も最後まで読んでくださって ありがとう  

 

                       つながっているすべての人に ありがとう    

 

コメント (2)

『あなたは、わたし。わたしは、あなた。』

2009-04-13 | スピリチュアル
 『 あなたは、わたし。わたしは、あなた。 

                  中西 研二 著 

 

 『分離とは、ワンネスのすばらしさを際立たせるための装置だった!』中西さんの体験がまとめられていますよ。 

 

  一(位置)につくための四つの言葉

 

一がなければ二はありません。
すべては一から始まっています。
「一の法則」の(位置)は、人生のスタートラインを表しています。
あなたの一(位置)が定まっていなければ人生はスタートしません。
一歩も前へ進んでいきません。
よく「自分の人生で何をすればいいのかわからない」という人がいます。
そのような人は、自分の一(位置)が定まっていないのです。
人生で何をすればいいのか分かってくれば、あなたはいよいよ一(位置)につくことになります。
山田花子さんに、
「私の使命は何ですか」
と聞かれました。
私はすかさず、
「あなたの使命(氏名)は山田花子です」
と答えました。私は誰に聞かれてもこういうことにしています。
そして、
「あなたの使命が何かは分かりませんが、あなたがいちばん喜びに溢れることは何ですか」と、逆に尋ねます。


人は、喜びに溢れることを見つけたときに、人生の一(位置)につくことになるからです。
一(位置)につくとは、これからの人生のすべてをはじめることができるとても大事なことです。


航海に必要な羅針盤は、自分がどこにいるかを確認し、目標に向かって航行するためのものです。


羅針盤は航海にはとても大事なもので、なくてはならないものです。
私たちにとっての一(位置)は、その羅針盤のようなものなのです。

 

「一(いち)を以て万(ばん)、万々(ばんばん)を以て一(いち)」という言葉があります。
これは、「すべてが万(すべてのことを意味する)とも解釈しますが、〇(ゼロ)を九十度傾けると一という字になりますから、私は〇ゼロ(愛一元の世界)を横から見て一になると解釈したいのです。つまり、一(位置)につくとは、〇ゼロ(愛一元の世界)のすべてを体験する一(位置)についたということです。


一(位置)につくことのできる四つの言葉があります。
その四つとは、

 

①ごめんなさい


②ありがとうございます


③これでよろしゅうございますか


④どうぞよろしくお願いします

 

私たちは、この四つの言葉を発動しない限り、決して一(位置)につくことはできません。
一(位置)について、〇ゼロの「愛一元」の世界へ近づくのです。

 

  「感謝」という言葉が持つ不思議な力

 

②の「ありがとうございます」を「感謝」という言葉と混同されている方が多いようですが、「謝」という言葉は「あやまる」という意味ですから、まず「ごめんなさい」と謝るのです。


ほとんどの人が「ありがとうございます」ですませているのではありませんか。
①の「ごめんなさい」という言葉を先にいって、次に②の「ありがとうございます」をいえば、そこではじめて感謝という言葉が成立するのです。(中略)

 

でも、私たちは、この言葉がなかなか出てきません。
たとえば、朝、家を出て会社に向かいます。朝の通勤電車は混んでいて、お年寄りが集まってきたのに席を譲れませんでした。会社では部下に心ない言葉で傷つけてしまいました。帰宅の途中に重い荷物を持っている妊婦さんに「持ってあげましょう」と声がかけられませんでした。でも、今日一日無事に帰ってくることができました。家では、すでに夕食の支度ができていて、でも、子どもたちの元気な声を聞くこともできました。


一日だけでこんなにたくさんの「ごめんなさい」「ありがとうございます」があったのに、「ごめんなさい」もいわずに家へ入れてもらい、「ありがとうございます」もいわずに床についてしまうのです。


このように一(位置)につくまでにいろいろなことがあり、一(位置)につくための準備は十分できているのに、でも一(位置)につけません。

「ごめんなさい」「ありがとうございます」がいえないからです。


感じて謝らなければ「感謝」になりません。一つ一つの出来事に対して心から感謝したいものです。

 

    体験することがなんとも素晴らしく思えてくるんだなぁ~ 

 

                    

           最後までお読みくださって ありがとう 

 

 

           つながっているすべての人に ありがとう 

 

 

                                                    

コメント