陽 気 村

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『ECTON×SUGIZO』

2009-03-30 | スピリチュアル
 『 ECTON×SUGIZO 』

                   

                   チャンパック通訳・翻訳 

  

 2008年10月、リチャードラビン=ECTONとSUGIZOさんの3日間にわたる個人セッションです。個人セッションではありますが、共感できますよ~。内容は、個人レベルを超え多岐に渡ります。

今回は、Session 2 からです。

 

 SGZ  僕は、過去の様々な音楽を聴くことや学ぶことが本当に好きで、たとえば、西洋のクラッシック・ミュージックもすごく好きでよく聴いています。ただ、過去の音楽の偉大な方法論や人物に対しては心からリスペクトしつつ吸収しながらも、やはりいまの時代に一番合ったやり方で、いま一番気持ちのいいことを追求し表現していくのが重要だと僕は思っているんです。


いまの時代の流れにそぐわない古いやり方は、もうリリース(手放)してもいいのではないかと。
僕はそれを実践するのが自分の役割だと思っているんですけれど、やはり多くの人にとっては昔の方法論こそが重要で、それ以外の方法はナンセンスであり認められないものなのでしょうね。
それはもちろん音楽だけでなくて社会全体に言えることです。いまはちょうど古いやり方と新しいやり方の中間にいて、重要な変化の時期であると同時に、これから何を残し、何を手放していくかという、もっとも複雑で難しい時だと思うんです。

 

ECT  いまの質問はおもに音楽に関してということでお答えすればいいでしょうか。それとも、音楽以外に関してもお訊きになっていらっしゃいますか。


SGZ どちらでも、結局、僕にとっては、どちらでも同じなんです。音楽で起こっていることと社会で起こっているというのは、実はそれほど離れてないと思うので。

 

ECT もっとも大切なのは、変化というものを許すこと、さらに、変化を招き入れるような姿勢を持っていることです。
それに対して価値判断(judgment)というものは、その程度がどうであれ、新しいものや変化を招き入れることを妨げます。

 

SGZ 価値判断・・・・・・・。

 

ECT 判断するとは、ある現実(reality)が別の現実よりも、良いか劣っているか評価を加えるという考え方です。

 

音楽に関してこのような考え方をする人を例にとって考えてみましょう。ある人が、クラッシックの音楽に対して、まるで宗教的信仰に近いような姿勢で、「ロックンロールよりも価値がある」「ロックンロールより質が高いのだ」と信奉していたらどうでしょうか。
また、ある宗教がそれ以外の宗教の価値というものをまったく認めることができず、どのような場合においても、原理主義的な物の見方や自分たちのやり方の方が彼らのやり方よりも優れているのだという考えを貫くことは進化を妨げることになるのです。


ですから、SUGIZOさん、あなたのやり方はパーフェクトなのです。
そして、私たちのやり方は違いますが、私、エクトンのやり方もまたパーフェクトなのです。

 

 いま私たちはこの時空の中でこのように出会っています。しかし、この交流が終われば私たちはまたそれぞれ違う道を歩むことでしょう。
私たちはそれぞれ自分のやり方でベストを尽くして、この世界を、そしてこの宇宙をよりよくするため、何らかの貢献をしようとしています。
しかし、やり方は異なっても、私は無限に永遠に、あなたのやり方や価値を尊重し認めます。

 

 それと同時に、まわりにいる人々の外見や彼らの経験や選択がどのように見えようとも、「これは彼らなりのやり方なのだ」と同じように尊重し認め てあげることができたならば、そのことによってSUGIZOさんは人類がより進化に向かうための目的を果たしたことになるのです。

 

SGZ そうですね、確かに。

 

ECT 人間として生きている以上、非常に難しい部分だと思います。
「私にはロックは耐えられない!」という人もいるでしょう。
「私にはあの宗教は耐えがたい!」という人もいることでしょう。
 他にも、人間として耐えられないと思う様々なことが存在すると思います。
自分の中で、「あれは耐えられない」と感じると、それに対して闘いを挑みかける傾向があります。しかし、闘ったとして勝つのは一体誰なのでしょうか。

 

SGZ 誰もいない。


ECT そう、勝利者は誰もいないのです。


SGT 音楽も宗教も国境も、そういう意味ではやはりとても近いものなのだと思います。


ECT そのとおりです。


つまり、葛藤が存在するどのような人生の側面に対してもこの考えは応用できます。
理解することができない、受け入れようとしないところから葛藤が生まれるのです。

 

SGZ それは、自分のキャパシティにはないからということですよね。

 

ECT はい、そうです。自分の中に受け入れようとする意志がないということです。
葛藤について話すとき、違いを認めることが〝できない〟という言葉を使うよりは、違いを認めようとする〝意志を持たない〟という表現を、私は使いたいと思います。なぜなら、全ての人が認める能力自体は持っているのですから。

 

SGZ もちろん、認めることと好みとは別の問題ですよね。
 たとえば、音楽で言うなら、僕は日本の演歌は好みではないんですが、その存在意義や彼らの業績などは素直にリスペクトしています。否定的な気持ちはまったく持っていないけれど、た だ好きか嫌いかといったら、別に好きではないだけだと。

 

ECT そのとおりです。演歌が歌われている会場まで出向いて、自分がどれだけ演歌を嫌っているかを怒鳴り散らしているわけではないのですから。
これはただ、自分自身の好みを話しているだけです。

 

しかし、「ロックが好きだ」と言っている10代の男の子に対して、「そんなことはやるべきではありません」と、無理やり両親の好みにその男の子の 好みを合わせようとしたならば、それは自分の好みを伝えているのとは違います。
これは、確実な干渉です。

 

SGZ それは、宗教にも言えることだと思いますし、国と国の文化や習慣の違いにも言えますよね。


ECT はい。つまり「あなたはチョコレートが好きで、私はバニラが好きです。でも、友だちになりましょう」という考え方です。実際はそれだけシンプルになり得るのです。


 しかし、国境や政府、あるいは金銭が話題になると、とかく複雑になる傾向を持っているのです。そういった話題に関しても、これからお互いに語り合っていくことによって複雑さを取り除いていく手伝いができれば光栄に思います。

 



    さぁ 行こう ネクストステージへ・・・・・

   

                 今日も最後までお読みくださいまして ありがとう 

                                      つながっているすべての人に ありがとう    

 

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『「自分」から自由になる沈黙入門』

2009-03-28 | 仏教
『 「自分」から自由になる沈黙入門 』

                  小池 龍之介 著  

  

 なかなかおもしろい内容です。自分観察している方にはグットですね。意識を探る、味わう世界が修行僧的?に書かれておりまする。今回は「否定の魔力」からピックアップ!

 

 

  自分語りの呪文

 

批判にしろ、悪口にしろ、つまるところ何かを「否定」することには、怪しげな魔力があるのやもしれませぬ。
すなわち「否定」とは、「私ってステキでしょー!こんな私を見て」てふ呪文。「あいつはダメだ」と否定すると、その「あいつ」と比べて自分がとても素晴らしい人間になったかのような魔法がかかるのであります。

 


多くの人は、自分語りをしたい、自慢したい。だけれど、自分のことをストレートに自慢するのは恥ずかしい。
それでも、人の心てふものは放っておくと無駄に気持ちよくなりたくなりますゆえに、ついつい「じゃぁ、ちょっとバレにくいやり方で自慢してみようか!」と、否定トリックの魔術にはまってしまう。

 


否定が自慢だとは気づかなかったとしても、残念ながら、否定ばかりする人の周りにいると、よい気持ちはいたしませぬ。これすなわち、否定の魔術に含まれる自慢のトリックがうっすらと感じられるからにこそ候へ。

 

 

 「阿呆」

 

以下に挙げますは、私自身を観察していて気づいた、些細な呪文サンプルになむ侍る。
ある日の昼どき、女友達と自転車をこぎながら話をしていたら、銭湯の女湯に、小学校高学年か中学生くらいに見える男子が入ってきて恥ずかしくてしょうがなかった、という話題になりました。親子で入ると無料の日だか何だかだったらしく、母君が連れて入った模様。


それを聞いていて、「母君と一緒に入っちゃうその子もその子だけど、母君は何考えてんだろうね。アホじゃん?」と私。あ~いけねぇや、また偉そうなこと言っちまった、と自分を観察してみると、たしかに「アホじゃん?」と言った瞬間に気持ちよくなっているのであります。


ここでは、「阿呆」「アホじゃん?」が、私が気持ちよくなる呪文なり。

 

 みんな魔術師

 

普段から悪口をあまり言わないように意識している私でも、ふと気をゆるめるとこのありさま。後から思うとドウデモイイことを、わざわざ否定して盛り上がることが、しばしばあり候ふ。
これくらいの軽い話題ならまだしも、否定する内容がドギツすぎたり回数があまりにも多すぎたりいたしますと、会話そのものがロクなものにならないであろうことは、容易に想像がつくことであります。

 


自分はそんなに文句言ったり悪口言ったりしないよ、という人もいるやもしれませぬが、それは絶対に嘘だと言い切る自身があり候ふ。
嫁がウットウシイだとか、姑が頑固だとか、社会が間違ってるとか、政治がおかしいとか、都会はタガが外れてるからよくないとか、今の若者はイカレてるとか、誰々のファッションは変だとか、イスラム教徒は狂信的だとか、次から次に。

 


ほとんどの人は、自分でも気づいていないくらいしょっちゅう、何かに対する否定的な文句を連発している、否定の魔術師であります。文句の数が増えれば増えるほど、ネガティブな感情を自己暗示して自分の潜在意識(ムイシキ)に刷り込むことになりますゆえに、大きなストレスとなり、心身の健康を損なうことにもなり候ふ。

 


そのうえ、会話の内容もロクデモナイものになりますれば、せっかく良い人と出会ったとしても敬遠されてしまったり、いろいろな縁を逃してしまうことにもなりかねませぬ。


かく申しますと、当然、「批判もときには重要」「必要なときに、あまり気をつけすぎてまったく批判できないのはよくない」てふ意見もありませうが、それはまったく心配なきことであります。

 


仏道を日々実践している人ですら、否定をゼロにするのはなかなかに無理なこと。フツウの人がちょっと意識したくらいで批判・悪口をやめられるなんてことは、絶対になし。


ゆえに安心して、否定に費やす無駄なエネルギィをダイエットすることに励み給へ。 

 

 

  ウエブサイト「家出空間(イエデクーカン)」もどうぞ

現在、イエデクーカン庵主は、山口県で坐禅セッション合宿のお稽古指導に専念しているらしいです。

    ⇒  http://iede.cc/

   

      今日も最後までお読みくださいまして ありがとう 

 

             つながっているすべての人に  ありがとう    

 

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『3つの真実』

2009-03-17 | 生き方
 『 3つの真実 』

                 野口嘉則(よしのり)著  

 

    野口さんと言えば『鏡の法則』でしょうか。

主人公は矢口亮(りょう)
若くして「成功法則」に出会い目標を次々と達成し
ついに会社設立へ
ところが思いもよらないアクシデントで
会社はピンチに

その時、現れた一人の老人
依頼主は誰?この老人は誰?

この謎の老人が
3つの真実を教えてくれる物語です

第1の真実 『人間は肉体を超えた存在である』
第2の真実 『鏡の法則』

今回は、第3の真実からです。

 

『 第3の真実 』

 

第3の真実は、「感情は感じれば解放される」ということじゃ。自分の感情を感じなさい。自分がなにを感じているのかに気づき、そしてそれを、感じられるままに感じて味わうのじゃ」
「・・・・・しかし、いい感情ならじっくり感じてもいいんですが、悪い感情はできるだけ感じたくないですね」
「いい感情、悪い感情とはどんな感情かね?」
「いい感情っていうのは、嬉しいとか楽しいとか、あとは達成感とか充実感とか、そんなポジティブな感情です。逆に、悪い感情っていうのは、悲しみとか不安とか怒りとか、ネガティブな感情のことです」
「ネガティブな感情を感じまいとすると、それを抑圧してしまうことになる。悲しみや不安や怒りは、抑圧してしまえば消えるかね?」
「どうなんだろう?・・・・いや、おそらく消えないんじゃないですか?溜まっていくような気がします」

 

「そのとおりじゃ。さらに、いつも感情を抑圧していると、感情のセンサーが鈍ってきて、自分の内面を感じられなくなってしまう。その結果、喜びや充実感や安らぎにも鈍感になってしまい、本当の幸せを見失うのじゃ。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

生活の中で、自分の感情と向き合ったり、それをあじわったりすることがないと、自分がなにを感じているのかがわからなくなる」
「たしかに、自分の感情なんてほとんど意識してないですね」
「すると、自分の内面を感じるセンサーが鈍ってくる。このセンサーが鈍るということは、『自分にとって本当の幸せとはなにか』に気づくセンサーが鈍るということでもある」
僕は老人の話に聞き入った。
「仕事におけるコミュニケーションでも、事実や理屈を伝えることが中心になっていて、感情が無視されているケースが多い。そんな環境にいると、感じないで考える癖がついてしまう。『自分の心がなにを幸せと感じているか』に気づかないまま、どうすれば勝てるかばかりを考えておる。そんな者がいかに多いことだろう」
「それはそのまま僕のことです」

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

「人は、自分の中のネガティブな感情に向き合っていないと、他人のネガティブな感情を受け止めることができない。たとえば、自分の中の悲しみを抑圧している者は、他人が悲しみを感じることをも抑圧したくなるのじゃ。本来、感情に良いも悪いもない。悲しみや不安を、悪い感情だと思うから抑圧してしまうのじゃ。自分の中で感じていることをそのまま味わうのじゃ」

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

感情は目的として追求するものではなく、結果として受け取るものじゃ、大切なのは、「幸福感」という感情を追い求めることではなく、「幸せな生き方」をすることじゃ。もし君に、予期せぬアクシデントが起き、結果としてネガティブな感情が湧いてきたとしたら、『幸福感』を保つのは難しい。しかし、『幸せな生き方』を保つことはできる。
どんな状況にあっても、君は愛を実践することができる。感謝できることを見い出し、愛する対象を見い出し、人間として成長していくことができる。それこそが『幸せな生き方』じゃ。そのプロセスの中にこそ、本当の幸せはある」

 

    3つの真実は、互いにつながってるんだな~

     野口さん公式ブログ  http://coaching.livedoor.biz/

      ⇒2008年11月19日のブログ「感動ムービー」はおすすめです

     ポッドキャスト「〝幸せ成功法則〟http://siawaseseikou.cocolog-nifty.com/

   ご本人の声のメッセージ集です

 

           今日も最後まで読んでくださって ありがとう 

                       つながっているすべての人に ありがとう    

 

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『今ここに生きる力』

2009-03-13 | 心理
 『 今ここに生きる力 』

               エリエール&シーヤ・カーン著  

           大野百合子 訳  

  

 あまり聞きなれない言葉「変容」。なんか変よ~  

 

 「変化」から「変容」へ

 

かつては「変容」とはあいまいな言葉でしたが、ここ数年でしっかりと市民権を得ました。しかし多くの人がまだ、「変化ーChange」と「変容ーTransformation」はほとんど同じだと思い込んでいます。でも、実はこの二つの言葉の意味は違います。

 

この本を読んだ後、皆さんが正しい言葉遣いができるように言語矯正をしようなどというつもりはまったくありません。ただ、ここで私たちが「変化」に対して「変容」という言葉をどのような意味で用いているのかを理解していただくことはとても大切なことです。このパートは、二つの言葉の意味の違いをはっきりさせることに費やしたいと思います。皆さんが変容した状態を保っていくことができるように。

 

変容は瞬時にしか起きません。時間をかけて起きるものはすべて変化です。変化は斬進的で過去から未来に流れる直線的な時間の中で起こります。

 

それに対して変容は瞬時に起き、指数関数的です。それは状態のシフトであり、時間を前後に移動します。水の分子が摂氏零度を超えると、液体から固体へと瞬時に変わるのと同様です。

 

変化は斬進的、直線的に進みます。時間がかかります。方向性を持ち、測定することができます。立証することが可能です。論理的であり、ものごとは順番に起こります。そして因果の法則に従います。

 

変容は指数関数的で、斬進的ではありません。至るところで一度に起こります。直線的ではありません。時間の外側で起きます。それも瞬時に。

 

変化は「過去/未来」を基準にしていますが、変容は「今」です。変容は今だけ、今この瞬間にのみ起きるのです。変容を起こすために、自分自身の問題にワークすることはできません。変化は「何かをすること」を求めますが、変容は「ありよう」なのです。

 

ここに来られたら
今、この瞬間に着いたら
毎日が特別になるでしょう
毎日は同時に
「深遠」であり、「普通」でもあるのです

 

「瞬間」にいることは、あなたの過ごす日々、あなたの体の感覚や感情に表れてくる葛藤を内包することを可能にします。例えば、いやな気分の日もあるでしょう。でも、瞬間から瞬間に生きることができれば、この居心地の悪さを内包しながらも、満足と安らかさを体験していけるのです。

一度変容を起こせば、アセンション(次元上昇)して、二度と病気になったり死んだりしないという誤った考えを持っている人がたくさんいます。また起こったり、うろたえたりしてはいけないと誤解しています。でもそうではありません。本当に今この瞬間に生きることができれば、人生に起きるどんなことでも統合していくことができます。そして満ち足り、やすらかでいられます。

 

変容を引き起こすのは「気づき」なのです。

 

「気づき」は 何も裁きません
自分自身と、
自分と人生とのかかわり方に立ち会って
ただ、眺めていることなのです

 

    一瞬一瞬起きている出来事にきちんと立ち会うこと

      それは丁寧に生きることにつながるような・・・・・・・・・・

 

   

           今日も最後まで読んでくださって ありがとう 

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『人生を変える“心のDNA”の育て方』

2009-03-06 | 心理
『 人生を変える“心のDNA”の育て方 』

                  石井 裕之 著  

  

 カリスマセラピスト&パーソナルモチベーターだけあってとても前向きですね。石井さんのファンも多いのでは。71分で幸せになれる講演CD付です。読んでも聞いてもどちらも楽しめますよ。

 

  感情にはふたつのタイプがある

 

感情には、何かに反応して受動的に浮かび上がってくる感情と、想像力を駆使して自分で作り出す感情の、ふたつの種類がある----ということを考えてみていただきたいのです。
たとえば、ランチを食べようと入ったレストランで、店員の接客態度が悪すぎて、ひどく腹が立ったとします。そうしますと、その怒りはあなたにとって受動的な感情だと言えるわけです。

カンタンに言えば、その店員の態度によって、あなたは、〝怒られた〟のです。
でも、「まぁ、あの店員もまだ新入りで、いっぱいなんだろう。あいつなりにがんばっているんだろう」というふうに考えているうちに、あなたは、あなた自身が新入り社員だった頃のことを思い出すかもしれません。

そして、必死になって仕事を覚えようとしていたときの一生懸命な自分のことを思い出し、「今では、私も仕事ができて、人の役に立てる社会人になれたのだなぁ」などと思っていると、何だかとても嬉しい気持ちになってきたとします。
そういう場合には、その嬉しい感情というのは、あなたが自分で作り出した能動的なものだと言ってもいいと思うのです。
こんなふうに、感情と言っても、ふたつの種類がある。

前者の反射的・受動的な感情は、動物的な感情に近いと言えます。一方、後者の自分で作る感情は、決して動物にはできない。人間にしかできない、より高次の感情だと言うことができるはずです。

だから、前者のように、反射的・受動的な感情ばかりで生きている人よりも、後者のように自分で作り出した感情によって人生を味わっている人のほうが、より人間らしい、よりレベルの高いあり方をしているとも言えるはずです。


動物は、すべてを本能で行います。しかし、人間は、もっと自由な存在です。自由であることが人間であることの意味なのです。
どんな状況にあっても、「ここで、私はどう感じるか」ということを、自分で選ぶことができるのは、私たちが猿や犬ではなく、人間だからです。

さて、すごく大雑把な言い方をすれば、人生の価値というのは、結局のところ自分が「どう感じたか」ということで決まるのではないでしょうか。


 

 「元気ないね?」


元気がなさそうな人がいると、「元気ないね?」とつい言ってしまいます。
でも、たいていの場合、これは、あまり望ましい言葉がけではないのです。
相手がちょっと親しい人だったら、「私はいつも元気じゃなきゃいけないってこと?」とキレられることすらある。
そこで気づく--------
自分はホントウに相手を想って、「元気ないね?」と言ったのかどうか?
いや、たぶん、自分の不安を相手になすりつけてしまったんだ。「元気ないのは、私といっしょでつまんないからかな?」とか「オレ、何か変なこと言っちゃったかな?」とか、そういう自分の不安を解消するために、〝だけ〟、相手に元気出して欲しいなんて思う。

だって、元気ないことは、相手自身が一番よくわかっているんだから、わざわざ言う必要なんかないはず。

ホントウに相手のことを心配しているなら、「元気ないね?どうしたの?」なんて聞かずに、元気のない相手をそのまま受け入れてあげて、そのことには触れずに、ただただ楽しい気持ちになれるような時間を作ってあげる方がいい。

これはなかなか難しい。つい「元気ないね?」と口から出てしまう。頭でわかってもすぐにできるものじゃない。
そこで、トレーニングをする。「今日はできるだけしゃべらない」っていう日を作る。その日は、ホントウに必要最小限の言葉だけを口にするようにする。
言葉を吐く前に、「これから口を出ようとするこの言葉はホントウに必要だろうか?」と考えてからしゃべるようにする。

でも、不足があってもいけない。言葉足らずで誤解されてしまってもいけない。だから、ホントウに必要かつ十分な言葉を使うように心がけてみるんです。


1日のうちの、ほんの限られた時間帯でかまわないけれど、このトレーニングを真剣にやってみると、実に多くのことに気づきます。
自分がどれだけ不安から無駄な言葉を垂れ流ししていたかということも。
不安からバカ食いする人がいるように、不安から無駄にしゃべりまくる人がいかに多いかということも。
そして、自分の不安を相手に推しつけることと、相手に対する思いやりをいかにごっちゃにしてしまっていたかということも。

そういうことに気づけてようやく、ホントウに思いやりのある言葉が少しずつ話せるようになってくるのです。 

 

   言葉を吐く前に、「これから口を出ようとするこの言葉はホントウに必要だろうか?」と考えてからしゃべるようにする。カルちゃんもこころがけてま~す。

   

      今日も最後までお読みくださいまして ありがとう 

 

             つながっているすべての人に  ありがとう    

 

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