陽 気 村

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『自分を開いてみよう』

2008-04-27 | 生き方
 『 自分を開いてみよう 』

                  森 眞由美 著 

  

  原点に立ち戻ってみよう。

 「自らの直感に基づく」ということを挙げますと、何の根拠もない見込みもないことに頭を突っ込んだり、自分よがりの方向を押し通したりということになりかねないと思われるかもしれませんが、直観は本質に近づけば近づくほど、個人としての欲得やこだわりの入り込む余地はなくなり、どんどん澄んだものになっていくようです。自然の法則といえる大きな流れの中で、自分という個が力みさえしなければ自然に流れゆく道筋があるようです。それが仕事という形をとることもあれば、地域での活動という形となることもあり、個人としての活動という形となることもあり、個人としての活動ということにもなるようです。


もし、「直観」といえるものに急には切り換えれないと思われたとしたら、先ずご自分が今、感じていることを大切にしてみて下さい。人間は頭はごまかせますが、心はごまかせません。他者や社会に対し、怒りや悲しみやあせりや不満を感じているとしたら、私たちは人間が作り出しているものの中での浮沈に感情や生き方を左右されているのかもしれませんし、自然の営みの半分しか味わっていないのかもしれません。


私たちの心の中には雑念といわれるような様々な思いや声が渦巻いていることが多々あり、また明日の生活、会社の未来を支えるための様々な「大事なこと」で頭がいっぱいの場合もあります。でもどうやら頭は忙しくなり、いっぱいになればなるほど人生で最も大切なものから離れ、大きなビジネスチャンスですら見逃すこともあるようです。


日本の経済状況は先行きの目処が立たず、これまで一生の生活を保証しているように見えた人生の歩み方はガラガラと音をたてて崩れようとしています。そのおかげで私たちは今、自分たちの心の奥に押しやってきた「本当の思い」、自分たちの心の底に眠っていた自らの本質の声にようやく耳を傾けることができるようになりました。


忙しいだけの人生、あるいは楽しさを追いかけまわすような人生、昼の疲れを夜、お酒でまぎらわして日々を過ごすような人生、すれ違いの家族、何の交流もない家族でありながら、お互いに不干渉でつつがないように見せているような毎日。
そのような日常の中からでも、自らがもう一度、人間としての生き方の原点に立ち戻り、今日から再出発をしようとしたなら、いつでも私たちは新たな人生を始めることができる----これがこの本のメッセージでもあります。それには過去から逃げない、今をごまかさないなどの原則があり、引っ越したり、職を変えたり、結婚をしたりと形の上での新出発をしてもついてまわる「自分自身に向かう」ことからは逸れないことが一番の基本になります。それは自分を許さなかったり、いたわらなかったりすることとも異なります。


そして「自分に向かう」ということは、自分に厳しくとか、思考の涯(はて)の開拓とかいった種類のものではなく、より本来のものに近づけば近づくほどに、経験しているあらゆることを自我意識のフィルターを通さずジタバタせずに、ただそのままを受けとめるというところが原点であるようです。人間はお互いに様々なクセを見につけているようですので素直に表現し合うことが難しい場合も多くありますが、気づいたことはストレートに受けさせていただき感謝ができるようになることはとても大きな成長のステップであるようです。きつい体験が重なったら、そのようなことがなかったら経験することはなかった自分の中の奥の奥に存在する宇宙にまでつながるような愛と癒しのエネルギーにつながり、味わうことのできる大変な機会をいただいているともいえるようです。

人間はどうあがいてもどうにもならないほどの苦しい状態を経験し味わうことができると、何かを突き抜け、どのような時にも揺るがない平穏そのものの自分に出合うことができるようです。それは例えば懸命に働き借金を返し続けている忙しい状況であっても、その方が経験している生活の質そのものが根本的に全く異なってしまったといえる大きな変化です。


それはどんなにお金をもっていても、自分の中からそのような変化が起きなければ決して得ることも味わうこともできない深い豊かさの享受です。人間が生活の上で必要な範囲の便利さや、ささやかな贅沢の域を超えて身の回りの物を増やし、身につける知識や技術や地位や業績を獲得する中で得てきた豊かさの錯覚は、嵐が吹けば跡形もなく効力を失ってしまいますが、どのような暴風にもかき消されることのない燈火(ともしび)を人間は実は自らのうちに灯すことができる存在であるようです。ただそれは自分という存在が自然の営みのありとあらゆるサポートがあって初めて存続していることを深く自覚し、生きるということの大いなる未来、大きな光明のようなものを深い部分で思い出しているということなのかもしれません。


それは古今東西の先達も探求してきた確固不動の人間像ともいえるかもしれませんが、必ずしもセラピーや瞑想などで確立される状態でもないようです。現代においては厳しさを増す現実の中で人間としての生を全うさせていただくことはより本質に近づいていく学びに満ちているともいえるようです。

    楽しさを追いかけまわすことと、楽しんでいることとは違いますね

     楽しいは追い求めるものでないのかも? 

   

                 今日も最後まで読んでくださってありがとう 

                                      つながっているすべての人にありがとう    

 

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『運命のしくみ 成功のしくみ』

2008-04-23 | スピリチュアル
 運命のしくみ成功のしくみ 『 運命のしくみ 成功のしくみ 

                   ダン・ミルマン 著 

    ある日、山歩きをしている時に見つけた小さな小屋の草ぶきの扉。そこには賢者(女性)が静かに坐り、ほほえんでいた。賢者が教えてくれる数々のこと。

 今回はその中から、信頼の法則をとりあげてみま~す。

    

「あなたはある道よりも、ほかのある道を選択して、その決断の結果として大きな苦難や困難に出会うかもしれない。それは、あなたにとって最高のことや、あなたにとっての学びという観点から見た場合に、間違った選択だったと断言できるだろうか?」


「そう、ですね・・・それはできないと思います」


「信頼とは、あなたの選択は常に正しいとみなすことだよ」


「それほどまでに自分を信頼できればいいんですが」


「自分への信頼は」と、彼女は言った。


「あなた自身の実体験から自然に発達する。あなたは自分の体の本能を、ハートの直観を、宇宙の叡知に触れる心の能力を、信頼することを学ぶことができる」

 -----------------------------------------

「あなたのように確信がもてれば、いいんですけど」と、ぼくは言った。


賢者はまた、ほほえんだ。


「信頼とは、不確実性とともに生きるということだよ。一生を通して自分の道を感じつづけ、闇夜を照らす提灯に導かれるように、自分のハートに導かれながら。絶対的な安全は、絶対的な信頼のなか以外にない。

これは、絶対的に信頼していれば、すべての環境があなたの思いどおりになることではないし、あなたが自分自身を傷つけたり癒したりするたびに、神の正義が働くということでもない。美しいことも悲惨なことも、あらゆる種類の出来事がこの世では起こりうる。私たちの小さな心は、必ずしも大きな全体像を見たり、私たちにとって最高のことが何かを理解できるとは限らない。


だけど、人生の混乱や不安にもかかわらず、花のように信頼して生きることができるようになったとき、そして、スピリットが高次の意志にしたがって、あなたに理解できる範囲を超えて働いているということを信じることができるようになったとき、あなたは、あらゆる場所で、あらゆる人のなかで、あらゆるもののなかで、スピリットが活動していることに気づくでしょう」

-------------------------------------------

「ぼくがそのような内なる叡知に触れることができるようになったときには、ぼくもあなたのように導かれて、あまりにも多くの間違いを避けることができるようになるんでしょうか」


彼女は笑った。「数週間前、私は足を踏みはずして丘を半分すべり落ちた」


「ほんとうですか」


「ほんとう。でもそこで横になっているとき、きれいな石を見つけた。落ちていなければ、それに気づくこともなかった。だからわかるでしょう。

信頼とは、間違うことがないということではないし、いつもすべてが思いどおりになるということでもない。

信頼には、すすんで自分の限界を押し拡げ、間違いを犯して、そこから学ぶということが-----つまり、自分の人生のプロセスを信じるということが含まれている。そのようにしてスピリットを信じれば信じるほど、あなたはますます人生のなかで、スピリットを生きた力としてじかに活用できるようになる」

                                                   
  >花のように信頼して生きることができるようになったとき ・・・・・なんかいいですね~。

   

              最後までお読みいただきありがとうございます 

                               つながっているすべての人にありがとう 

 

                            

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『1日の始まりに開く本』

2008-04-17 | スピリチュアル

1日の始まりに開く本(飛鳥新社)

           『 1日の始まりに開く本 』

                  江原 啓之 著

   ぱらぱらと開いて、飛びこんでくる言葉と感覚

  

   孤独の中でも楽しもう!
     病気の中でも楽しもう!
     悲しみの中でも楽しもう!
     迷いの中でも楽しもう!
     怒りの中でも楽しもう!

   踏みにじってくれる人がいるからこそ、
      踏みにじられる経験を知り、
      人を踏みにじらない人間に成長できる。
      だから私は、何も恐れない。

    休んではいけないということではなく、
      動の時にも、静の時にも、
      たとえどんな時にでも、心をこめて、
      経験と感動を忘れないこと。

   「傷つく」という思いは「傲慢」から生ずる。
      自分が真に謙虚であるならば、
      傷つくことなど一切ない。
     だって、人はだれでも「何様」でもないのだから。

   人に悩みはない。
     あるのは問題のみ。

   どんとこい!

        花粉症の症状が軽くなって 何だかうれしいなぁ  

        

                 今日も最後まで読んでくださってありがとう 

                                      つながっているすべての人にありがとう    

 

 

 

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『整体から見る気と身体』

2008-04-13 | 健康

整体から見る気と身体(筑摩書房)

          『 整体から見る気と身体 』

                片山 洋次郎 著  

    最近花粉症なのかな~一度くしゃみすると連続まるで加トちゃんのコントみたいになっちゃう。そんな時に、見つけた花粉症のお話。なんか当たっているような~


 花粉症の条件

花粉症は最近多いですね。これは花粉が増えたからでしょうか。
昔から杉の木はありますから、花粉の量が飛躍的に増えたためばかりとは、考えにくいと思います。また花粉のたくさんある地方の人たちが特になっているかというと、そうでもない。原因は、単なる花粉の量の問題ではないと思います。

一つは花粉症の場合、花粉があるというのは外因で、むしろ、その人の体が過敏さをどの程度持っているか、それから体質が問題ですね。それから季節の変化に対して、鼻とか喉の気の流れが詰まっていて、炎症をそこで起こしやすくなっているという条件がありますね。もう一つの条件として、同じような状態でも気が頭の方じゃなくて丹田の方に集まっている場合はならないといえるんです。これはだから、精神的なものとつながっていて、楽しいことをやっているときは起こりにくくて、いやなことをやっているとき、例えば会社に行くと余計ひどくなるという人がいます。花粉症は、普通は朝起きたときが一番なりやすいのに、朝より、会社に行ってから余計ひどくなるということは、精神的な緊張によって、頭の方にエネルギーが集まってしまい、それで余計になりやすくなっている。今あげた中のどれか一つの条件がなければ、花粉症という症状は出ないんです。

だから花粉は、一つの条件ではありますけれども、一つの条件に過ぎない。それを花粉症という名前をつけると、やはり花粉のせいだと思ってしまう。たぶん杉の花粉じゃなくても、他のものでも、その時期だったらなるんじゃないでしょうか。たまたま杉の花粉が飛ぶときに、季節的にも非常に体の状態が合っているということなんですね。

 肩に力が入ると丹田の力は抜けてしまう

背中の筋肉が緊張すれば、腰や背中だけじゃなくて首の方までいきますから、首や肩だけが緊張していないということはないですね。それで、体全体の関連としては、丹田に力が入っていれば、肩の周りは抜けているということになります。いい状態というのは、そういう状態なんですね。「肩に力が入ってしまってはいけない」という言い方がありますが、スポーツをやる場合でもそうですし、精神的な意味でも「肩に力が入りすぎだ」というようなことがよくいわれます。基本的にはそういう状態は、うまく体を使えないということです。


例えば表現としても、「腹を括(くく)る」とか、「腹を割る」とか、「腹が立つ」とか、「腹に据えかねる」とか、「片腹痛い」とか、そういう表現はあまり今使いませんね。今は、「頭にくる」とか、「肩が凝る」とか、「むかつく」とか、「吐きそうだ」とか、「頭がくらくらする」だとか、そういうどんどん体の上に言葉の表現が、向かってきているんですね。昔に比べてそれだけ頭の方に、意識が集まっている、気が集まっているということですね。それだけ、逆にいうとお腹の方から力が抜けているということだろうと思います。

 足から息を吐く

足の方にエネルギーを集めるというんですが、それはどういう方法で・・・・。
自分でやる場合なんですが、足の裏に「湧泉(ゆうせん)」というツボがあります。そこが足のエネルギーの発散の中心になっている所で、触っているとじーんと細かい振動がしてきます。そこが振動してくると、今度は発散できるようになるんですね。そこの所から息を吐くつもりで吐けばいいんで、うまく吐けるようになると、どんどん足の方に流れがいくわけです。足の方に気の流れがいくと、同時に頭の方でもうまく発散されるのです。自分で頭の方から発散させようとするのは、なかなかうまくいきませんから、足の方から基本的にはやっていく。あと、肩の周りから吐くつもりで息を吐くというのもいいですね。肩の周りに集まっているのが発散してくれば、涼しくなってきます。やはり皮膚の表面がじーんとバイブレーションを起こすんですね。その両方とも、自分でやればいいのです。
 

 

   花粉症が身体からのメッセージだとするとありがたいですね~ 

         参考 マイHPから ⇒ 『整体入門』  

 

              最後まで読んでくださってありがとう 

                               つながっているすべての人にありがとう 

 

                         

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『こころのちから』

2008-04-09 | 詩集

images 『 こころのちから 』

              青伊 真(あおい しん) 著 

 

   青伊さんが見続けてきた“こころの世界”。もしかすると同じこころ模様を見てきているのかもしれない。    

 手のひら

手のひらに
強さと弱さを握ってみた
潰れそうな弱さと
突き上げてくる強さ
どちらも僕の今の形
しっかり掴んでいたはずの
自分というものが
するすると抜けていく
まっさらな手のひらを眺めてみると
小さくなった未来が見えた


 引き際

引き際は難しい
進むべきか
戻るべきか
その凌ぎ合いが
心を揺さぶる
諦めきれない迷いが
行動を鈍くする
引き際は
必ず
孤独とともにやって来る
新しい
時を抱えて


 心広く

心の広さをたとえると
まるで検討もつかない
心の広さは作るものではなく
自然に生まれてくるもの
味わった経験や
感じた苦しさから
どんどん裾野は広がっていく
心の広さが大きくなると
大事な人の心にも届くだろう
心と心は引き寄せ合って
心の深さを作ってゆく
心広く生きていきたい
心を受け止められるように

 

     プレゼントされた一冊です。ありがとう。大きな活字なのでとても読みやすかったです。自分自身と戦いながら書きためたとあって、いろいろあったんだろうなぁ て思います。こころを見つめながら生きることっていいですね~

 

                 今日も最後までお読みくださいましてありがとう 

                                      つながっているすべての人にありがとう    

 

   

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