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『植物の力』

2008-03-28 | スピリチュアル
本 『 植物の力 』

              内野 久美子  著 

 本のタイトルは『植物の力~潜在意識を支えるもの~』です。潜在意識を支える?ってどういうことと思いましたが読んでいくうちに、植物が持つ世界にもつながっているような気がしましたよ

  植物と無意識

ここで人間の無意識、つまり潜在意識の事を考えてみたいと思います。なぜなら、植物と人間のつきあいは、これなくしては成り立たないからです。人間や動物とのつきあいには、どうしても意識の集中力が欠かせません。どんなに親しくて、ほっとする間柄でも、言葉や気遣いはあるでしょう。犬、猫、鳥であっても、人間ほどは面倒ではありませんが、世話するにも、愛するにも、自覚が必要です。こちらから働きかける姿勢が必要ですし、それなりのテンションは要求されます。


植物にももちろんケアはいりますが、樹木のようなものになると、「受け止められている」という、気持ちの方が強くなるはずです。その結果「いつもそこにある」ものは、無意識の領域に入ってしまいます。私達は生活の中の家具や、いつも顔を揃えている家族や、そして健康などは、無意識に扱ってしまいがちです。「変化」だけが、意識の上にあがって来ますから、私達の生より変化がゆっくりなものは、意識で感じとる対象から落ちてしまいます。


植物は私達の生活習慣と同じように、「当たり前」の領域に居るのです。充実した経験を沢山無意識下に持った人、例えば幼児体験が良い人などは、知らず知らず他の人を惹きつけます。これと同じ事が、豊かな自然環境にも言えるでしょう。ただどちらも、それに感謝し、自覚しているかどうかが問題ですが。


山や森をみると、まなざしがやわらかくなるのに気づきませんか。それにつれ、心がゆるみ、脳波が変わります。少しぼんやりした気分になり、そうなると、無意識との距離が近づきます。自分の外側にきっちり引いていたラインも消え、感覚が広がります。
気持ちも受け止めようという体勢に自動的に変化しますし、そうなった分だけ、受け止めてもらえます。やさしい気持ちになります。植物の間には、そんなコミュニケーションが成り立ちます。自我という意識状態が休息に入ったわけです。  


人間にとって、植物は無意識を体験できる場を与えてくれます。特に樹木は一本あっただけでもほっとしますが、たくさんあれば、私達の日常抱えている自我の頑張りを笑い飛ばしてしまうほどになります。私達は、どうしても人間中心に考え、意識が主役と思い、自分の無意識の行動を軽く見てしまいます。でも切羽つまったり、大きな決断をしたときは、いつも無意識が働き、次の道を示すことが多いのです。

 大木が生活の中に

なぜ樹木、それも大木が私達にとって必要なのでしょうか。歴史が私達にとって必要なのと同じように、何百年という時間を命でもって表現しているものがなければならないのです。私達の命がそれに共鳴して、無意識に気持ちを変える事ができるからです。

大木のある所に行けば行くほど、神妙に謙虚になっていきます。私達の命は、古木に比べればあまりにはかないのです。そのふだんまったく忘れているその事実を思いだし、人は我に返っていきます。自分の本来の位置を思い出します。命の長さの比較だけではありません。人類の本来の姿に思いを馳せるのです。それが僻地の山奥や絶海の孤島ではなく、また注連縄をはられた神社という特殊な場だけでなく、身近な生活空間にあれば、それだけ、人は自分の万能感にブレーキをかけやすくなり、賢くなれます。生活の場であり、そこに何気なくあることで、より深く私達の気持ちに影響を与えていくのですから。

人間は、非常に幅の広い共鳴力を持っています。それが人類の特徴です。
テオ・ギンベルという人が「色彩療法」という本の中に書いていますが、人間の脳波はベータ波という波長だそうです。動物はアルファ波で、植物はシータ波、石のような鉱物はデルタ波ということです。動物や植物とお話出来る人が時々いますが、彼等は自分たちの波長をチャンネルを回すように、そこに合わせることでコミュニケーションができます。たぶん私達は誰でもできるはずです。


     内野さんてきっと、植物や鉱物とも会話ができる人なのでしょう。植物の「見えざる力」ってもしかしたら想像以上にはかりしれないものがあるのかもしれませんね。

 

                 今日も最後までお読みくださいましてありがとう 

                                      つながっているすべての人にありがとう    

 

 


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『やさしいフォーカシング』

2008-03-26 | 心理

やさしいフォーカシング(コスモス・ライブラリー)

          『 やさしいフォーカシング 』

               アン・ワイザー・コーネル著

                大澤美枝子/日笠摩子 訳 

   からだにはいろいろな面での知恵がひそんでいるらしいのです。

 フォーカシングって何

 フォーカシングとは、からだを使って、自己の気づきを促し、こころを癒していく、独特のプロセスです。それはひどく単純なことです。あなたがどんなふうに感じているかに注意を向けて、その感じと会話をするのです。その会話では、あなたはほとんど聴き役にまわります。

 フォーカシングは、生活の中で起こっている事柄について、からだの内側で何かを感じるという、おなじみの経験から始めます。立ち上がって話し始める時、胃のあたりがざわざわする感じとか、大切な電話をかけようとすると胸がきゅーと締めつけられる感じなど、私たちが「フェルトセンス(感じられた意味感覚)」と呼んでいるものを、------何らかの意味を持っている身体感覚のことですが----あなたはすでに経験しているわけです。
それでは、胃がざわざわする感じとか、胸がきゅーっと締めつけられる感じとか、喉が詰まった感じがする時、あなただったらどうしますか。私たち皆と同じようだったら、それをなくそうとするでしょうね。「どうして一番大事な時に限ってこんなばかみたいな感じになるの」といった憎まれ口をたたいたり、「私がもっとできた人間だったら、こんなふうに上がったりしないのに」と自分をけなしたり、あるいは、深呼吸を繰り返すとか、一杯飲むとか、たばこを一服吸うかもしれませんね。


 もし、あなたがフォーカシングを知らなかったら、そこにある感じに耳を傾けるとか、その感じがあなたに話しかけるようにしむけるというようなことはしないわけです。


 でも、あなたが感じているその感じのほうから話しかけてもらうことができたとしましょう。そうなれば、深い深い部分、豊かに満ち満ちている部分が開かれて、あなた自身が深く豊かに変わっていくことになるでしょう。こころもからだも全部ひっくるめた自分全体の感じ、自分という全存在に備わっている深く豊かな部分が開かれるということです。そして、さらに、その感じに耳を傾けるならば、それは楽な感じにほぐれてきて、あなたがしていることをもっとはっきりさせて、迷わずまっすぐすすめるようにしてくれます。生活のこの深いところであなたを驚かせたり喜ばせたりしながら、もっともっと前向きに進むようにしてくれると思います。


 フォーカシングは、このように、やさしく思いやりを込めて、こころから受けとめてあげる姿勢でからだに耳を傾け、内なる自己があなたに伝えるメッセージを聴いていく独特のプロセスです。からだの内側に貯えられている知恵に敬意を払い、からだを通してあなたに語りかけてくる微妙なレベルの気づきを知るようになるプロセスです。 


 からだに耳を傾けることで、洞察、身体のほぐれ、生活の前向きの変化が得られます。あなたは自分のことをもっとわかるようになり、もっと快適になり、そして、生活をもっと自分が望むように創造していくように行動するようになると思います。

 

 からだへの問いかけと感じるていることに「こんにちは」と挨拶して、ただただ受けとめていく。自分自身が一番の聴き役なのかもー。

            

                 今日も最後までお読みくださいましてありがとう 

                                      つながっているすべての人にありがとう 


 

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『天使のいる星で』

2008-03-19 | 詩集

天使のいる星で

             『 天使のいる星で 』

                    鈴木 重子 著・奥 勝實 絵 

   ボサノバァ、ジャズボーカリストである鈴木重子(しげこ)さんの作品です。

    透きとおった彼女の歌声は、読んでいくうちに納得~。

     神さまと話す  

私はときどき、神さまとも話します。
神さまは、天使さまとはちがって、
かなり、ユーモアのあるお方です。

このあいだ、たいくつだったので、
神さまに話しかけてみました。

し「神さま、神さま、おいでですか?」
か「いないはずがないでしょう、
  私は、神さまなのですからね。」
し「では、神さま、質問してもいいですか?」
か「どうぞ、なんでも。」
し「ええと、あの、ふだん神さまは、
  何をしておられるのですか?」
か「私は、特に何もすることがありません。
  神さまなので、ただ、いるだけ。」

あ、そう。

し「では、雨の日には、    
  何をしておられるのですか?」 
か「雨の日には、雨になって、
  地面に落っこちています。
  また、公園の木になって、
  雨に打たれたりもしています。
  それから、小さな女の子になって、
  窓から雨のつぶをながめたり。」

忙しいのね。

し「それでは、私が悩みごとで
  ぐるぐるしているときは?」
  か「あーあ、そんなこと、私にまかせておけばいいのに、
  と思ったり、いっしょに頭の中を
  ぐるぐる、回ったり。」

そうか、なんだか、わかってきた。

し「要するに、神さまは、
  私たち全部の中にも、外にもいて、
  私たちのすることをいっしょにしたり、
  ながめたりしている、ということですね。」
か「そのとおり。」
し「宇宙の、ありとあらゆるもの、全部?」
か「ええ、全部。」
し「たいへんですね。」
 か「あなたたちの体の、何億もの細胞を、
 あなたたちはひとつひとつ、正確に動かして、
 歩いたり、話したりしていますが、
 たいへんですか?」
し「そうでもありません、あたりまえだから。」
 か「でしょう。それと、おんなじ。」
し「神さまって、なんて頭がいい!」
か「神さまには、頭はありません。」

こんなふうに、お話すること
1時間、
気がつくと、私のこころは、
すっかり広がって、
宇宙いっぱいになったようでした。

さすが、神さま。

と思ったら、こう言われました。


か「なにしろ、あなたは、私なんですから。」

ああ、すごいこと!

 

  鳥が木の枝でバタバタバタ、そう、羽根の手入れをしていたんですね

    なんどもくりかえしています

    ときおり向こうの枝に飛んではバタバタバタ

    ・・・・・・・

    気持ちよ~く飛べるかな~

    鳥はカラスでした~  

         

              最後まで読んでくださってありがとう 

                               つながっているすべての人にありがとう 

                           

 

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『心の痛みを受けとめること』

2008-03-05 | エッセイ
 『 心の痛みを受けとめること 』

                 山元加津子 文・今井ちひろ 絵 

 

  ゆっくり、ゆっくり読みました~  今回は、ネパールの洪水のお話からです。

関空から飛び立った飛行機は、夕方ずいぶん薄暗くなったころ、ネパールの上空にさしかかりました。
ふと飛行機の窓から下を見て驚きました。
「あれは何?」
窓際の人がみんなその景色を見ていました。
「洪水?」
「まさか」                         

飛行機に乗っていたそのとき、眼下に広がっていたのは、一面、何キロにもわたって地面をおおう茶色い泥水で、そこには、大きな大きな川が今は何本もの黒い筋になって流れていました。
「まさか」という言葉が、思わず口から出たのは、それがまさにノアの箱舟の、あの大洪水の情景だったからです。茶色い土砂だけが、ただひたすら何キロも広がり、草も木も何も見えません。
けれどもその泥の大河の中に、小さな黄色い光がいくつも瞬いているのが見えたのです。
「泥の中に人が住んでる?」
「生きてるの?」

本当に不思議でした。ゆっくり流れる土砂の帯のあいだに中州(なかす)ができ、それも全部土色におおわれているのだけど、わずかに地面がのぞいているところがあり、そこに灯りがかすかに揺れているのです。まるで息をしているように。電気なんて来てないはずなのに、いったいなんの灯りだろう?泥の海の中で、食べ物はどうしているんだろう。食べ物のある町までいったいどのくらい歩くんだろう。長い距離を歩けない小さい子やお年寄りがいるから、家族で安全なところへ行くことはできるのだろうか、いや大人でも、歩いてどこかへ行くことはできるのだろうか?果てしなく続く土砂の川を見ながら、いろいろなことを考えました。
信じられないけど、これはやっぱり洪水なのだ。空からその様子を見ている自分も、とても不思議でした。こんなに広い範囲の災害の様子を見わたすなんて、飛行機がなかった時代には考えられなかったこと。できるのは神様だけだったろう。そんなことを思っていました。

ネパール空港には、ギータちゃんというガイドさんが待っていてくれました。
私はさっそく、飛行機から見えた景色のことを尋ねました。
「洪水のように見えたのですけど」
「はい、洪水です。毎年ネパールは雨期になると、川が氾濫して、何百人もの人が亡くなります」
「何百人・・・・?」

不思議でなりませんでした。毎年、川が氾濫して、たくさんの人が亡くなるようなところに、人々はなぜ住み続けるのでしょう。
「川は氾濫すると肥沃(ひよく)な土砂を運びます。そこからはお米がたくさんとれます。ネパールではあまりお米がとれませんが、川沿いの肥えた土地にはお米がたくさん実り、それで人が住めるんです」
「でも、でも、毎年たくさん亡くなるのでしょう。いくらお米がとれるとしても、来年の夏は自分が死ぬかもしれない。家族が死ぬかもしれない。家も流されるかもしれない。それでも、そこに住むのですか?」
ギータちゃんは静かに言いました。
「人は死ぬものです。流された死体は栄養になります。その栄養が、また洪水で土砂に運ばれてお米が実るのです。すべてがめぐるのです」
ギータちゃんの言葉に私は大きな衝撃をうけました。いったいそんな話があるのだろうか。

輪廻転生(りんねてんせい)・・・人は死ぬと何かに変わって生死を繰り返す、という意味の言葉があります。亡くなっても、命は形を変えて続いていくから大丈夫」と思っているのでしょうか?それともほかへ移っても、生計を立てることが難しいからなのでしょうか?とてもとても驚くことでした。
後日、友だちにその話をしたら、「まさに曼荼羅の世界だね」と友だちがぽつりと言いました。
私はどうしても自分だったらどうだろうと考えてしまいます。いくらお米がとれるからといって、流されて命を落とすかもしれないところに住むのは、とても不安です。人は死ぬものだから・・・・そんなふうにはなかなか考えられないです。

   なぜ川が氾濫して、たくさんの人が亡くなるようなところに、住み続けるのか?

     う~ん、カルちゃんにも、よくわかりませ~ん。

      

           今日も最後までお読みくださいましてありがとう 

                                      つながっているすべての人にありがとう    

 

 

 

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『悩むあなたのままでいい』

2008-03-01 | 心理

悩むあなたのままでいい(白揚社)

           『 悩むあなたのままでいい 』

               生活の発見会著

  <著者紹介>日本で生まれた神経質症治療のための理論、森田療法。医師や実践者が語る。

 今回は、ちょっと長くて読みづらいかな~

  

あたりまえに生きる  水谷 啓二

森田療法をべつの名前で「自覚療法」といいます。この「自覚する」ということは、他の人の心に目覚めるのではありません。今ここに、生きて呼吸をしている、その自分の本心というものをごまかすことをしないでそのままに正しく知り、「あるがままにある」「そのままにある」ということです。
人は、恥ずかしいときは恥ずかしい。腹立たしいときには腹立たしい。悲しいときに悲しい。うれしいときにはうれしい。こわいときにはこわい・・・・。それを良いとか悪いとか言わない。言ったって始まらない。そういうふうに、折りに触れて起こってくるところの感情は、どうしようもないことです。ですから、仮にその感情などが顔色に出たり、あるいは現実にどもったり、実際にふるえたりしても、それは仕方がない。それはそのときに起こった現象なのだから、そのままにあるしかありません。


ところが、私などはたいへん臆病者で、これ以上に臆病な人間はあまりいないと思うほどなのに、それを臆病でないかのようなふりをしたり、訥弁(とつべん)中の訥弁でありながら、それを雄弁家のふりをしたりする。そういう余計なことはもう止そう!あるがままに生きよう!そうしてやっていると、ものごとは一番うまくゆくものなんだ、ということを、みずから体験的に、あるいは実行を通してわかっていかないといけません。


人々の中には、自分を立派そうに見せかけたり、また修養に励んだりして、なにか偉い人間になろうというふうなムリな努力をなさる方もあるようです。しかしどうも、そういうことは私などの柄に合いません。もともとはなはだ臆病で、はなはだ平凡で、はなはだあたりまえで、しかもはなはだ欲が深い。それがわれわれ神経質な者の持ち前だろうと思います。その持ち前のままで生かそうじゃないか、持ち前のままで生きようじゃないか。そのほかにありようがないではないか-------それが「あるがままにある」ということです。ですから、自分の、現在の心の動きというものについて、あまり是非善悪をいわないで、そのままに受け容れてゆくことが大切です。
生きている一人の人間、その人間の実際の生活を通じて、一人ひとりがあたりまえに生きるということ。これが一番肝心なところではないか、と私は思っています。

けれども、人間というのは、やはり妙な理想像といったものを立てて、自分の描いた理想のようにありたいと願う。つねに健康はつらつとしていたい、いつも、ほがらかでありたい、絶対にどもらないような人間でありたい、人前で赤くならないような人間でありたい、という具合です。欲望過大というか、あるいは観念的な理想像というか。そんなことは実際にはあり得ないのに、あり得るかのように空想して、かねて理想のようになろうと考えている。なれるものであると思っている。そこにとらわれが起こる背景というものがあるのではないか。


私ども人間は、平凡でつつましい人間生活というものを軽んじ、なにか偉そうなことをやって人にヤンヤと喝采されなくてはどうも気がすまない、という妙なところがあります。私はそれは、まだ人間としては未熟な段階であろうと思うのです。


平凡というのは、あまり目立たないことです。神経質もたいていは平凡な人間です。そこで勤め人であれば、朝はちゃんと遅刻しないように出勤すること、勤務時間中は、ときには多少さぼるようなことはあっても、あまりさぼらないで、あたりまえにやってゆくことです。一見退屈で、つまらないように見えることですが、もしそういう生活が二十年、三十年と積み重ねられてゆけば、その結果、非常に非凡なる成果を生むのではないかと思うのです。したがって、「平凡」と「非凡」ということは、なにも対立することではありません。平凡ということを軽蔑するから、そこに間違いが起こってくるわけです。で、一見平凡なる生活が二十年、三十年、あるいはそれ以上にもわたると、その平凡なる生活の積み重なりがしまいにはその人の大きな人間的成長はもとより、社会的な貢献までもたらすことになるのだと思っています。

「純なる心」あるいは「自己本来の性情」について、森田正馬先生は次のように説明しています。
「純なる心とは、われわれ本来の感情であって、この感情の厳然たる事実を、いたずらに否定したり、ごまかしたりしないことが大切である。われわれは空想によってではなしに、この動かしがたい事実をもととして、初めて成長発展するのである。まず是非善悪の標準を定めて、それからのちに、この標準にのっとってやってゆくというような、観念的な理想主義ではけっしてうまくゆくものではない。あるいはまた自分の気分を満足させさえすればよい、というような気分本位でもいけない・・・・」


すなわち、森田先生は「事実本位」と言っています。このことばにそって話をすすめると、事実本位に生活してはじめて、おのずからそこに創造とか発展というものが生まれるのです。私どもが何か仕事をするときに、いやだなぁ、めんどくさいなぁという気持ちが起こります。そのときには素直に、そういう気持ちが起こるままにする、それが「あるがまま」です。つまり、めんどうだなぁ、いやだなぁ、恥ずかしいなぁという感じが起こるときには、その心のままにあり、その心から出発しさえすれば、何ごともけっして無責任なやり方にはならないのです。もっとも適切に、有効に、迅速にそれをやり遂げたいという工夫が、必ずひとりでに起こってくるものなのです。


(中略)


ところが、世の中には観念的な理想主義の人々が多いもので、なにか型にはまった理想を立てて、「われわれは忍耐しなければならない」あるいは、「努力しなければならない」また「こうこうしなければならない」というふうに、われとわが心を束縛する傾向がある。われとわが心を束縛すると、そのために心の働きはいたずらに人間本来・自己本来の感情を否定し、あるいはなくしようとすることになる。要するにこれは、不可能を可能にしようとするために苦しむのであって、自己本来の欲求のままに困難を切り開いて、前向きに前身する方向には少しも発展しないのです。
この前向きの方向、いわゆる実際の仕事に打ち込んでゆけば、人間はひとりでに前進的に発展してゆく。けれども、実際の仕事ではなしに、理想主義とか観念論、あるいは見栄とか虚栄心、そういうものにとらわれるために、まっすぐに行っているつもりでまっすぐ行かないで、悪循環を形成してくるわけです。つまり、この悪循環の形成が神経症の正体であろうと思います。

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ここで、「純なる心」あるいは「自己本来の心」がどういうものであるか、森田先生が挙げた実例にもとづいて、わかりやすく説明してみましょう。


たとえばお皿を落とし、ガチャーン!と割るとします。そのとき、純なる心はどのように発動するかというと、「しまった!おしいことをした」と瞬間的に感じる。「しまった!おしいことをした・・・・・・これは何とかならんかな」----そう思って皿を拾いあげる、つぎ合わせてみる。あるいはまた、掃除機をもってきて人がケガをしないように、こわれた破片をかたづける、というふうな現れ方をします。それが純なる心です。「しまった!おしいことをした」------それだけ、そのまんまでいいのです。


では反対に、純なる心のままでないと、どういうことになるか----まず対人恐怖の人なんかだと、皿を割ったとたんには、一瞬「しまった!」という心はひらめくけれども、自分でははっきり自覚しない。そこですぐ、つぎに第二念、第三念というものが起こってきます。つまり、自分が皿を割ったとき、それを「人が知ったら笑うんじゃあるまいか」あるいは「アイツは、どうもそそっかしいと言われるんじゃあるまいか」というように考えます。すなわち、そこには、すでに自己防衛的な心が働いているわけで、もはやこれは純なる心ではありません。
この自己防衛的な心でいくと、どうなるでしょう。「買ってきて弁償すればいいだろう」などという考え方に発展していきます。


(中略)


純なる心は、悲観でもない。楽観でもない。ただその瞬間、その皿を割った瞬間にひらめくように感じる心、そのままであること、それを悲観にも楽観にも結びつけない。すべてそのままでうまくいくし、また、そういう人は何かにつけてどんどん上達するから、しだいに、いろいろな面で発展していくようになれるわけであります。

 

    いつも購読しているメルマガの内容に、ありがとうの反対は?というのがありました。その方は「ありがとうの反対は、あたりまえ」って言っていたのですが、カルちゃんは「なんか違うなぁ~」って感じたんです。みなさんは、どう思われますか?今日から3月ですね-----

                     

              今日も最後までお読みくださいましてありがとう 

                                      つながっているすべての人にありがとう    

 

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