陽 気 村

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『ボクは坊さん』

2010-04-29 | 仏教
 『 ボクは坊さん 

                        白川 密成 著  

 

 白川住職は、24歳で、僧侶であった祖父の他界により四国八十八ヶ所のお寺「栄福寺」の住職になります。坊さんをやるとは何かを、自分なりの方法で、本音をそのまま伝えてくださっています。毎回お話の中に、仏の教えが紹介されています。仏の教えをもって、自らをととのえる姿勢が新鮮です。さすが坊さん !!

 

「〝こころ〟しかもつことができないこと」

 

の時、ある自分なりの「気づき」のようなものが、僕の胸に飛び込み、馴染んできた。

「全部、“こころ”なのかもしれない」

その感覚は、よく耳にするような「みなさん、これからは、お金でも体でもありません。心の時代なのです(満面の笑み)」というような話とは対極にある、感情の洪水を全身で感じるようなものだった。

つまり僕たちのもつ欲求や、目的、そういうすべてを突き動かすなにかが、「どんな心が欲しいのか?」というひとつの問いかけに集約できると思ったのだ。

たとえば「お金が欲しいな」と感じた時、僕たちは何を求めているのだろうか?それは、
「お金を持っている、ということを感じているわたしの“こころ”」
を欲しがっているのではないだろうか。

「いや、全然ちがう。私はヴィトンの大きいバッグという“物”が欲しいから、お金が欲しいの。心じゃないよ。」

とあなたは言うかもしれないけれど、それも「ヴィトンの大きなバッグがもたらしてくれる、私のこころ」が欲しいはずなのだ。僕は同じような問答を電車の中で一時間ぐらい繰り返してみたのだけれど、欲しいのはいつも、“こころ”だけだった。

「なんだか体を動かしたいな」という時も「体を動かした時の充足感や快感という“こころ”」が欲しいと思うし、「あなたが好きなんです」という思いでさえも「あなたといる時、あなたを考えた時に、私の感じる、私の“こころ”が好きなんです」ということだ。あまりロマンチックな話ではないけれど。

逆に「嫌だな」という時でも、「嫌だと感じる“こころ”を持つことがイヤ」なのだ。なんだか、僕はそんなふうに考えることが、たまらなくおもしろく感じ始めていた。
「歯医者に行きたくない」と思うのは「痛いと感じる“こころ”をもつこと」を嫌がっているわけだし、「あなた、行かないで!」というのも、行ってしまった後に感じる自分のこころをもつことが嫌なのだ。
「だから、なんだっていうんだよ!」
と怒られてしまいそうだけれど、これは僕にとってはすごく興味深い話しだった。

僕たちは「生きる」という人生の中でいろいろなものをもったり、経験したりできると思っているけれど、「僕たちは“こころ”しか、もつことができない。そして、その心を味わうだけが生きるということ」、そんなふうに言うことはできないだろうか。個人的には、言えると思った。

そして生きるということは、そんなにもシンプルなことなのだろうか。ただここに、こころがあることが、僕たちが生きるということなんて。

「『経』にいはく、〝云何(いかん)が菩提とならば、いはく、実の如く自心を知るなり〟と。
これ、この一句に無量の義を含めり。竪(しゅ)には十重の浅深を顕(あら)はし、横(おう)には塵数(ぢんじゅ)の広多を示す」(弘法大師 空海 『秘密曼荼羅十住心論』)

【現代語訳『大日経』に、〝菩提(さとり)とは何かというならば、ありのままに自らの心を知ることである〟とあるが、まさにこの一句に量り知れない意味を含んでいる。竪(たて)には十の重なりをもつところの意味の浅さ深さを顕(あら)わし、横には塵(ちり)のように多数の広くて多いことを示す】

 

   僕たちは誰でも 思いを叶えてますね!!

         

        栄福寺HP http://www.eifukuji.jp/          

         

           最後までお読みくださって ありがとう 

              つながっているすべての人に ありがとう 

                                                  

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『心のままに生きてごらん』

2010-04-25 | エッセイ
『 心のままに生きてごらん 

              リチャード・ウィルキンズ 

             大西 央士 訳

                 

    150のとても短くて 深遠なメッセージ集です。

   短くても しっかりハートに届きます。 

   その時々で、響く言葉は違うでことでしょう。

   

   

 鳥はよけいなものを背負わない。だから飛べるんだよね。

 

 くらべたら、勝つか負けるかしかないんだよ。

 

手をひくのは

なげだすのとは違う!

 

なにもおわりはしない。ただかわるだけ。

 

なんでもわるいのは他人と考えるひともいれば

なんでもわるいのは自分と考えるひともいて、

なにもわるくないと考えるひともいる。

 

しあわせは自分のなかでかなえるもの!

 

ひとつ、しあわせに条件をつければ、

ひとつ、なやみのたねをまいたことになる。

 

   喜び方も人それぞれですね。

    『喜び』を自分の中に見出せればいいよね。それができれば、 いつでも笑えるでしょ !

 

                    

          最後までお読みくださって ありがとう 

              つながっているすべての人に ありがとう 

                                                   

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『心を空っぽにすれば夢が叶う』

2010-04-23 | 瞑想
 『 心を空っぽにすれば夢が叶う 』

                   ヨグマタ 相川圭子 著 

 

   ヨグマタ とは「ヨガの母」という意味です。

ヒマラヤでの厳しい修行を経て 、人の意識の最高の境地「真のサマディ」に到達された

日本人では唯一の人。こんな素晴らしい方が日本にいらっしゃるんですね。 

 

  頭はないものと思う

 

真理を知るためには、頭脳はないと思ったほうがよいかもしれません。なぜなら、頭が働きすぎると、とかく、よけいなことに悩んだり、苦しんだりするからです。

頭のスイッチを切るということは、どんなに素晴らしいことでしょうか。頭を進化させ、生まれ変わるためには、いったん消し去り、深くリラックスするのです。頭を使わないようにすれば、すべての曇りが消え、クリアになり、生命エネルギーは溜まっていきます。そして、直感によってすべてが明らかに、すみやかに創造されるのです。

 

  思いは矢のように飛んでいく

 

不思議だと思われるかもしれませんが、あなたが思ったことはほぼ実現します。ここに真理があります。
浄化して純粋になった心で思ったことは、そのほとんどが実現していくのです。
それだけに、ふだんから良いことだけを思うようにして、悪いことを思わないことが肝心です。
「自分がどんなことを思っても、べつに自分を汚さないし、他人も汚さない」と思うかもしれませんが、それは誤りです。仮にも「あの人なんか、死んでしまえ」と思ったら大変です。その思いは矢のように飛んでいき、鋭い矢のように相手に突き刺さるのです。たわむれであっても、悪いことを思ったら、本当に大変なことが起きると覚悟していただきたいのです。


同じように、「自分はダメな人間だ」と思うのもいけません。ついつい、人は軽い気持ちで、そのように嘆きがちですが、そうした否定的なことを思っていると、やはり現実化して、いつか本当に自らに危害が及びかねません。たとえ今今生で現実化しなくても、来世で現実化することもあります。


従って、私たちは、心を浄化する人となっても、瞑想者となっても、また、そうでない人であっても、常に良いエネルギーを出し、良い行為をしていかなければならないのです。自分が思ったことは自分に刻まれると同時に、すべて相手に伝わっています。そして、その行為もまたすべて、宇宙空間にも記憶され、自分にも記憶されていくのです。

 

                           
  たぶんこのブログを読んでくださっている方の中にも、ヨグマタの言う>あなたが思ったことはほぼ実現します。を体験されているのではないかと思います。 そんな気がするんだなぁ~  

 

   

              最後まで読んでくださって ありがとう 

                               つながっているすべての人に ありがとう 

 

                            

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『キミが働く理由』

2010-04-17 | 生き方
『 キミが働く理由(わけ) 』

                         福島 正伸  著 

 

   「何のために働くのか」 時代とともに変わってきているように思います。
    

         けれども、時代が変わっても、変わらないものがあります。

    これからも、ワクワクして働けるようなたくさんのヒントが得られますよ。


    今回は著者の友人であるという元F1ドライバーの中野信治さんのお話です。

   

 彼は世界3大レースと言われるF1モナコ、アメリカのインディー500、フランスのル・マンのすべてに参戦した唯一の日本人です。
彼は世界中の人たちとチームをつくるときに、大切なことがあるといいます。それは相手を「信じ切る」ことだというのです。文化の違い、言葉の違いは大きな問題ではないそうです。

彼はあるアメリカのレースで、車と一緒に炎に包まれたことがあります。ガソリンタンクのふたがちゃんと閉っていなかったために、走行中の激しい振動でふたが吹き飛んでしまいました。そして燃料が車と体にかかり、発火してしまったのです。
彼は、普段は極めて冷静沈着なのですが、炎に包まれた中ではさすがにシートベルトを外して、ハンドルを抜いて出る、そんな簡単なことも、なかなかできませんでした。

炎が消し止められたとき、真黒になった両手のグローブをはがそうとしたら、手の皮もいっしょにはがれてしまったそうです。
その後しばらくは、火傷の激しい痛さまで苦しんだそうです。
そして、ゲームに戻ってきたとき、チームメンバーに言った言葉があります。
チームメンバーはみんな、彼の言葉に注目していました。もしかしたら自分たちのミスで、彼が命を落としていたかもしれないからです。

戻ってきた中野信治さんは、こう言いました。
「次のレースは、このメンバーで絶対勝とう」

その一言がきっかけで、次のレースからチームは素晴らしい成績を上げ続けたそうです。彼はチームメンバーにたった一言、言っただけです。にもかかわらず、メカニックはみな感動したそうです。


「自分たちが彼の命を奪ってしまったかもしれないのに、それでも自分たちを信じ切ってくれている」と。

 

中野信次さんは言います。
「人を信じることができなければ、チームはできない。私は人を信じ切ってメカニックがつくった車に命を乗せて走る」と。
時速300キロメートル以上の速度で走る世界で、「タイヤが取れるかもしれない」とか、「ガソリンタンクのふたが閉ってなかったらどうしよう?」とか、そのようなことをわずかでも疑ったら、アクセル全開でコ
ーナーに突っ込んでいくようなことは、できないそうです。

 

メカニックを信じ切って、彼らに自分の命を預け、全開でアクセルを踏み、コーナーに突っ込んでいく。信じ切ること以外に、本当に強いチームをつくることはできない。人を信じる気持ちの問題なんだと思いました。

 

たしかに、これはとても難しいことだと思います。
しかし、人間関係は自分が相手を信頼して受け入れない限り、相手が自分を受け入れてくれることはありません。自分がまず受け入れる勇気を持つことです。相手がどういう人間であるかではなく、自分が
どれだけ相手を受け入れられるか、です。もちろん、100%受け入れることは難しいかもしれません。けれども、いまよりも受け入れる勇気を持つことはできます。

 

 

  なんか深いいい話のようになってしまいました~ 

  “信じること”行動の動機にあります。

  それは意識されていなくても、どこかで“大丈夫”と言う感覚です。

  その時々で、“信じてよかった~”という体験もするし

  “信じたがゆえに~”という体験もします。 

  でも、何度も“信じる”ことを繰り返す中で、やっぱり“信じること”の大切さを

  実感します。 

  “あなたを信じているよ”のひと言は、カルもうれしくなるんだなぁ~

   

           福島 正伸 HP→ アントレプレナーセンター  

                       福島 堂

 

          最後まで読んでくださって ありがとう 

                               つながっているすべての人に ありがとう 

 

                            

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『一歩を越える勇気』

2010-04-11 | 生き方
『 一歩を越える勇気 』

                         栗城 史多  著 

 

   エベレスト単独・無酸素登頂を目指す登山家栗城氏。

    無事に生きて帰る というまさに奇跡の人。

    登山を通して、彼は無限の“ゼロ”になろうとしています。いやもうそのものですね。

    目の前のエベレストが大きな壁に見えても、その壁は自分自身。

    自分を乗り越えるために、彼はエベレスト再挑戦を成し遂げるにちがいない。

    

   

6時


オレンジ色に輝きはじめたダウラギリの岩峰を見つめながら山頂を探し登っていくが、岩峰の一つひとつがぼやけて見え、岩なのか、ただの黒い物体なのかよくわからない。
サングラスがくもっているのだろうか。サングラスをはずし急いで拭いて見てみるが何も変わらない。
霧のようなガスがかかっているように見えるが、そうではなさそうだ。低酸素の影響で、目が見えなくなっていたのだ。エベレスト無酸素登山で、下山中に目が見えなくなり、亡くなった人もいる。雪をかきわけながら進むときに呼吸が荒くなり、十分な酸素が取り込めなくなっていたのだ。
無線でベースキャンプと連絡をとる。
「目が見えない。目が変になっている」
「無理をしないで下りたほうがいい。とにかく下山することを頭に入れて」
「わかりました。でもギリギリのところまでがんばります」
「ギリギリまでがんばったらダメだから」

山に入るのは、必ず自分の力で生きて帰ってくることが条件だ。僕はまだまだ山で死んではいけない人間である。なぜなら大方の人が、僕の単独・無酸素のチャレンジを「無理」だと思っているからだ。
その人が思う「無理」「不可能」を取っ払いたい。だから僕は生きて帰らないといけない。僕の足は山に向かっていた。やはり山頂に立ちたい。「まだいける」小さな声で自分に言い聞かせ、腹式呼吸でたくさんの酸素が体中に充満している自分をイメージする。
手は冷たく、ガチガチと震えながら深く呼吸をして、このダウラギリのすべてを全身で受け止めていた。
まだ目は回復していないが、少しでも前に進みたい。それが今の正直な答えだった。たとえ山頂に行けなくても山頂が見えるところまで行ってみたい。だが、体は思うように動かない。そんなときにふと出てきた、ある言葉を口にした。

「ありがとう」

なぜ、ありがとうと口にしたのかわからない。ただそのほうが、力が出たのだ。
苦しみに対抗しようとしても力は出ない。この苦しみを受け入れるしかないのだ。苦しみも不安もすべては自然の一部であり、僕はその自然の中で生かされている。
気づくと目もだいぶ回復しており、岩峰の細かい本数も数えられるようになっていた。

 

14時


目が見えなくなるという状況の中で、まさかここまで来られるとは思わなかった。いつも頂上に着く瞬間に思うこと、それは山頂近くで自分が登っているのではなく、自然の大いなる力で登らせてもらっているのだということ。そして、「生かされている」ということに気づかされる。人間は、自分の力だけでは生きられない。人間は山にいても、大いなる自然の中で生かされている。どこにいても、それは変わらない。

(この後、栗城氏はダウラギリの頂上にたどり着きます。その下りの途中、アイゼンが滑り、滑落します。すべり落ちる先には、1000メートル近くまで切れ落ちている巨大なクレパスがあります。必死で止めようとするが止まらない。その時彼を救ったのはわずか1.5メートルのタルチョ(祈り旗)だったんです。)

 


 最後に印象に残った言葉です。

「苦しみにありがとう」
僕は本気でそう思いながら山を登っている。
苦しければ苦しいときほど、出てくる言葉だ。
これは山と対話を繰り返しながら単独で登ってきたから、そう思うようになったのかもしれない。
  

   『冒険の共有』  ありがとう !!

             

          最後まで読んでくださって ありがとう 

                               つながっているすべての人に ありがとう 

 

                            

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