陽 気 村

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『ドラゴン・キングダム』

2008-07-25 | 映画

ドラゴン・キングダム『 ドラゴン・キングダム 』 

監督:ロブ・ミンコフ 

主演:ジャッキーチェン(ルーヤン役)、ジェット・リー(サイレント・モンク役)、マイケル・アンガラーノ(ジェイソン役) 

   

ジャッキーチェンとジェット・リーの奇跡の共演作品です。
カルちゃんも楽しみにしていました。
どちらも大好きなんです。    


ジャッキー演じるは酔っ払いの師匠ルーヤン。
陽気な酔拳を
たっぷり見せてくれます。なつかしい。

一方、酔っ払いと対照的な寡黙な謎の僧侶役は
ジェット・リー 威厳のある風貌から
キレのある動き 蟷螂拳(かまきりけん)も
お見事です。   

カンフーオタク青年ジェイソンが現代からワープした世界
は古代中国?『導かれし者=ジェイソン』の使命は、老人から預かった金の如意棒を
持ち主に返すこと。その持ち主とは〝孫悟空〟
だった。実は、〝孫悟空〟時の将軍ジェイドに
だまされ石に閉じ込められていたんですね。

迷い混んだ世界で
家に帰りたいと繰り返すジェイソンに
ルーヤンが言った言葉は

『ここで死ぬことは、もし帰れたとしても死ぬ』

たしかこんな風な意味だったような。

カンフー好きじゃなくても
スピード感があって
なかなか面白い作品だと思います。

謎の僧侶の “謎”も最後にわかりますよ  

 

ジャッキーチェンとジェット・リー 二人の“如意棒”を巡る対決を見たい方は

http://www.dragon-kingdom.jp/battle/index.html

 

                   最後まで読んでくださってありがとう 

                                      つながっているすべての人にありがとう 

 

 
 
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『人生の贈り物』

2008-07-23 | 生き方

人生の贈り物(扶桑社) 

           『 人生の贈り物 』

               スペンサー・ジョンソン 著門田 美鈴訳 

 老人が少年に語った「かけがえのないプレゼント」とは?  

 

いま、幸せになることができる。
でも、いつか何かをして幸せになることもできる。

男はまよわず「いま」のほうを選びました!
そして、いま彼は幸せです。
ありのままの自分に安らぎを感じていました。
人生のそれぞれの瞬間を、
いいことも、わるいことも、
まるごと味わおうと思いました。
理解できなくてもいいのです。
彼にとって初めてそれは問題でなくなりました。
この地球上で生きている瞬間瞬間を、
贈り物として受け入れたのです。

「このかけがえのないプレゼントを、
若いときに手に入れる人がいる。
中年になって手に入れる人もいる。
そして、ずっと年取ってから手に入れる人もいる。
悲しいことに、手に入れられない人もいる。
私はこのかけがえのないプレゼントを、
いつでも手に入れることができるのだ」

彼は腰をおろして考えにふけりながら、
つくづく幸運だと思いました。
彼はいまの自分、
ここにいる自分になっていました。
そして、わかったのです!
常にいまの自分、
ここにいる自分でいるだろうと。
彼はふたたび心の声に耳をすましました。

かけがえのないプレゼントは、
自分から、
自分に与える、
かけがえのない贈り物なのだ。


    >自分から自分に与える かけがえのない贈り物 

      大事にしたいですね~  

                

             今日も最後までお読みくださいましてありがとう 

                                      つながっているすべての人にありがとう    

 

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『急がない!ひとりの時間を持ちなさい』

2008-07-17 | 生き方

急がない!ひとりの時間を持ちなさい(主婦の友社)

          『 急がない!ひとりの時間を持ちなさい 』

                ディヴィット・クンツ 著 畔上 司訳 

    一人になれば得られるものもあるんですよ~

     

     あなたの存在自体があなたなのだ

何をしているかによって、あなたかどうかが決まるのなら、
何もしていないときには、あなたではないことになる。
----イエズス会士ウィリアム・J・バイロンが引用した言葉

これまで「立ち止まる」ことを実践してきたことによってわかったことが一つある。それは、「立ち止まってもかまわない」と思う必要がある」ということだ。何もしないでいい、何もしなくても罪悪を感じなくていい、と思う必要があるのだ。
わたしたちは何をするにしても、まじめにやるのがいいと思っているから、何もしないのは悪いことと思いがちなのだ。だから、生活の中に「立ち止まる」ことを組みこむ前に、まず「立ち止まってもかまわない」と思う必要があるのだ。もしわたしにその許可を与えてくれというのなら、いま即座にあなたに向かって「何もしなくていいですよ」と言おう。

あなたが、「立ち止まってもかまわないのだ、休んでもかまわないのだ」と考えるようになれば、あなたは何かやらないと気のすまない人間から、何もしなくても自分だと思える人間へと成長したことになる。あなたは、まさにあなた自身であって、物とか行動があなたかどうかを決めるわけではないのだ。


この項の冒頭で引用した「何をしているかによって、あなたかどうかが決まるのなら・・・」という言葉は、わたしたち全員がいまや「何かやらないと気のすまない人間」になりつつあることを指摘している。もし何をやっているかで---教えているとか、看護しているとか、修理している、治療している、掃除している、運転している、弁護している、商売しているとかで----、あなたという人間の価値が決まるなら、そうした仕事・作業を何一つしていないときのあなたは「あなたではない」ことになる。
だが、自分がやっていることがいかに重要であろうと、「仕事は仕事」と思っていれば、これからもあなたはいままでどおりの自分でいられるのだ。何が起ころうとも、あなたはあなたなのだ。

最近、アメリカの西海岸で、木材の切り出しについて大論争が持ちあがった。環境保護を訴える人たちと、切り出し権を主張する人たちとの争いである。最近見たテレビ・インタビューによれば、木こりの一人は「失業するかもしれない」と言って怒っていた。「わたしは木こりです。根っこからの木こりなんです!」彼の言葉は、「もし木こりをやめれば、何になったらいいかわからない。だからこんなに興奮し、パニックに陥っているんだ」と言っているように聞こえる。こうした感情の基礎にあるのは、「自分がやっている仕事で、自分の価値が決まる」という考え方だ。


わたしも神父を辞めた経験があるから、いまあげた医者や木こりの気持ちはよくわかる。辞職した当時のわたしは、自分の職業で自分の値打ちが決まると思っていたように思う。それはともあれ、このことだけはたしかだ。木こりであれ、医者であれ、神父であれ、職業がその人の本質ではないということだ。


どうか、ときどきは、「休んでもいいんだ。立ち止まってもいいんだ」と思うようになってほしい。そう思える限り、あなたは自分自身でいられる。そして自分の仕事にやる気が出てくるようになる。

                                                  

  何をしていても 何もしていなくても どんな時でも わたしはわたしなので~す。

 

              今日も最後までお読みいただきまして ありがとう 

                                      つながっているすべての人に ありがとう   

 

 

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『ハワイの秘法』

2008-07-11 | スピリチュアル

ハワイの秘法(PHP研究所)

           『 ハワイの秘法 

             ジョー・ヴィターリ/イハレアカラ・ヒューレン著/東本貢司 訳 

 「『zero limits』 無限の可能性の世界---ハワイのシンプルなヒーリングメソッド<ホ・オポノポノ>。ゼロ・リミッツとはゼロ・ステイト(無の状態)に帰ることであり、何ものも存在しない一方で、すべてが可能な世界。ゼロ・ステイトには、思考も、言葉も、行為も、記憶も、予定も、信念も、何もない。何一つ、ない 世界らしい。 

 

 彼のフルネームはイハレアカラ・ヒューレン。彼はハワイ州立病院で三年間勤務した。心神喪失の犯罪者が収容されている病棟は危険極まりなく、心理学者たちは数ヶ月で職を辞し、職員たちも常習的に病欠したり、辞めていく者もいた。病棟に入る際は患者たちの攻撃を恐れて壁を背ににじり寄る始末だった。快適な環境、職場とはとても言えず、訪れる者も少なかった。
彼は決して患者たちを専門的に診(み)ることはなかったという。カウンセリングも一切行わなかった。その代わりにファイルを精読した。ファイルを眺めながら、彼独りで仕事をした。その結果、患者たちは治癒した。

「数カ月後、手かせ足かせ状態だった患者たちが、自由に院内を歩き回ることが許されるようになりました」と彼は言う。「大量の投薬を受けていた患者たちはその量を減らされていきました。そして、まず絶対に解放されることはあり得ないと見なされていた患者たちが退院していくようになったのです」
「それだけではありません」彼の話は続く。「職員たちも喜んで仕事に精を出すようになったのです。常習的欠勤を辞める者もすっかりなくなりました。その結果、職員の数が必要以上になってしまいました。患者がどんどん退院する一方で、職員がそっくり皆勤するようになったからです。現在、当病棟は閉鎖されています」

----あなたご自身は、そういう人々を〝変える〟のに具体的に何をしたのですか?
「ただ、彼らと共有した私の部分をきれいにしただけです」

問題はそれらにあるのではなく、自分にある。
だから、それらを変えるには自分自身を変えねばならない。
理解しようとしても無理だ。黙って受け容れるか、現実を生きるしかない。責任を完全に果たすよりも文句を言うほうがはるかに楽だ。ところが、ヒューレン博士と話しているうちに気づき始めた。人生を改善したければ人生を癒さねばならない。誰かを治療したいのであれば、その対象が精神的に病んだ犯罪者であろうと、自分自身を癒すことによって治療を行うのだ。

どうやって自分自身を癒すに至ったのか。正確には何をして、いつ患者たちのファイルを見たのか。

「言い続けたんですよ、ごめんなさい、あなたを愛してますと。何度も何度も」

それだけ?
それだけだった。
自己愛こそ自分を改善する最も優れた方法なのだ。そして、自身を改善するにつれて、自分の世界も改善されていく。

何が持ち上がろうと、神格にお伺いを立て、解放されることを願った。彼は常に機能した。ヒューレン博士は自分自身に問いかけたという。
「この問題を生じさせた私の中でいったい何が起こっているのだろうか。そして、この、私の中の問題をどうすれば取り除けるのか」

神格に語りかける際に何度もノンストップで口にするフレーズは、たったの四つである。

I love you.
I'm  sorry.
Please forgive me.
Thank you.

「本質的には我々は皆、純粋な生き物です。プログラムもなければ記憶も、むろん、霊感とて持たない。それがゼロ状態です。そこに、ゼロ・リミッツがある。ところが生きるにつれて、我々はちょうど風邪を引くようにプログラムや記憶を〝引いて〟しまう。風邪を引くのは悪いことではないが、何しろそれを除いて清めてやる必要がある。プログラムの場合も同じです。他人の中にプログラムを見つけたときは、自分の中にもそれがあるということです。逃れるために清めることだけのこと。


人生の構築に日々100パーセント責任を持つことに前向きな人であれば、だれにでも問題や疾病から脱却できるのです。ハワイに古くから伝わる<ホ・オポノポノ>のヒーリング・プロセスは、LOVEに祈願して内なる誤りを浄化するものです。『ごめんなさい。どうか、私の内に起こっている問題として生じたものについてお許しください』と述べるのです。すると、LOVEの力がその問題として生じた誤りを変質させるでしょう。

完璧なる責任とはすべてを受け容れること---あなたの人生に割り込んできた人々や彼らの問題さえも。なぜなら、彼らの問題はあなたの問題なのだから。それらはあなたの人生の内にあり、あなたが自分の人生に100パーセントの責任を負う限り、彼らが体験したことについても100パーセントの責任を負わねばならないのだ」 

 

   詳細を明らかにすることは、厳しく禁じられているようなのでメソッドについては、大まかにしかわかりません。詳しくは知りたい方は、ワークに参加するのが一番かも。  

                    

              最後までお読みくださって ありがとう 

                   つながっているすべての人に ありがとう 

                            必要なものが与えられますように・・・

                         

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『世界でいちばん古くて大切なスピリチュアルの教え』

2008-07-03 | スピリチュアル

世界でいちばん古くて大切なスピリチュアルの教え(徳間書店)

           『 世界でいちばん古くて大切なスピリチュアルの教え 』

            エックハルト・トール 著 あさりみちこ訳 

  静寂・沈黙・いまここ を大切にしている方へ

 

意識的に「いま、この瞬間」へと足を踏み入れたとたん、人生が神聖であることに気づきます。いまに在るとき、目に映るすべてのものに、神聖さを見ます。いまに生きれば生きるほど、シンプルでありながら、深遠なる「大いなる存在」の喜びと、あらゆる生命の神聖さを実感するのです。

ほとんどの人は、「いま、この瞬間」を「いま起こっている出来事」と錯覚しています。でも、このふたつは別のものです。「いま、この瞬間」は、そこで起こる出来事よりも、ずっと奥深いのです。「いま、この瞬間」は、出来事が起きている空間なのです。
ですから、「いま、この瞬間」を、その内容と混同してはなりません。「いま、この瞬間」は、その中で起こるどんな出来事よりも、深遠なのです。

いまへと足を踏み入れた瞬間、思考の森の外へと歩み出ることができます。すると、ひっきりなしだった思考の流れが、スローダウンしはじめます。思考はもう、あなたの意識のすべてを奪っていません。注意を完全に引きつけておくことができません。思考と思考のあいだに、スペース、「静止の次元」が生まれます。自分が思考よりも、どれほど深く、どれほど広大であるかに気づきはじめます。


偉大なる沈黙のスペースは、その懐(ふところ)に自然をまるごと包みこんでいます。人間も例外ではありません。わたしも一緒に抱かれているのです。

親密な人間関係で、度重なる「ドラマ」を経験していませんか?同じパターンをくり返していませんか?あとで考えてみると、取るに足らないような意見の相違が、熾烈な口論や感情的な痛みの引き金になっていませんか?
そのような出来事の根底にあるのは、エゴのパターンです。「絶対に自分が正しい」、「もちろん相手が悪いに決まっている」という思い込み、つまりは、思考の見解と一体になっているのです。また、エゴには、物事や人と周期的にもめごとの状態にいなければ気がすまないという習性があります。それは、「わたし」と「あなた」の分離の感覚を強めるためであり、その感覚なしには、エゴは生き延びることができないからです。

仏教徒は、はるか昔から知っていました。いまでは物理学者もそれを認めています。それは、「万物は内面で互いにつながっている」ということ、人生で起こるさまざまな出来事には、なんら相関性ないように見えますが、なに一つとして、単独で起こっているのではありません。判断を下したり、レッテルを貼ったりすることが、それを独立させてしまうのです。生命のワンネスは、人間の思考によってバラバラに分裂しているのです。けれども、あらゆる出来事を引き起こしているのは、生命のワンネスであり、宇宙という緊密な相互ネットワークの一部なのです。

出来事は、身体に苦痛をもたらすことはあるかもしれませんが、人間を不幸にするパワーはありません。人間を不幸にしているのは、ほかでもない、自分自身の思考なのです。

 

  「いま、この瞬間」=出来事のすべてととらえてしまった時には、もうすでに思考でとらえてしまっているような気がします。 思考=わたし でとらえてしまうとどうなるか?レッテルを貼ってしまいますね~

 6月21日・22日ご一緒させていただいたみなさん、ご縁に感謝です。

      

           今日も最後までお読みくださいまして ありがとう 

                                   つながっているすべての人に ありがとう    

 

 

 

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