ひまわりの種

毎日の診療や暮しの中で感じたことを、思いつくまま書いていきます。
不定期更新、ご容赦下さい。

明日から始動!

2010年01月03日 | 医療
 「めでたさも 中くらいなり おらが春」

小林一茶の句です。
この句の意味は、特別なことはないけど、まぁまぁ、そこそこ平穏な正月だなぁ、
という意味かとずっと思っていました。

でも、南木佳士という人の書いたエッセイ「臆病な医者」によれば、
そういう意味ではないかも、だったのです。
この方は長野県の総合病院に勤務する(今もかな?)内科医なのですが、
死生観をテーマにした小説をよく書いています。
映画にもなった「阿弥陀堂だより」の原作者です。

彼によれば、長野(信州)では「中くらい」を「ちゅっくれえ」と表現するのだそうな。
あるとき彼が、患者さんに温湿布と冷湿布を間違えて処方してしまい、
その患者さんから「ちゅっくれえな医者だ」と言われてしまったそうです。
つまり、信州弁で「ちゅっくれえ」というのは、
「てきとうな」とか「いい加減な」とか「あいまいな」などの意味合いもあるのだとか。
小林一茶も信州の人なので、一茶の表現する「中くらい」というのは、
実は信州弁の「ちゅっくれえ」という意味合いも含んでいるのではないか、
つまり、「ほのぼのとした正月」ではなく、
「めでたいと言っていいのかどうか、中途半端な、いいかげんな正月だなぁ」という、
自嘲気味な思いもあったのでは? という解釈でした。

なるほどなぁ・・・。


この「臆病な医者」という本は、タイトルに惹かれて買いました。
彼のさまざまな思いは、生い立ちもだいぶ影響しているようです。
「ダイアモンドダスト」という小説で芥川賞も受賞しているのですが、
受賞の際の彼のコメントを何かで読みました。

 学校を出たての二十四、五歳の若者が、
 多くの想い出を抱え込んだまま旅立つ死者を見送ることは、苦痛であった。
 この苦しみから抜け出したくて小説を書き始め、もう十年になる。

この気持ちは、わたしもよくわかります。
たしかに、医師になって最初の数年間は大きな病院に勤務することがほとんどですから、
必然的に重症の患者さんを診ることになります。
特に修業時代の数年間は、食事を取る時間も寝る間もなく、患者さんに接する日々です。
日常的に人の死に接していると、感覚が麻痺してくることがあります。
わたしは小児科だったので、子どもの死に馴れるということは勿論ありませんでしたが、
(いえ、他の科が死に対して鈍感だという意味ではありません。)
あまりに忙しい日々が続くと、人の痛みが「他人事」になりそうな瞬間が、ありました。
一方で、患者さんが亡くなっても、医者は涙を見せるな、と先輩から叱られたこともありました。
若い頃、この感覚にどう折り合いをつければいいのか、つらい時期がありました。

第三者として冷静に対処しなければならない立場を保ちつつ、
患者さんの思いに共感する、という、
一見、相反する対応は、今でも難しく感じることがあります。

本の内容からはそれるのですが、
医者はある意味、臆病でなければいけない、とわたしは思っています。
もちろん、生き方そのものが臆病になってはいけないのですが。

いろんなところで、いろんな方々に話すのですが、
医療行為に100%安全・完璧なんてないんですね。
いつも、患者さんを診察したあとに「万が一」のことはアタマの隅にあります。
どんなクスリでもワクチンでも、ルシアンルーレットのような事がいつ起きるか、
それは、神様にだって、わからないかも知れないのです。
不測の事態が起きた時にどう対処するか。
医師の技量はこのような時に問われるのだと思います。

自分は完璧ではない。
だからこそ、臆病なほどに心配りをしなければ・・・。こんな風に思っています。
(いえ、ヤブ医者ではないつもりですが・・・^_^; )

さて、明日からまた仕事開始、です。