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後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「インドネシアのスマトラ島のバタック族の写真」

2024年08月26日 | 写真
バタック族は、主にインドネシアのスマトラ島北部の高地に居住している民族です。大都市のメダンの西にあるトバ湖周辺を故郷としています。
バタック族は、その言語や習慣が少しずつ違ういくつかの異なるグループに分けられます。
そのスマトラ島高地のバタック族の写真をお送り致します。写真の出典は、「スマトラ島少数民族との出会い」、https://snowm-blog.hatenablog.com/entry/2019/02/20/214344 とその他、バタック族に関連した資料です。









バタック族の社会は、Margaとして知られる一族に組織されている家父長社会でです。トバ・バタック族は、1人の祖先「Si Raja Bata」を起源とし、すべてのMargaは彼の子孫であると伝統的に信じられています。バタックの父と息子の関係を示した血統図は、taromboと呼ばれ大切にされています。
現代のインドネシアの中で、バタック族は教育熱心で、多くは教師、技師、医師、法律家などになっています。
トバ・バタック族は、その織物、木彫り、装飾した墓石が伝統的に有名です。彼らの埋葬と結婚の儀式は伝統をよく守っています。埋葬の伝統では、先祖の遺骨を死の数年後に再び埋葬する儀式もあります。この2回目の埋葬は、トバ人の間では「mangongkal holl」と呼ばれているそうです。
最後にバタック族の宗教について書きます。
世界最大規模のイスラム教徒人口を抱えるインドネシアですが、スマトラ島の北スマトラ州の山岳地帯にあるトバ湖の周辺に住むバタック族はキリスト教徒なのです。
バタック族の人口500万人のうち約350万人がキリスト教徒(プロテスタント)というユニークな部族なのです。 バタック族に対するキリスト教の布教ははじめは順調でありませんでした。しかしドイツのプロテスタント宣教師ノメンセンの努力により、19世紀半ば頃からキリスト教が定着したのです。今も島のあちらこちらで、土着の文化とキリスト教文化が融合した独自の様式の教会を見ることができます。(http://www.asiawave.co.jp/asianview14.htm )
以上簡単にバタック族のことをご紹介致しました。

「まともな人々も沢山住んでいる尊敬すべき韓国」

2024年08月25日 | 日記・エッセイ・コラム
日本人の一部には韓国人を蔑んでいる人がいます。他の人を蔑むことで自分の人格を傷つけていることに気が付いていないのです。
しかし韓国にはまともな人々や立派な人々も沢山住んでいるのです。
今日はこの当たり前のことを説明したいと思います。
言葉でクドクド説明しないで写真で説明します。
1番目の写真は2011年の東日本大震災の直後の韓国の街頭募金の写真です。
注意深くこの写真を見ると募金を受け付けている左の3人は黒い喪服を着ているのです。
2万人以上の死者の出た大震災ですから死者の冥福を祈って喪服を着ているのでしょう。
私は韓国人の礼儀正しさに感銘を受けました。
2番目の写真も大震災の直後の韓国の街頭募金の写真です。日本へ贈る救援物資の袋を受け取っている光景です。全員は黒い喪服を着ています。
以上2枚の写真は、http://cadot.jp/impression/1794.html?detail から転載いたしました。
この2枚の写真を見て私は韓国にはまともな人々も沢山住んでいると確信しました。
そこで彼等の日常の生活を調べました。
3番目の写真は韓国のスーパーマーケットの風景です。
写真の出典は、http://www.tsu-itc.org/test001/kokusai/A12_4.htm です。
写真を注意深く見ると買った品物を入れて運ぶカートはアメリカのスーパーと同じものです。日本の物より大きいのです。
しかし買い物カゴは日本と同じです。案外カートも買い物カゴも韓国で作ってアメリカや日本へ輸出しているのかも知れません。
日常生活では日本と同じようで面白くありません。
そこで韓国の伝統行事の秋夕と墓参りを調べてみました。
4番目の写真葉は9月の秋夕の折りに勢ぞろいした家族の写真です。
出典は、https://blogs.yahoo.co.jp/dkntmoris19219/54490153.html です。
秋夕は日本のお盆に似ていますが韓国では一年で一番重要な祝日です。旧暦の8月15日なので新暦では9月下旬に当たります。正確な日は年のよって変化します。
この秋夕では一家揃って先祖の墓参りや供養をします。そして親戚を訪問したりします。多忙な楽しい祝日を過ごします。
若者達は久しぶりに会った親戚から小遣いを貰って街に繰り出してショッピングを楽しんだり映画を見たりと楽しみます。「秋夕」は楽しい思い出になるのです。
韓国人にとって、ソルラル(旧正月)と並ぶ代表的な祝日です。
親戚一同が故郷に集まっての先祖の墓参りや秋の収穫に感謝したりする韓国人の一大祝日なのです。
「秋夕」の歴史は、古く新羅時代(紀元356年~935年)に始まったといわれており、この風習が継承されるようになったと言われます。
5番目の写真は一族揃っての墓参りも光景です。
写真の出典は、https://blogs.yahoo.co.jp/talentgiver2/4498029.html です。
日本でもお盆になるとお墓参りに行きますが、韓国でも茶礼を終えて朝ご飯を食べた後に一族全員でお墓参りに行きます。
最近では家族全員でお墓参りに行く家庭が少なくなっていますが地方に行くとまだこういった伝統的な風習が残っています。
韓国では儒教の考えで遺体を壊すことを嫌い土葬が一般的に行われてきました。そのためお墓は山の斜面で盛り土になっています。しかし、今では80%以上の人が火葬を選んでいます。
土まんじゅう型のお墓の前で、清酒やお供え物をささげ、その場でひざまずいてお辞儀をします。この土下座は敬意をこめた最上級の礼なのです。
日本でも失敗をして消費者に被害を与えた会社の社長が記者会見で時々土下座しますがスタンドプレイのようです。韓国の土下座は純粋に祖先を敬い感謝しているのです。
まともな人々も沢山住んでいる韓国についてもっと書きたいことがありますが、今日はこれで終わりにします。

 それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「今日はカトリック松原教会のミサにあずかりました」

2024年08月25日 | 日記・エッセイ・コラム
2024年08月25日 、 年間第21主日

今日はインターネットを通してカトリック松原教会のミサにあずかりました。
ミサの動画配信は下記です。
https://matsubara-cath.chu.jp/ja/online-mass/#:

添付の写真は今日の松原教会のミサの風景です。

ミサはカトリック教会においてパンとぶどう酒を聖別して聖体の秘跡が行われる祭儀です。 司祭が司式し、信者全体が捧げるものです。カトリック教会で最も重要な典礼儀式です。
〒156-0043
東京都世田谷区松原2-28-5
TEL.03-3321-0941   FAX.03-3321-0009

「 写真で見る清朝発祥の瀋陽の故宮」

2024年08月24日 | 日記・エッセイ・コラム
瀋陽は清朝発祥の地であり中国の歴史の重要な街です。また私も個人的に訪問したので色々な思い出のある所です。
今日は瀋陽の歴史や現在の瀋陽の風景をご紹介します。そして私の思い出も紹介します。
瀋陽市は人口820万人で中国の東北地方(旧満州)の真ん中より少し南に ある大都会です。そして瀋陽の故宮は清朝の発祥したところです。故宮が北京へ移転した後は離宮として使われていました。
1625年、清朝につながる初代のヌルハチが後金をつくり、ここ瀋陽に遷都して「盛京」と呼びました。1636年、清朝2代目のホンタイジ(皇太極)は国号を「清」とし、清朝を創立しました。そして1644年、北京に遷都し ました。
ヌルハチとホンタイジの二人が居住したのが、瀋陽の故宮です。瀋陽は清朝の発祥の地なのです。それでは写真をお送り致します。写真は全てインターネットからお借りしました。
1番目の写真は瀋陽の故宮の入り口の楼門です。
17世紀、中国北方の遊牧民族である満州族は、清朝の前身となる後金王朝を建国し、その勢力を拡大しました。初代・ヌルハチは瀋陽を都としこの楼門を作ったのです。
2番目の写真は瀋陽故宮の主殿の大政殿です。
瀋陽故宮の広さは北京故宮の12分の1ですが部屋数はおよそ300で建築物の数は約70もあります。
敷地内は東路、中路、西路の3つに分けられます。東路は最も古く、ヌルハチの時代から使われていました。大政殿自体は、遊牧民族が使用した移動式テント(ゲル)を模しています。ヌルハチが政務を執っていました。
清朝の乾隆帝は瀋陽故宮の増築を行いました。建築様式は漢民族の様式に増築したのです。遊牧民族と漢民族の文化が混合しているのが瀋陽故宮の特徴です。
3番目の写真は現在の瀋陽の駅です。駅の建物は私と家内が訪問した1980年代と変わっていません。
4番目の写真は現在の瀋陽です。車が溢れ高層ビルが林立しています。私共が訪問した1980年代には古い満州の街の奉天(瀋陽の昔の名前)そのままの貧し気な都会でした。隔世の感です。
5番目の写真は大和ホテルです。昔の大和ホテルが美しく改装されています。

6番目の写真は瀋陽にある東北大学です。私が訪問した当時は東北工学院という名前でした。学長の陸先生は日本の旅順工業大学の卒業生でした。当時日本から赴任した教授たちに大切にされたそうで日本人を懐かしがり、私どもを大歓迎してくれました。
この東北工学院から金応培先生と大学院生の張力偉君が私が働いていた東京工業大学へ長期の留学をしてくれました。瀋陽では金応培先生と張力偉君の自宅にも招待され楽しい思い出がいろいろあります。
 
今日は中國の瀋陽の歴史や現在の瀋陽の風景をご紹介しました。そして私の個人的な思い出も紹介しました。
 
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「写真で見る中国の少数民族と美しい伝統文化」

2024年08月24日 | 日記・エッセイ・コラム
中国には少数民族が38%もいるのです。1,721万人もの少数民族が住んでいるのです。
今日は中国の少数民族と美しい伝統文化をご紹介致します。
写真に広西チワン族の旧正月の正装、観光イベントの御馳走、段々の稲作水田、立派な屋根のついた橋などの写真を示します。
さて中国の広西チワン族自治区は中国最大です。
西は雲南省、北は貴州省、湖南省、東は広東省と接し、南はトンキン湾に面しています。南西はベトナムと国境を接し、北部には東西に南嶺山脈が走っています。珠江の流域の内陸部の多くを占めています。亜熱帯性気候で、二期作・三期作が可能です。有名な観光地の桂林が東北部にあります。
中国には広西チワン族の他にもいろいろな少数民族が住んでいるのです。以下に調べた結果を示します。
漢族: 2,702万人 (62%)の他の少数民族です。
少数民族: 1,721万人 (38%)
チワン族: 1,520万人
ヤオ族: 147万人
ミャオ族: 46万人
トン族: 30万人
コーラオ族: 17万人
マオナン族: 7.4万人
回族: 3.3万人
プイ族: 2.1万人
ジン族: 2万人
スイ族: 1.5万人
イ族: 9712人
満族: 9576人
調べて驚いたことは中国には漢民族が62%しかいないことです。少数民族が38%もいるのです。
私は少数民族へ対する興味を若い時から持っていました。私の趣味のようなものです。
私のものの見方、考え方の上で一番影響を受けた本はルース・ベネディクトの「菊と刀」です。比較文化人類学者の彼女が1946年にボストンで出版した本です。「菊と刀」は人類学の名著です。いやしくも人類学を専攻する者は必ず読む本です。この本を凌駕するような名著を書ける人は居ないのです。

今日は中国の少数民族の広西チワン族の写真を示しました。その他の少数民族の名前もご紹介しました。

中国には漢族が62%しかいなくて少数民族が38%もいるのです。1,721万人もの少数民族が住んでいるのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「世界遺産、安徽省黄山市の 西遞と宏村の写真」

2024年08月23日 | 写真
中国の世界遺産、宏村の風景写真を4枚お送り致します。
写真の出典は、http://www.cnta-osaka.jp/heritage/ancient-villages-in-southern-anhui-xidi-and-hongcun です。
 安徽省黄山市にある宏村と西遞という2つの伝統的な古村落はあわせて世界遺産になっています。中国の昔のままの農村を残しています。
「宏村」は県城から北東10km にあり、南宋の紹興元年(1131 年)に建造され始められました。古くから汪氏一族が暮らしていた土地で、明・清時代の旧建築物137 棟が現存しています。
「西遞」は県城から8kmのところにあり900年以上の歴史がある村落です。古くは胡氏一族が暮らしていた土地で、明清の旧民家124棟、祠3棟があります。「中国明清民家博物館」とも呼ばれています。
=====参考資料=======================
 中国の世界遺産の一覧、https://whc.unesco.org/ja/list/?iso=cn&search=&
合計56 遺産。
  • 万里の長城 (1987)
  • 莫高窟 (1987)
  • 秦の始皇陵 (1987)
  • 泰山 (1987)
  • 北京と瀋陽の明・清朝の皇宮群 (1987, 2004)
  • 周口店の北京原人遺跡 (1987)
  • 黄山 (1990)
  • 黄龍の景観と歴史地域 (1992)
  • 武陵源の自然景観と歴史地域 (1992)
  • 九寨溝の渓谷の景観と歴史地域 (1992)
  • ラサのポタラ宮歴史地区  (1994, 2000, 2001)
  • 曲阜の孔廟、孔林、孔府 (1994)
  • 武当山の古代建築物群 (1994)
  • 承徳の避暑山荘と外八廟 (1994)
  • 廬山国立公園 (1996)
  • 峨眉山と楽山大仏 (1996)
  • 麗江旧市街 (1997)
  • 蘇州古典園林 (1997, 2000)
  • 古都平遥 (1997)
  • 頤和園、北京の皇帝の庭園 (1998)
  • 天壇:北京の皇帝の廟壇 (1998)
  • 武夷山 (1999)
  • 大足石刻 (1999)
  • 青城山と都江堰水利(灌漑)施設 (2000)
  • 龍門石窟 (2000)
  • 明・清朝の皇帝陵墓群 (2000, 2003, 2004)
  • 安徽南部の古村落-西逓・宏村 (2000)
  • 雲崗石窟 (2001)
  • 雲南三江併流の保護地域群 (2003)
  • 古代高句麗王国の首都と古墳群 (2004)
  • マカオ歴史地区 (2005)
  • 四川ジャイアントパンダ保護区群 (2006)
  • 殷墟 (2006)
  • 中国南部カルスト (2007, 2014)
  • 開平の望楼群と村落 (2007)
  • 福建の土楼 (2008)
  • 三清山国立公園 (2008)
  • 五台山 (2009)
  • 河南登封の文化財“天地之中” (2010)
  • 中国丹霞 (2010)
  • 杭州西湖の文化的景観 (2011)
  • 上都(ザナドゥ)の遺跡 (2012)
  • 澄江の化石産地 (2012)
  • 新疆天山 (2013)
  • 紅河ハニ棚田群の文化的景観 (2013)
  • シルクロード:長安-天山回廊の交易路網 (2014)
  • 中国大運河 (2014)
  • 土司の遺跡群 (2015)
  • 左江花山のロック・アートの文化的景観 (2016)
  • 湖北省の神農架 (2016)・・・・・以下省略。

「中国の北海公園と仿膳飯荘」

2024年08月23日 | 日記・エッセイ・コラム
1981年に周栄章さんと2人で一緒に初めて行った北京の北海公園と仿膳飯荘をご紹介したいと思います。
中国人は権力者に表向きは従いますが、心の中では個人的な信義を一番大切にしている民族なのです。
周栄章さんと2人だけで北海公園を歩いていました。その先にある仿膳飯荘で北京鋼鉄学院の学長が私の歓迎会をしてくれるというのです。
1番目の写真は北京の北海公園の石の回廊です。写真の出典:http://www.chinatrip.jp/beijing/album-57.htm です。
歓迎会で当時あった「茅台酒(マオタイシュ)」の乾杯の応酬で、私もいささか酔いました。
学長さん達に感謝の言葉を述べました。すると学長は中国への旅の感想を聞きます。私はつぎのような話をしました。
「中国は良い国です。けれど共産主義は独裁政治を生むので好きではありません。しかし中国が欧米の植民地にならないためには共産主義を選ぶ他は無かったと思います。中国が欧米列強の植民地にならなくて本当に良かったです。私も嬉しいのです。」
このような内容のことを、一気にしゃべりました。英語で喋りました。
これを聞いて学長さんは深くうなずいて、「あなたは中国について何を喋っても良いです。自由にこの国を楽しんで下さい」と言ったのです。この一言で私は途端に楽しくなったのです。
2番目の写真は仿膳飯荘の入り口です。写真の出典は、http://www.chinatrip.jp/beijing/album-655.htm です。
出された料理は女性権力者の西大后の好きそうな小さく綺麗に盛り付けた、いわゆる宮廷料理でした。
周栄章さんの招きで2年後に行った家内はその精妙さと美味しさに感激していました。
3番目の写真は仿膳飯荘の宮廷料理です。写真の出典は、http://www.chinatrip.jp/beijing/album-655.htm です。
周栄章さんは北京鴨の有名店でなく裏町の小さな北京鴨店へ何度も連れて行ってくれました。
冷蔵庫が無いのか、あまり冷えていない五星ビールが出ます。前菜でビールを飲んでいるとやがて見事に焼きあがった鴨が出てきます。
4番目の写真は北京ダックの写真です。写真の出典は、http://imagenavi.jp/search/#!/ です。
うす暗い北京鴨の店でいろいろな話をしました。お互いに英語で話し合いました。
北京鴨は自分で皮を切り取って、薄い白い餅に乗せ、ネギと味噌を塗って、餅でくるりと巻いて食べるのです。
皮を全て食べ終わると料理人が出て来て、皮の無い鴨を下げます。調理場で肉を取って、2種類くらいの料理に仕上げて、又持ってきます。それを食べ終わる頃に鴨の骨でダシを取ったスープが出て来ます。これで終わりです。
周栄章さんは私を中国の観光地に案内してくれました。北京原人の周口店、明の13陵、頤和園、天壇、大鐘の寺、長城、承徳、そして西安の秦の始皇帝の墓、兵馬俑、などなどへ案内してくれたのです。しかし話が長くなるので、ここでは北京郊外の離宮の頤和園の写真を1枚だけ示します。写真はインターネットからお借りしました。5番目の写真は頤和園の前に堀って作った湖とその土で出来た山です。 頤和園は私の好きな離宮なので写真を示しました。写真は「頤和園の写真」を検索してネット上にあるものからお借りしました。
その周栄章さんを私も日本に招びました。自宅に泊まってもらい、いろいろな観光地へも案内しました。
周栄章さんは2004年に亡くなりました。亡くなって20年たちましたが彼の温かい友情を思い出す度に胸が熱くなります。
 
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「軍事大国、共産主義の中国の実像とは?」

2024年08月23日 | 日記・エッセイ・コラム
2011年8月30日に、私は次のような記事を掲載しました。
「強大になった中国、その共産党独裁の社会の実態」
現在の中国はアメリカに次ぐ世界の大国です。軍事力も強大な国です。
しかし私が初めて北京を訪れた1981年の頃は世界の最貧国に一つでした。市民は汚れた人民服を着て食料も十分でなく街路には飢えた人々があふれていました。その中国が経済急成長をして、アメリカにつぐ世界で2番目の豊かな国になったのです。これは世界の奇跡です。私はまだ信じられません。・・・以下は省略します。
この記事では経済成長をとげた中国を賞賛するようなニュアンスがありました。
そうしたFace Bookで中村 裕一さんとフランス在住のMotoko Boutdumondeからバランスの良い適切なコメントを頂きました。
大変客観的に中国の実像を描いているので今日はこのお二人のコメントをご紹介致します。
(1)中村 裕一さんからのコメント
今朝の日経朝刊5面に「習氏の『共産主義革命2.0』」という記事が掲載されています。習氏は「資本主義的経済の成熟と矛盾の露呈」を乗り越えて、改めて人類社会の再挑戦となる「共産主義革命」を目指しているとする言説は大変興味深いです。ソ連が失敗した社会主義から共産主義への体制移行に改めて挑戦しているようです。マルクスの資本論の見立てに対する再挑戦です。
私見では、経済成長率やAI、量子などの科学技術の特定分野では既に米国を凌駕しており、DX社会化(進化したデジタル技術を普及した社会 )では日本よりはるか先を行っています。現時点では中国国民の貧富の差が拡大していることよりは、国民全体の生活水準が上がっている点に注視すべきでしょう。中国内部体制崩壊論は天安門事件以前から喧伝されていますが…。
しかし中国関係のニュース報道では、日本のマスコミ報道機関、SNS上のサイトは親中派と反中派に立場が分かれており、バイアスのかかった情報が多いです。コロナウイルス発生源に関する報道などで明らかです。
我々情報の受け手は様々な情報を比較検証・吟味することが必要かと思われます。情報源の明記ない二次情報は、私は信用しないことにしています。

(2)フランス在住のMotoko Boutdumonde さんからのコメント
民衆が反政府運動を始めるといろいろと上から圧力がかかるようです。反政府運動だけでなく、例えば何か問題を訴えようとしてそれを公けにするような運動も含めてです。数年前までは例えば子供を誘拐された親たちが集まって小児の誘拐問題を訴えた小さなデモなども公安に邪魔をされたり、親たちが警察に連れて行かれて留置されることがかなりありました。これはこちらのテレビのルポルタージュなどで何度も指摘されたことです。最近では武漢でコロナの危険性を問題視した医師が逮捕されたこともありますね(その医師は結局コロナでなくなりましたが)https://www.google.com/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&cad=rja&uact=8&ved=2ahUKEwiT-qjGt9byAhWB4YUKHW7rC3kQFnoECAUQAQ&url=https%3A%2F%2Fwww.latimes.com%2Fworld-nation%2Fstory%2F2020-02-06%2Fcoronavirus-china-xi-li-wenliang&usg=AOvVaw1aoTc8w8rshIknMkv8hi3K
これが反政府運動となるともっともっと厳しく弾圧されると思います。今は香港がその良い例です。他にももっと色々な例があります。
ですから反政府運動は起きているのでしょうが、まだまだ共産党独裁の国だと思います。残念ながら…
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私は親中国派なので中国に対する見方が甘くなります。上記の中村 裕一さんとMotoko さんからのコメントは私の親中国派的な記事を補正しています。
このようなコメントを頂けるのがインターネットの有難いところです。

5枚の写真をお送りいたします。はじめの2枚は豊かさの溢れる上海の風景で、続く3枚は内陸部の貧しい農村風景です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
1番目の写真は上海の浦東地区の高層ビル群の風景です。
2番目の写真は自動車が渋滞している上海の街路です。このように中国の都会は自家用車が普及しています。人々は高層ビルの豪華なマンションに住んでいます。
3番目の写真は内陸部の貧しい農家です。私もこんな農家に入ったことがあります。正面の入り口を入ると右半分は土間で物置になっています。そして一隅に竈があり大きな中華鍋が載っています。主食からおかずまで全ての料理は大きな中華鍋で作ります。左半分は一段高い板張りになっています。そこは食事をしたり寝る場所です。一段高い板張りの下は土です。その土に煙道が縦横にあり炊事用の竈からの熱い煙で床板を温めています。いわゆるオンドルです。こうして寒い冬の夜を過ごすのです。
 
4番目の写真は農作物を貯蔵する土で作った土蔵です。運搬にはリアカーを使います。
5番目の写真は自転車の三輪車の子供を乗せている風景です。写真の奥に昔日本にもあった荷物運搬用のオート三輪車が写っています。
このような農村を歩いていると貧しさを忘れ、のんびりして良い気分になります。人々の表情もおだやかです。中国に共産革命があったことなど知らないような雰囲気です。内陸部の農村は経済成長とは関係が無いのでしょうか?これは中国の実像なのです。

「ベルサイユ宮殿の近くの国際会議から中国との交流が始まった」

2024年08月23日 | 日記・エッセイ・コラム
最近はアメリカやヨーロッパの思い出を書いてきました。私とアメリカ人やドイツ人との交友を詳しく書きました。それに続いて今日からは中国人との交流を書きたいと思います。
中国人との交流はベルサイユ宮殿の近くでの国際会議から始まりました。1979年のことです。その国際会議で初めて数人の中国人に会ったのです。その会議は鉄鋼製錬の物理化学に関するものでした。フランスをはじめ各国の学者が集まりました。その会議に中国人の学者が現れたのです。
1976年に毛沢東が死ぬまでは外交官以外の中国人は外国へ出ることが出来なかったのです。中国人が外国へ行ける時代が来たのです。これには皆が驚きました。
主催者のフランス人が出席者全員をベルサイユ宮殿に招待してくれました。それは夜の特別な招待です。宮殿のあちこちにロウソクの光が揺れ幻想的な雰囲気です。特に鏡の間は全てロウソクだけのシャンデリアで照明されています。
1番目の写真はベルサイユ宮殿の鏡の間です。1979年に訪れてこの鏡の間だけでなく外の広大な庭園にも感銘を受けました。
この鏡の間の中で北京から来た周栄章さんが私に、「このベルサイユ宮殿よりもっと素晴らしい紫禁城を案内するから中国に来ませんか?」と誘ってくれたのです。
そして会議の合間に瀋陽の大学の覊春林(きしゅんりん)先生も瀋陽への訪問も誘ってくれたのです。
この誘いのことを会議の幹事だったリブーというフランス人に相談しました。彼は是非行ってこいと言います。そして今回来ている中国人はみんな共産党員だと教えてくれました。
この二人の誘いで1981年に北京と瀋陽の大学で講義をすることになりました。
当時は中国人で外国旅行が出来る特権は共産党員にしか持っていなかったのです。それが当時の中国社会の実態だったのです。
この続編に、いろいろと中国社会の実像の様子を書いていきたいと思いますが、今日は一つだけ書きます。
それは「中国社会のいろいろな分野で成功するためには共産党員でなければ難しい」という実態です。
上の国際会議もその一例です。共産党員でなければ出席できなかったのです。夜のベルサイユ宮殿も見物出来なかったのです。
また上の一例が示すように中国では学者も芸術家も会社の経営者もみんな共産党員なのです。それは各分野の有力者です。総人口の数%しかいない特権階級なのです。
日本では共産党員といえば政治活動をしている人だけです。代々木の共産党に所属している人はみんな政治活動をしています。しかしそれは日本の総人口に比べると非常に少ない人数です。
中国の社会はどんな分野でも共産党員が有力者になっているのです。
これが中国の共産党独裁制を支えている強い基盤になっているのです。
私個人は共産党は嫌いです。しかし中国が好きです。
私は親しい中国人の友人を2人持っていました。1981年に中国に行って以来、何度も中国へ行き非常に親しくなりました。2人とも中国共産党の党員でした。
周栄章と金応培という方で、北京と瀋陽にある大学の教授でした。親しくなってから中国の社会の実際の様子をいろいろ聞きました。
その社会は我々の想像を絶するものでした。
これから中國社会の実態を書いていきたいと思います。

今日はベルサイユ宮殿の近くの国際会議から中国との交流が始まったいきさつを書きました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「淋しい北国、フィンランドの静かな湖の写真」

2024年08月22日 | 写真
淋しい北国、フィンランドの静かな湖の写真をお送り致します。
フィンランド共和国は北ヨーロッパにある国です。首都はヘルシンキでバルト海東岸にあります。
国境は、北はノルウェー、西はスウェーデン、東はロシアと接します。南はフィンランド湾を挟みエストニアです。
ロシア帝国がロシア革命で崩壊したことで1917年に独立を果たしました。
ソ連に併合されたバルト三国と異なり独立を維持した北国です。

ヘルシンキ工科大学ではハイキンハイモ先生を訪問しました。寂しい北国への独り旅でした。
ハイキンハイモ先生は冷えた私を温かく迎えてくれました。先生は私を自宅での夕食にも招待してくれました。
若い奥さんは東洋人を見るのが初めてらしく私の風貌や姿をシゲシゲと見ました。
失礼な態度とも思いましたが、それよりもフィンランドが辺境の地にあり外国と隔絶した国であることを体験的に理解出来ました。思えば遠くに来たものです。
ハイキンハイモ先生は自宅に招待してくれただけでなく大学のサウナへも案内してくれたのです。
北欧のサウナは白木だけで内装された素朴なサウナです。私が入ったサウナは隣に白木の脱衣所を兼ねた談笑室がありました。
そこで野の果物でつくった 蒸留酒をハイキンハイモ先生と一緒に飲みました。楽しい懐かしい思い出です。茫々、50年余の前のことです。

フィンランドの静かな湖の写真の出典は下記の通りです。
https://pixabay.com/ja/photos/%E6%B9%96-%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%B8-%E3%83%91%E3%83%B3%E3%82%AB%E3%83%8F%E3%83%AB%E3%82%B8%E3%83%A5-7415097/

「遥かなスエーデン王国の花の写真」

2024年08月22日 | 写真
遥かなスエーデン王国の家々に咲く花の写真をお送り致します。写真は「スエーデンに咲いている花」を検索して出て来た数多くの写真から選びました。

さて私をストックホルム王立工科大学の集中講義に招待してくれたエケトルプ教授の趣味のことを書きます。
教授は古民家を復元する趣味を持っていたのです。驚いたことにエケトルプ先生は中世のスウェーデンの古民家の構造を詳しく調べ、忠実に復元していました。ストックホルムの郊外のプラタナスの大樹の下に、藁葺と白壁の中世風の農家を復元して住んでいたのです。
昔の農家の設計図を探し出し、忠実に再現した古民家です。
家の再現で苦労したのは釘を一本も使わないで造ることだったと言います。
内装はすべて白っぽい北国の板材です。柱は太い丸太の表面を磨いたもの。屋根は意外にもそんなに厚くない麦藁葺。年間雨量の少ない乾燥した北国なので、日本の合掌造りの屋根のように急斜面でなく、その上、部厚くはないのです。
大きな石組みの煙突が家の中心を貫き、その余熱で二階の寝室の暖房にするのです。
寝室には電気が無く、灯りはローソクです。
木の香を楽しみ、夕食後は石の竃(かまど)の前に座り、コケモモでピンクに色づけしたスウェーデンの蒸留酒を飲みます。
以上、スウェーデンのエケトルプ先生の思い出でした。

「アイヌ民族と日本民族の祖先は同一人種、しかし両者の文化は違う!」

2024年08月21日 | ブログ
民族の違いを分ける場合に下記の通り2つの方法があります。
(1)生物学的に民族の特徴を見て分類する方法。
例えば白人、黄色人、黒人と分類します。すると日本人と中国人は同じ黄色人となり区別はありません。
(2)それぞれの民族の暮らし方や文化を見て分類する方法。
文化が違えば違う民族と判定します。すると日本人や韓国人や中国人と区別出来ます。
アイヌ民族と日本民族にこの2つの方法を適応するとどうなるでしょうか?
するとアイヌ民族と日本人の祖先は同じなので生物学的には同じ黄色人となり区別はありません。
しかしアイヌ民族と日本人の暮らし方や文化は第二次世界大戦の終戦までは大きく違っていました。この暮らし方や文化の違いは鎌倉時代から顕著になって来ました。
それで文化の違いからアイヌ民族と日本人は違う民族だと断定する人が多いのです。
断定してアイヌ民族を差別する人もいるのです。困ったものです。

ここで私が主張したいことは「地球上に生きているすべての民族には優劣が絶対に無い!」ことです。当然、アイヌ民族と日本人はお互いに差別すべきではないのです。

最近のアイヌ民族に関する数編の私の記事がアイヌ民族を差別していると誤解する人もいるようなので念のため書きました。

添付のアイヌ民族の写真の出典は、https://stock.adobe.com/jp/search?k=%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%8C%E6%B0%91%E6%97%8F です。

「アメリカに留学し私の愛国心が強くなる」

2024年08月21日 | 日記・エッセイ・コラム
若い頃も貧乏でした。昭和11年に生まれ昭和33年、1958年に東北大学を卒業し大学院に進みました。その頃にアメリカへ留学したいと思いました。しかしお金がありません。
大学の図書館でアメリカの学会誌でオハイイオ州立大学のセント・ピエール教授の名前と住所を知りました。手紙を書きました。そしたら生活費を支給してくれるという返事が来ました。
アメリカ往復の航空券はアメリカ政府のフルブライト奨学金がくれました。こうしてお金が無くてもアメリカへ留学出来たのです。
私は1960年から1962年まで、オハイオ州立大学の金属工学科に留学しました。
アメリカに行ってみると当時のアメリカ人は日本人を蔑んでいなかったのです。いや尊敬すらしていまいた。理由は簡単です。日本は勇敢に戦い手強い相手だったのです。
ですからアメリカ人はいつも私を励ましてくれ、好意溢れる支援を惜しみなく与えてくれたのです。
例えば博士過程を卒業するために実験装置を作ったときのことを思い出します。その装置の完成には大学に付属の機械工場のニールさんという職人がひどく親切に協力してくれたのです。
そして学科主任のフォンタナ教授が励ましてくれたのです。

1番目の写真はロードホールという建物です。この建物の一階の右端の部屋にその実験装置を作りました。

2番目の写真は親切だった学科主任のフォンタナ教授の部屋のあった建物です。彼が寄付をした建物なのでフォンタナ実験室と言う名前がついていました。
玄関を入ってすぐ右側に彼の部屋があり、ヘレンという秘書がいつも親切にしてくれました。良く出来た女性でした。
そしてもう一つの忘れ得ぬ経験は、指導教官のセント・ピエール教授夫妻が我々の結婚式の仲人をしてくれたことです。私は 妻を日本から呼び寄せ、オハイオコロンバスで結婚式を挙げたのです。1961年のことでした。

アメリカ人の親切さは留学した大学の人だけでなかったのです。見ず知らずの人も困っている私共を助けてくれたのです。

3番目の写真はオハイオ・キャバーンという鍾乳洞の入り口です。右の建物の中のエレベーターで降りると巨大な鍾乳洞がありました。
そこへ新婚の家内と行った帰り道で車が故障しました。周りはぼうぼうたるトウモロコシ畑です。人っ子一人いません。すっかり途方にくれていたら一台の車が通りがかったのです。
若い男が私の車のボンネットを開け、これは重症だと言います。そしてロープで私の車をかなり遠方の町の修理屋まで引っ張って行ってくれたのです。この様な体験は数回経験しました。
このような体験をすると何時までもアメリカ人への感謝の気持ちが残るのです。それが人間として当然ではないでしょうか?アメリカのことは全て好意的に見てしまうのです。
それはさておき、私の受けた最大の影響は私が愛国心を強く持つようになったことです。
私はアメリカに留学した影響で終生変わらない愛国心を持つようになったのです。
日本に生まれた幸運に感謝しました。祖国日本を懐かしみ大切に思うようになりました。どこの国より愛しています。その上、アジア人として生まれた幸運にも感謝しました。したがって隣国の韓国や中国も大切に思い愛しています。アメリカで生活していると自然にそんな気持ちになるのです。
そのような愛国心を終生持つようになった原因は多数の民族が混じっているアメリカに住んでみて、その中で強烈な人種差別の実態を見たからです。
1960年に留学したアメリカでは酷い黒人差別をしていました。
オハイオ州の州都、コロンバスに留学した大学がありました。その町でも白人と黒人の住む地域がはっきり別れていました。バスに乗ると前半分が白人席で後半分が黒人席と決まっていました。間に仕切りがあります。
コロンバスでは映画館もレストランも黒人用は別でした。
留学した大学は白人しかいません。親しくなった白人の同級生が黒人との付き合い方を真剣に教えてくれました。黒人と個人的に親しくなってはいけない。一緒に並んで道路を歩いてはいけない。毎日家々にゴミ集めに来る黒人には絶対にサンキューと言ったり話しかけてはいけない。黒人地域はアパートが安いからと住み込んではいけない。こんな調子でした。
私が留学した1960年から1962年のアメリカは人種差別の強い時代でした。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

もう2枚の写真はアメリカの風景写真です。ネットで「アメリカの風景写真」を検索してお借りした写真です。



「アイヌは日本人の祖先、日本の地名の多くはアイヌ語」

2024年08月20日 | 日記・エッセイ・コラム
自分達の先祖はどんな民族だったのか? 何処から移住して来たのか? どんな暮らしをしていたのか?
多くの人が興味を持つ問題に違いありません。
最近、日本人の祖先はアイヌ人だと考える人が増えたようです。もっともアイヌという名称は中世以後に出来た名称ですから「原日本人」と言うべきです。この「原日本人」が中世以後のアイヌ人と同じだったのです。しかし以下の文章では原日本人をアイヌ人と書いています。その方が分かり易いからです。
「原日本人」がアイヌ人だったという根拠の幾つかを書いてみたいと思います。富士山も神もアイヌ語だという話です。日本の地名の多くはアイヌ語だという話です。
日本列島に人間が沢山住むようになったのは少なくとも4万年前からの旧石器時代からです。当時の日本には南の中国や朝鮮からの渡って来た人々とカムチャッカ、樺太、千島列島から渡ってきた北方民族の両方が住んでいたと考えられています。両方が雑婚して住んでいました。そう考えるのが自然です。
北方民族の遺伝が強い北方日本の人々を後代の日本人はアイヌと呼んでいます。
アイヌ民族の居住範囲は本州の関西地方を南限にして、関東や東北地方はアイヌ人だけが住んでいたと考えられています。
従って東北地方と北海道南部に花咲いた縄文文化はアイヌ人(原日本人)の文化だったのです。
それが弥生時代になり、西日本では中国系の人が増えて、アイヌ人(原日本人)は次第に東北地方へ追いやられたのです。
そして北海道に孤立した縄文人(原日本人)、すなわちアイヌ人はその後、オホーツク文化の影響を色濃く受けて擦文土器文化になり、その後独自のアイヌ文化になったのです。
私の先祖はアイヌ人です。私の先祖の出生地が東北地方だからです。蝦夷(えみし)なのです。
大雑把に言って先祖が関西以北の出身なら、アイヌ人が祖先になると考えるのが自然です。

さて「古事記」に出てくる地名が多くはアイヌ語起源である可能性が高いという仮説があります。「目からウロコの漢字問題」(宝島社文庫)という本に以下のようにあります。
・・・昔は日本の大部分の地域にアイヌ民族がいた。その後北方へ追いやられたが、(現代日本人の八割の人はアイヌ民族の血を引いているという)、このようなわけで、とりわけ北海道や東北の地名には、アイヌ語に漢字を当てたものがごろごろある。
 たとえば、栃木県「日光(にっこう)」は「二荒(ふたら)」が「にこう」と読み違えられ、さらにそれに当て字をして出来上がったという。この「ふたら」はアイヌ語「プタアラ」が語源になっており、これは「美しい高原」のことである。「富士」もアイヌ語の「フチ(火)」が語源だとする説が有力だ。つまり「火の山」だったわけである。」・・・

以上の本は学問的な厳密性を欠いた読み物風の本のようで信用出来ないかも知れません。しかし、このことは明治時代に、東京帝国大学の教授であったバジル・ホール・チェンバレン教授によって明らかにされたのです。彼は英・アイヌ・和語辞書を作った学者です。
とりわけ北海道や東北の地名には、アイヌ語に漢字を当てたものがごろごろあることは確かです。さらに彼は富士山や利根川や能登半島もアイヌ語だとも言うのです。
そして現在、北海道に住んでいる人々は北海道の地名の8割ほどがアイヌ語をカタカナや漢字で表現した地名であると知っています。
しかし北海道以外の日本人は意外にこの事実を知っていません。札幌も稚内も石狩川もすべてアイヌ語の地名を漢字で書いたものなのです。

アイヌ人は縄文時代末期まで、関東地方にも広がって住んでいたのです。その後、大和朝廷に少しずつ北方へ追いやられ、江戸時代には北海道(蝦夷地)にだけになりました。しかしその一方で、多くのアイヌ人は混血して東北地方にも住み着いていました。
ですから本州の関東以北にはアイヌ語の地名をいくつも残っています。
話はいきなり飛びますが、アメリカの内陸部の地名、河の名前がインディアン語のものが多いのです。私が住んでいたオハイオもそうですが、オハイオ州の河や地名の多くはインディアン語由来のものです。先住民は消えて行きます。しかし先住民の残した地名はアメリカに沢山あります。

下に「北海道の地名・駅名」についての資料をご紹介します。
これには北海道のアイヌ語由来の地名をカタカナや漢字で表すときの一般的な規則が分類され出ています。(Wikipediaの「北海道の地名・駅名」より抜粋)
北海道の地名・駅名は、概ね以下のように分類できる。
アイヌ語に由来するもの
アイヌ語に日本語(漢字)表記をあてたもの
アイヌ語をそのまま使用しているもの
内地からの開拓・入植に際して地名が決められたもの
周辺に存在した施設・自然状況、あるいは周辺の風土などから命名
上記によって定められた地名・駅名に、方向や大小などの接頭語・接尾語をつけたもの

@アイヌ語に由来するもの
アイヌ語地名に日本語風の地名・駅名につけるにあたっては、以下の方法が見られた。
アイヌ語に漢字の表記をあてたもの
アイヌ語の音に漢字をあてずカタカナで表記しているもの
@アイヌ語に漢字表記をあてたもの
老者舞(おしゃまっぷ)
音訳 - アイヌ語の「音」を流用し、漢字を当て字(仮借)したもの
意訳 - アイヌ語の「意味」を解釈し、似た意味の日本語を割り当てたもの
音訳したもの
音訳の例としては、「ホッキ貝の多い所」を表す「ポク・オ・イ」からとった母恋や、「川口の汚染された所」を表す「オ・トイネ・プ」からとった音威子府・音稲府(枝幸町)などがある。

また、アイヌの地名をそのまま日本語地名としては冗長であったりごろが悪かったりする場合には一部短縮・省略したものもある(オペレケレケプ->帯広、ピウカ->美深))。
これらは音のみに着目した「当て字」である。漢字は表意文字であるが、あてられた漢字の意味にアイヌ語原義との直接的な関連性があるとは限らない。例えば、北海道に数多く見られる「内」「別」は、それぞれアイヌ語で川を意味する「ナイ」「ペツ」に当て字されたものであり、「内側」「別れる」の意味は持たない。同じように「幌」は「大きい・広い」を意味する「ポロ」の当て字で、「幌」の字の持つ意味とは関係がない。
========以下省略します。==============

最後に一言余計なことを書かせて下さい。日本人は明治維新以来、アイヌ人を蔑視してきました。その証拠は1997年(平成9年)まで存続していました「北海道土民法」です。ですから「日本人の先祖はアイヌ人」という題目に感情的に反発する人がいます。貴方自身はどのようにお感じでしょうか?

今日の挿し絵代わりの写真はアイヌの血の濃い北海道の人々によるアイヌの再現写真です。写真の出典は、https://rurubu.jp/andmore/article/12912 です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)