後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「アメリカに留学し私の愛国心が強くなる」

2024年08月21日 | 日記・エッセイ・コラム
若い頃も貧乏でした。昭和11年に生まれ昭和33年、1958年に東北大学を卒業し大学院に進みました。その頃にアメリカへ留学したいと思いました。しかしお金がありません。
大学の図書館でアメリカの学会誌でオハイイオ州立大学のセント・ピエール教授の名前と住所を知りました。手紙を書きました。そしたら生活費を支給してくれるという返事が来ました。
アメリカ往復の航空券はアメリカ政府のフルブライト奨学金がくれました。こうしてお金が無くてもアメリカへ留学出来たのです。
私は1960年から1962年まで、オハイオ州立大学の金属工学科に留学しました。
アメリカに行ってみると当時のアメリカ人は日本人を蔑んでいなかったのです。いや尊敬すらしていまいた。理由は簡単です。日本は勇敢に戦い手強い相手だったのです。
ですからアメリカ人はいつも私を励ましてくれ、好意溢れる支援を惜しみなく与えてくれたのです。
例えば博士過程を卒業するために実験装置を作ったときのことを思い出します。その装置の完成には大学に付属の機械工場のニールさんという職人がひどく親切に協力してくれたのです。
そして学科主任のフォンタナ教授が励ましてくれたのです。

1番目の写真はロードホールという建物です。この建物の一階の右端の部屋にその実験装置を作りました。

2番目の写真は親切だった学科主任のフォンタナ教授の部屋のあった建物です。彼が寄付をした建物なのでフォンタナ実験室と言う名前がついていました。
玄関を入ってすぐ右側に彼の部屋があり、ヘレンという秘書がいつも親切にしてくれました。良く出来た女性でした。
そしてもう一つの忘れ得ぬ経験は、指導教官のセント・ピエール教授夫妻が我々の結婚式の仲人をしてくれたことです。私は 妻を日本から呼び寄せ、オハイオコロンバスで結婚式を挙げたのです。1961年のことでした。

アメリカ人の親切さは留学した大学の人だけでなかったのです。見ず知らずの人も困っている私共を助けてくれたのです。

3番目の写真はオハイオ・キャバーンという鍾乳洞の入り口です。右の建物の中のエレベーターで降りると巨大な鍾乳洞がありました。
そこへ新婚の家内と行った帰り道で車が故障しました。周りはぼうぼうたるトウモロコシ畑です。人っ子一人いません。すっかり途方にくれていたら一台の車が通りがかったのです。
若い男が私の車のボンネットを開け、これは重症だと言います。そしてロープで私の車をかなり遠方の町の修理屋まで引っ張って行ってくれたのです。この様な体験は数回経験しました。
このような体験をすると何時までもアメリカ人への感謝の気持ちが残るのです。それが人間として当然ではないでしょうか?アメリカのことは全て好意的に見てしまうのです。
それはさておき、私の受けた最大の影響は私が愛国心を強く持つようになったことです。
私はアメリカに留学した影響で終生変わらない愛国心を持つようになったのです。
日本に生まれた幸運に感謝しました。祖国日本を懐かしみ大切に思うようになりました。どこの国より愛しています。その上、アジア人として生まれた幸運にも感謝しました。したがって隣国の韓国や中国も大切に思い愛しています。アメリカで生活していると自然にそんな気持ちになるのです。
そのような愛国心を終生持つようになった原因は多数の民族が混じっているアメリカに住んでみて、その中で強烈な人種差別の実態を見たからです。
1960年に留学したアメリカでは酷い黒人差別をしていました。
オハイオ州の州都、コロンバスに留学した大学がありました。その町でも白人と黒人の住む地域がはっきり別れていました。バスに乗ると前半分が白人席で後半分が黒人席と決まっていました。間に仕切りがあります。
コロンバスでは映画館もレストランも黒人用は別でした。
留学した大学は白人しかいません。親しくなった白人の同級生が黒人との付き合い方を真剣に教えてくれました。黒人と個人的に親しくなってはいけない。一緒に並んで道路を歩いてはいけない。毎日家々にゴミ集めに来る黒人には絶対にサンキューと言ったり話しかけてはいけない。黒人地域はアパートが安いからと住み込んではいけない。こんな調子でした。
私が留学した1960年から1962年のアメリカは人種差別の強い時代でした。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

もう2枚の写真はアメリカの風景写真です。ネットで「アメリカの風景写真」を検索してお借りした写真です。



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