後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

中東の混戦を見て太平洋戦争のことを思い出す

2015年11月29日 | 日記・エッセイ・コラム





先日この3枚の写真のような国立市の青柳北緑地を散歩しながら考えたことす。
中東の戦乱はアメリカ、ロシア、ドイツ、フランス、イギリスなど数多くの欧米諸国とサウジアラビア、アラブ首長国連邦、などが連合してイラクとシリアに展開している反体制派武力集団とイスラム国に熾烈な空爆を連日続行しています。その結果、何百万人という難民が各地に発生しているのです。人類の大きな悲劇です。
青柳北緑地を散歩しながらこの中東の戦争の結末は一体どのようになるのだろうかと考えていました。欧米諸国が中東から手を引き、アラビア半島や北アフリカをいろいろなアラブ民族の自治に任せるようになるでしょうか?
現在の混乱した中東の戦争を観察していると、このように簡単な結末にはならないようです。
そこでその比較として太平洋戦争の事を考えていました。この戦争では日本の軍隊をアメリカ軍が完膚無きまでに打ち砕いたのです。勝ち負けの明白さを見ると理解しやすい戦争でした。
この太平洋戦争の結果起きたアジアの植民地の独立について以下に簡単に書いてみます。
1941年12月8日の真珠湾攻撃で第二次世界大戦に参戦した日本は、快進撃を続け、瞬く間に東南アジアを占領してしまいました。
その地域はイギリス、フランス、オランダ、アメリカの植民地だったところです。
ですからその地域の日本軍の占領は植民地の解放とも強弁できます。
欧米人を追い出し、大東亜共栄圏という経済圏を作るというのが日本が主張した大義名分でした。
建て前はそうでも、多くの日本人の本音は自分たちの植民地にしようという意図だったのです。それが証拠には日本は既に台湾や朝鮮を領有しており、満州という傀儡国家も作っていたので言い逃れは出来ません。
もし日本が本気で植民地の解放を目的にしていたなら、占領と同時にその地域の独立を宣言し、新しい国家へ自治権を与え、国家の建設に協力すべきでした。
随分と後になってから東條総理は各地の首脳を東京に集め、大東亜共栄圏を作るためのアジア会議を開催しましたが、各国の独立を直ちに認めようとはしなかったのです。
しかし1945年の夏に日本が敗北するとビルマ(ミャンマー)、ラオス、カンボジア、ベトナム、マレーシア、インドネシア、シンガポール、フィリッピンなどが一斉に独立運動を開始したのです。
ベトナムでグエン・ザップ将軍の率いるベトナム軍が、曾ての宗主国であるフランスと激しい戦争をして勝つのです。
そしてスカルノ将軍の率いるインドネシア軍も、宗主国のオランダに勝利して独立を勝ち取るのです。
4番目の写真の図面は日本が占領する前の東南アジアの植民地を地図で示したものです。

(この図の出典は、http://homepage3.nifty.com/asia-kenbunroku/Shokuminchi.htm です。)
そしてインドネシアの独立戦争に現地に残留した日本兵が多数参加したのです。
従って、独立後のインドネシアは非常に親日的な国になりました。
ベトナムでも多数の日本兵がホーチーミンの部下としてフランス軍と戦ったのです。その実態は、「外国体験のいろいろ(5) 温顔の将校ホーチーミン」と題した記事に書いてあります。
太平洋戦争の初めの期間は日本軍がイギリス、フランス、オランダ、アメリカの軍隊を蹴散らし、イギリスの戦艦ウエールズも撃沈してしまったのです。
白人の国家の軍隊を日本人がいとも簡単に打ち破ったのを見て、ビルマ(ミャンマー)、ラオス、カンボジア、ベトナム、マレーシア、インドネシア、シンガポールの人々は勇気づけられたのは自然なことです。「やれば自分たちにも出来る」と独立戦争に立ち上がったのです。
ですから第二次世界大戦に日本が参戦し、快進撃を見せて、その後、間もなく敗れた事実が東南アジアの植民地の独立のキッカケになったことは間違いの無い事実です。
現在は学校で教える歴史には残っていませんが、敗戦後各地に起きた独立戦争に日本軍からの志願兵が多数参加したことは忘れられない事実です。
従って対日感情の良い国々はビルマ(ミャンマー)、ラオス、カンボジア、ベトナム、マレーシア、インドネシア、シンガポールです。
西のインド、バングラディッシュ、パキスタンも対日感情の非常に良い国々です。
しかしフィリッピンだけは例外です。占領した日本軍がアメリカへの恨みから、かなり残酷な占領政策を敷いたのです。例えば戦後、アメリカが宣伝したバターン死の行進がその例です。フィリピンの軍隊はアメリカ軍と言いましたが、大多数のフィリピン人が参加していたのです。
朝鮮半島と中国本土でも日本軍の政策は過酷なものでした。現在、対日感情の悪いのは仕方がありません。それと対称的に台湾は対日感情が良いのは日本の政策が良かったからのようです。
アジアの植民地の独立はやがてアフリカにも波及します。そして現在はこの地球上に植民地がほとんど無くなってしまったのです。
このような事は人類の歴史に空前のことです。そのキッカケを作ったのが日本の参戦と快進撃と敗北でした。日本が参戦しなかったら世界中に数多くの欧米の植民地がまだそのまま存在していたと思います。
日本が植民地を手に入れようとして参戦し、快進撃をし、その後敗北したことが皮肉にも世界中から植民地を無くしたのです。歴史の不可思議さに打たれます。
動機は立派でなかったが結果は立派だった場合に、それをどのように評価するかは人それぞれです。しかし激動の昭和時代を客観的に見直すと、日本が世界へ与えた影響の大きさは率直に認めざるを得ません。
この太平洋戦争と現在、中東で起きていて戦争を比較すると明快な違いがあります。
太平洋戦争の敵と味方は明快でした。日本はアメリカ、オーストラリア、蒋介石の国民党軍、毛沢東の共産党軍と戦ったのです。
中東における戦争はどの国が敵で、どの国が味方かが明快に分からないのです。
この状況はヨーロッパの17世紀に起きた30年戦争とよく似ています。国家の大義名分と領主の私利私欲が複雑にからみあい欧州のほとんど全ての国々を巻き込んだ国際戦争が30年も続いたのです。
この中東での混乱した戦乱に日本はどのようにかかわったら良いのでしょうか?
実に困った問題です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料=======
外国体験のいろいろ(5)◎ 温顔の将校ホーチーミン
2007年11月14日、http://blog.goo.ne.jp/yamansi-satoyama に掲載記事の抜粋:
第二次世大戦後ベトナムに残留し、ホーチーミンの部下としてフランスと戦った二人の日本兵と一人の銀行家から1990年に直接聞いた話です。
以下はフランス軍と戦った日本兵の話です。
「作戦の最中、川を渡ることがしばしばあった。川岸に来ると兵隊は下半身裸になり、服を着た将校を背負って渡るのです。軍隊では当たり前の習慣でした。残留日本人は皆将校になったので、服を着たまま兵の肩に載って渡るました。ふと前を見ると、将校服の老人がズボンをたくし上げて歩いて渡って行くのが見えました。向こう岸にたどり着き、渡河した老将校の顔を見ると、それは温顔のホーチーミンだったのです。兵隊へ「ご苦労さん」と言っているようにニコニコ顔で振り返っています。こんな場合、日本軍出身の将校は兵から飛び降りる。一方ベトナム人将校は自分の行動を続ける。ホーチーミンも将校に歩いて渡れと命令しないし、そんなことを期待もしてない。しかし、このエピソードは数日でベトナム全軍に広がったのです」
ベトナム兵の士気が上がるのは当然であろう。元日本兵はホーチーミンの部下として戦った6年間を人生の中で一番輝かしい期間だったと言っていました。
  @日本兵帰還の特別列車
1951年になり、朝鮮戦争が始まります。ホーチーミンは郷愁の念にかられる残留日本兵に深い感謝を伝え、北京までの特別列車を仕立て送り返した。F氏とY氏になぜ残留したのですかと聞いた。「ホーチーミン軍に加われば、食料に困らないと聞いたからですよ。共産主義が正しいとか大東亜共栄圏がよいとか考えませんでした。食べ物の誘惑でしょうね」
もう一人のH氏は元横浜正金銀行の幹部であった。ホーチーミン軍の財務担当幹部としてベトナムの銀行制度の骨子を作ったそうです。H氏は「ホーチーミンは官僚主義を憎んでいた。ベトナム共産党もすぐに官僚的文化に染まり、その結果、一般人民が被害を受けることを憎んでいた。彼は一般民衆の幸福を第一に考え、アメリカ、ソ連、中国からの完全な独立を確信していた」と語ったのです。
以下省略。

1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
同感です (NT)
2015-12-03 21:31:18
中東の混乱を見て太平洋戦争を思い出す の記事全く同感です。悲しいことに、当時の日本の為政者は遅れてきた帝国主義者でしかなかったのが残念。真珠湾攻撃は1946年ではなく1941年、昭和16年です。何かの誤りでは。 
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。