後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「友人たちが先に旅立つ、今は亡き村木良彦君の思い出」

2024年06月04日 | 日記・エッセイ・コラム
村木良彦君の思い出を書きたいと思います。彼とは中学と高校が一緒でした。仙台の愛宕中学校と仙台一高で同級でした。寡黙で色の白い少年でした。一緒に演劇部に入っていました。村木君は演技力があり舞台ではしばしば主役を務めていました。高校の頃は東8番丁にあった彼の家に何度か遊びに行きました。母親が病で床についていると彼が淋しそうに言います。父は裁判官でした。親しくしていましたが仙台から去ってしまいました。東京大学の文学部に行ってしまったのです。大学生の頃東京で会いました。大井町駅の前の店でトンカツをご馳走してくれたのです。
大学を卒業すると彼は赤坂のTBS社に入社します。また会って赤坂で一緒に何度か飲みました。その後はお互いに仕事が忙しくて会っていません。しばらくすると村木君はTBS社のディレクターとして活躍していました。しかしその後、TBS社から独立し同志3人とともにテレビマンユニオンを1969年に創ったのです。そして16年前の2008年に亡くなりました。あまりにも早い旅立ちでした。
現在、Googleで村木良彦という名で検索すると、「遠くへ行きたい」、「世界不思議発見」、「海は甦える」など歴史的な作品のプロデューサーの仕事をしたという輝かしい業績が並んでいます。その頃は会っていなかったので彼の活躍を一切知りませんでした。しかし「遠くへ行きたい」と「世界不思議発見」はテレビでよく見ていました。(村木良彦 - Wikipedia、 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%91%E6%9C%A8%E8%89%AF%E5%BD%A6 )
2000年の頃、同窓会で会いましたが、彼は自分の仕事のことは話さないのです。ニコニコ笑ってこちらの話を聞くだけです。
2008年に亡くなった時、都内のあるお寺で葬儀がありました。
弔辞を読んだのはテレビマンユニオンの昔の同志の今野勉 氏でした。村木氏の業績のことは殆ど触れないで、やさしく、穏やかで、決して怒らず、いつもまわりの人々に愛されていたと話すのです。ただ仕事のことになると、視聴率だけがもの言うテレビ番組作りへ鋭い批判を繰り返し、何時も良質の番組をつくる情熱に溢れていたそうでした。その思いで彼はテレビ番組制作者連盟という組織を創り、自ら理事長を務めていたのです。日本のテレビ番組の質的向上へ意欲を燃やし続けてきたそうです。村木君は良質な番組を作ることに情熱を燃やしていた。そんな内容の今野氏の弔辞でした。
死んだ人の輝かしい業績だけを羅列する弔辞は多い。しかし、死者の優れた人間性を賞賛する弔辞ほど生き残った人々へ勇気を与えるものは無い。昔、仙台にいたころ村木君の家へよく遊びに行ったことを思い出しながら葬儀会場を後にしました。
村木君の終生の趣味はギリシャ悲劇でした。よくギリシャ悲劇の話をしていました。三大悲劇詩人がアテネにいたと聞いた記憶が残っています。
 
村木君はあの世に居ます。もうこの世では会えません。しかしテレビの画面にテレビマンユニオンの字が出る度に村木君のことを思い出します。
 
今日の挿絵代わり写真は村木君と遊んだ頃の戦後の仙台の風景写真です。
 
それはそれとして、今日も皆様の健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
1番目の写真は戦後の質素な仙台駅と市電の風景写真です。その後の高度成長の頃、仙台駅は豪華な鉄筋コンクリート造りになり市電は撤去されました。
2番目の写真の中央奥は仙台市役所です。まだ焼け野原が残ってあります。
3番目の写真は仙台の中心街の芭蕉の辻です。進駐軍の大型車が走っています。
4番目の写真は昔の東北大学の理学部です。私が通っていた金属工学科は右隣りにありました。その後東北大学は青葉山に引っ越しました。懐かしい風景写真です。
現在の仙台の中心街はすっかり変わってしまいました。あれから茫々60年です。

「友人たちが先に旅立つ、親友、近藤君の思い出」

2024年06月04日 | 日記・エッセイ・コラム
3年前に亡くなった近藤達男君は仙台の大学時代の同級生でした。何事にも情熱的で夢多いロマンチストでした。大学の赤レンガの建物の屋上で私が撮った近藤君の学生服の姿の写真を思い出します。
やがて卒業し就職しました。東海村の日本原子力研究所で金属の腐食の研究を始めました。私は何度か東海村の近藤君の所に遊びに行きました。新婚だった彼の家に泊ったこともありました。 
1番目の写真は東海村の原子力研究所の現在の風景です。原子力研究所は昭和31年6月に発足しました。発足当時は小さな研究所が茨城県の農村にポツンとありました。
私は昭和34年に2週間の原子力研究所の研修に参加しいました。原子力発電機の運転を体験したのです。近藤君の実家は千葉県の飯岡にありました。私はそこへも遊びに行きました。
2番目の写真は千葉県の飯岡の現在の風景です。
日本原子力研究所で働いている時、オハイオ州立大学へ近藤君も留学するように誘ったのです。彼は素直に奥さんと共にオハイオに来ました。3年後に夫婦そろってて博士号を取りました。その後は東海村の研究所で生涯を過ごしたのです。
我が家にも泊まりに来てくれました。旧友と学生時代の話をしながら酌み交わした酒はしみじみ美味しかったのを思い出しています。
定年後、近藤君は霞ヶ浦の私のヨットに何度か遊びに来ました。水戸から特急に乗ってやって来たのです。
3番目の写真は近藤君と霞ヶ浦でセイリングした時の写真です。今から20年ほど前でした。
夜は近藤君とヨットの中でビールを飲みました。その時彼が、「こんな面白いものに仙台時代の同級生も誘ったら良い」と言うのです。私は昔の同級生をよびました。近藤君を含めて同級生が6人来ました。霞ヶ浦でセイリングを楽しみました。その後、ヨットの中で飲みました。夜は皆は土浦駅前のホテルに泊まりました。
この時参加した星野君も大友君もその後旅立ってしまいました。
近藤君は研究所を止めてからも元気でした。畑でいろいろな野菜を作り宅急便で送って来ました。新鮮な野菜は美味しいと分ったのは近藤君のお陰です。
彼は原子力発電は重要な技術だから止めるべきではないという講演をあちこちでしていました。
彼の意見を掲載した新聞をご紹介します。銚子市文化講演会の様子を報じた新聞記事です。

4番目の写真は近藤君の主張を掲載した新聞の誌面の写真です。新聞は銚子市に古くからある新聞、「大衆日報」です。その2011年8月3日の紙面の写真です。
新聞の見出しを見ただけで彼の気持ちが痛いほど分かります。非常に数多くの研究者が一生を捧げて築いてきた日本の原子力利用の技術をムザムザ捨てても良いのですか?それは技術立国しようと、えいえいとして努力して来た日本にとっては取り返しのつかない禍根になりませんか?原発からの撤退でなく、より安全な原発を開発すべきではないでしょうか?というような主張です。銚子市の新聞、「大衆日報」がそのように報じてくれたのです。
近藤君は最後まで情熱家でした。ロマンチストでした。私の人生を豊かにしてくれた親友でした。

仙台の大学の同級生は30人でした。近藤君も含めて10人以上が旅立ってしまいました。大学時代の彼等の若い元気な顔を思い出します。楽しかった場面をいろいろ思い出します。老境の悲しみでもあり楽しみでもあります。
 
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人) 

「友人たちが先に旅立つ、そして初島への航海の思い出」

2024年06月04日 | 日記・エッセイ・コラム

老境になると昔の友人たちが3人、4人と旅立つて行きます。老いればそれが自然です。私も達観の境地というものが少し見えてきたような気がします。何事も自然の摂理のままに日々が流れてゆくのです。しかし時々は亡くなった友人たちのことを思い出します。

そこで今日は不運にも富士山で遭難死をしたOT君の思い出を書いてみたと思います。

高校時代から親友だったOT君が富士山で行方不明になったという報らせがありました。2018年のことでした。彼はその年の9月2日の午前4時半に山行きの服装で家を出発したそうです。そして富士山8合目の山小屋に記帳しています。
その後、行方不明になったのです。遺体は6年経過した現在でも発見されていません。優しい性格で寡黙な人でした。
OT君とは大学の同じ金属工学科を1958年に卒業しました。そして彼は当時の石川島重工に就職して停年まで技師として過ごしました。
仕事の内容はジェットエンジンの製造でした。アメリカから設計図を供与され戦闘機やヘリコプターを作り航空自衛隊へ納入していたのです。
その田無工場に私を招んでくれて工場見学をさせてくれました。その工場の玄関には日本軍の開発した「桜花」のジェットエンジンが飾ってあったのです。
彼は葉山に住んでいたので葉山マリーナで一緒によくでヨットにも乗りました。
ある時、葉山マリーナから彼と一緒に船で熱海沖に浮かぶ初島へ一泊の船旅をしたことがありました。船は払下げられた古い巡視艇でした。マリーナから操船のためにスタッフが3人加わり、総人数5人の船旅でした。

1番目の写真は熱海から初島へ行く連絡船から撮った初島です。初島は熱海から30Kmの沖にある孤島です。私は何度も熱海から連絡船で行っていました。この写真はそんな折に連絡船から初島を撮ったものです。

2番目の写真は連絡船の後部デッキから熱海方向を見た風景です。熱海温泉の町が白く輝いています。カモメが飛び交っています。

3番目の写真は観光開発された島の広場です。洒落たホテルもあり初島に泊まる人も多いのです。昔は、大根畑だった所は広い芝生の庭に変わり、美しい公園になっている風景です。

4番目の写真は春の初島の風景です。観光客のための菜の花畑です。桃の花も咲いています。長閑な風景です。
この初島へは普通は熱海から船で行きます。しかしOT君と行った時は三浦半島の葉山マリーナから鎌倉沖、小田原沖とはるばる太平洋を航海して行きました。
古い巡視艇は船足が遅く葉山から3時間もかかったのです。そのせいで遠方の孤島へはるばる渡ってきたという感じがしました。
初島に着くと連絡船の発着する港ではなく島の反対側の入り江の突堤に古い巡視艇を舫ったのです。
それは6年前のことでしたが元気だったOT君の顔を鮮明に思い出します。
島ではOT君と民宿に泊り、宿の主人に船を出して貰いサバを釣りました。夜にそのサバを刺身にして貰い、ビールを飲みましたが、サバは不味かったのが印象に残りました。新鮮過ぎるサバは不味いそうです。
帰りは葉山に直行しないで三浦半島の突端の三崎港に寄りましたが、そこで古い巡視艇のエンジンから煙が上がったので大変な経験をしました。私が古い巡視艇の舵輪を握っている間にプロの船長が消火器で火を消したのです。船火事の恐ろしさがよく分かりました。
火が出たエンジンはもう使えません。葉山マリーナから高速艇が来てくれて我々を連れ帰ったのです。
その間中、OT君は沈着冷静でした。「船長が火を消したのですぐ傍の三崎港から救いの船が来るよ」と笑っていました。

そしてその頃、同じ大学の金属工学科の30人の同級生が年に一度集まって昼食会をしていました。OT君は律義に毎回出席し、何時もは寡黙な彼が軽い冗談を言ってみんなを笑わせていました。
2018年の夏に東京駅の地下のビアホールでの昼食会でOT君と話したのが最後になりました。この昼食会もみんなが年老いたからそろそろ止めようと話し合った矢先でした。
OT君の晩年の趣味は古文書を読むことでした。特に鎌倉幕府の歴史書の吾妻鏡は熱心に読んでいました。この本は鎌倉時代研究の非常に重要な史料なのだそうです。
OT君と一緒に一泊した初島へはその前後7回ほど家内と一緒に行きました。
以前は夏ミカンの木が生い茂り、そこここに熟れた実が転がっていました。広い大根畑に沢山の沢庵漬けの樽があり強烈な臭いが漂っていましたが、現在はすっかり姿を消して美しい公園になっています。港のそばに民宿や食堂が並んでいて、地魚の美味しい昼食が食べられます。
私にとっては懐かしい思い出の沢山詰まった小さな島です。

それにしても富士山で遭難したOT君の遺体が見つからないのはどうしてなのでしょうか?健脚だったOT君は安全な登山道をはずれ冒険の道に踏み込んだのでしょうか?
私はOT君を時々思い出して冥福を祈っています。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)