後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「夏が来ると思い出す戦争(4)学徒出陣の悲劇」

2024年06月08日 | 日記・エッセイ・コラム
昭和18年10月の神宮外苑での学徒出陣の写真を見る度に涙が出てきます。
当時はまだ幼かったので、その映像は戦後の映画やテレビで見ました。何度も見て心に焼き付いてしまったのです。 暗い秋雨の降る日です。関東地方の旧制専門学校と大学の文化系の学生が卒業を繰り上げて、死を覚悟で出征するのです。25000人の学生が三八式小銃をかついで行進をします。女子学生を前列に5万人の観衆が学生の出征を送ります。壇上には東条英機首相が前の行進を暗い顔で見降ろしています。行進した25000人の学生のうち何人が無事故郷へ帰ることが出来たのでしょう。
1番目の写真は昭和18年10月の神宮外苑での学徒出陣の壮行会です。  手前の壇上に立っているのが東条英機首相です。敗戦後、東条英機首相はアメリカによって絞首刑にされました。
2番目の写真は出陣する学生たちです。何人生きて帰って来たのでしょうか。
戦争の末期には特攻隊による攻撃を繰り広げたのです。そして学徒出陣した者も多く特攻隊に参加して戦死したのです。
米軍の損害は甚大でした。日本側の特攻関連の戦死者は14009名でした。
日本の特攻隊に対してマッカーサー太平洋戦域連合軍総司令官は以下のように語っています。
(https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13128680533 )
「沖縄では、特攻の日本軍機による攻撃で我が軍は艦船36隻沈没、破壊368隻、航空機損失800機の損害を出した。これらの損害は米海軍がメルボルンから東京までの間に受けたそれまでの損害を遥かに超えるものである。」
特攻が開始された1944年10月から終戦までのわずか10ヶ月間に、米海軍史上最大の損害を与えたのです。
 
この昭和時代の戦争の残酷さをもう一度思い起して、世界に真の平和を作るように努力すべきです。
 
犠牲になった日本の特攻隊関連の全ての死者のご冥福をお祈りします。
同時に戦死した連合国軍の死者のご冥福をお祈りします。
そして太平洋戦争に巻き込まれ戦没した全てのアジア人のご冥福を心からお祈りいたします。後藤和弘

「ベネズエラで会った亡命者ボルサイテスさんの思い出」

2024年06月08日 | 日記・エッセイ・コラム

憂国の亡命者、ボルサイテス博士に会ったのは1976年、ベネズエラの首都カラカスでした。ソ連領リトアニアからの亡命者でした。何時もの笑顔が時々、フッと消えて、深い悲しさを漂わせた表情を見せる男性でした。

カラカスにある鉄鋼分野の国立研究所の研究部長です。「日本ーベネズエラ鉄鋼技術共同会議」を主宰してくれたのです。

ポーランドの北にあるリトアニアは第二次大戦の前までは完全な独立国でした。第二次大戦中にソ連が武力占領し、併合します。ボルサイテス博士は30年前の家族離散の悲しい出来事を昨日のことのように話すのです。ソ連はいつかは崩壊する。そうしたら祖国に帰り政治家になる、と言ったのです。

ベネズエラの奥地の鉄鉱山の見学へも同行してくれました。リトアニアからの亡命者の眼前には祖国の白樺林とはあまりにも違う熱帯の林が豊かに広がっています。暑く乾いた風が熱帯樹林を騒がせていました。往復の車の中で、祖国の白樺林の新緑や紅葉の美しさをしきりに説明してくれます。  

「ソ連はいつかは崩壊する!」、彼が断言した通り、1989年ベルリンの壁が崩壊しました。そしてリトアニアも独立します。 すぐに、ボルサイテス博士が祖国へ帰って国会議員になったという。そんな噂が流れて来たのはベルリンの壁崩壊から数年後のことでした。

彼の為に、リトアニアに栄光あれと念じつつ、遥かに遠方のバルチック3国を身近に感じるようになったのです。時々ベネズエラでの日々を思い出している今日この頃です。

 
今日はリトアニアの風景写真をお送りいたします。写真の出典は、https://www.istockphoto.com/jp/search/2/image?phrase=%E3%83%AA%E3%83%88%E3%82%A2%E3%83%8B%E3%82%A2 です。
 
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
===バルチック3国のソ連への強制編入とドイツによる占領===
以下は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%88%E3%82%A2%E3%83%8B%E3%82%A2%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2 からの抜粋です。
 
・・・ドイツ軍のポーランド侵入によって第二次世界大戦が始まると、1940年夏、世界がドイツのパリ侵攻に注目しているあいだに、ソ連はバルト三国を占領し、強制的にソ連に編入した。
ソ連はポーランド侵攻後、リトアニアに赤軍基地の設置を要請した。さらに1940年6月にはソ連共産党のモロトフが、リトアニアがラトヴィアやエストニアと反ソ連的軍事同盟を結んだと非難した。こうした避難後のソ連はリトアニア、ラトヴィア、エストニアの3国を軍事占領したのです。そしてリトアニア各地で40以上の大量虐殺事件が起きたのです。
 
・・・その後に ドイツによる占領と虐殺が起きたのです。
1941年6月22日、独ソ戦がはじまるとドイツがリトアニアを占領した。ソ連軍は撤退にあたって、プルヴィエニシュケス収容所ではリトアニア人の囚人230人を殺害し、ライネイの森では76人が殺害されるなどして、合計約700人のリトアニア人が殺害された。ドイツ占領によって、反ソ連蜂起が全土で広がった。リトアニア行動主義戦線(LAF) などがリトアニア臨時政府を宣言したが、ドイツはこれを認めなかった。このリトアニア臨時政府は1941年8月7日解体された。・・・以下省略します。

「南米、カラカスの闘牛場でのミサで一緒に祈った人々」

2024年06月08日 | 日記・エッセイ・コラム

ベネズエラは南米大陸の北の部分を占める国。首都、カラカスに2週間ほど滞在した。1976年の事だった。裕福な人々は平地の街中に住み、貧しい人々は街を囲む山の斜面に手造りの家々を作り密集して住んでいる。熱帯特有の、あくまでも濃いコバルトブルーの空の下、人々は陽気で、明るく生きている。しかし、貧富の差の大きさと、生活の厳しさに、胸が痛くなる。こんな風景は南米以外には無い。ベネズエラへの人々への追憶は何故か悲しさに満ちている。

カラカス市で開催された国際会議で知り合った研究者に山の斜面の部落を案内して貰う。彼も貧民部落の出身なので案内出来ると言う。入り口に、蛇口の壊れた水道が一個あり、水が流れている。半身裸の男の子が水の入ったヤカンを2個持って坂道を登って行く。レンガや白いシックイで固めた不揃いの小さな家々が重なるように、斜面を埋めて、上へ、上へと続いている。誰も居ない。ガランとした空虚な路地を乾いた風が吹いている。悪臭もせず清潔な感じである。

中腹まで登ったら家の前で老婆が編み物をしている。我々をとがめるように、険しい目つきで見ている。案内してくれた彼が何か現地語で挨拶する。途端に笑顔を見せる。彼と老婆が何か話し合っている。後で彼に聞いた。ガランとして誰も居ないのは、日雇いの仕事で、皆な出た後だからと言う。そして観光客が現地の案内人なしで来ると殺されるから私へ注意するようにと言ったという。老婆と別れるとき、私の安全を祈るのか十字を切って見送ってくれた。そうだ、ここはカトリックの国。しかし見上げる部落には教会らしい建物が無い。

ホテルへ帰って、「キリスト教のミサに行きたいが何処かに教会があるか?」と聞いてみた。受付机のボーイが、「それなら裏にある闘牛場へ、朝7時に行け」と言う。

翌朝、早起きをして行ってみた。荒れて崩れかかった巨大な闘牛場の観客席を人々が埋め尽くしている。街の背後の山の貧民街から来た人々であるという。清潔ではあるが、みんな貧しそうな身なりだ。闘牛をする円形の土の上に小さな絨毯をしいて3人ほどの白衣の神父さんが祈っている。同じような白い服を着た20人くらいの侍者の姿も見える。貧民街には教会が無いので闘牛場を教会のかわりに使っているのだ。普通のカトリックのミサのようでもあるが、スペイン語が分からない。雰囲気や式次第が日本のカトリックと違うようだ。現地に昔からあるインディオの原始宗教と交じり合ったようなミサの雰囲気である。回りの人々はスペイン人とインディオの混血で浅黒いひとが多い。日本人のように見える人々も多い。そんな中へ溶け込んでしまい、一緒に祈った。賛美歌も一緒に歌った。メロディーだけで。

茫々、あれから50年。一緒に祈ったカラカスの人々のことが忘れれない。

写真はインターンットからお借りしました。

1番目の写真はベネズエラの首都、カラカスです。山に囲まれた盆地にあります。

2番目の写真は周囲の山を埋めつくす貧民街です。ベネズエラだけでなく南米にはよくある光景です。

3番目の写真はベネズエラの闘牛場です。南米では闘牛はよくあります。

4番目の写真はカトリックの野外ミサの風景です。

今日は南米のベネズエラの思い出を書きました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。 後藤和弘