後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「 八丈島の風景と團伊玖磨氏の別荘の写真」

2024年06月21日 | 日記・エッセイ・コラム
私は2009年1月に冬の波荒れる八丈島へ独りで旅をしました。帰りの船が悪天候で欠航したので非常に印象深い旅になりました。芝浦の桟橋から遥か286Kも船に揺られて翌朝辿り着いたのです。着いてみると八丈島は想像以上に大きな島です。
島の東に10万年前の噴火山の三原山があり、西に1万年前に出来た八丈富士があり、その間が平野で農村が広がっています。
そして西の海上には八丈小富士という急峻な火山が突き出ています。この3つの山が近過ぎず、遠過ぎず、丁度良い距離でどっしりと座っています。この配置が雄大な景観を作っています。
1番目の写真は2009年1月に撮った写真です。東の三原山の中腹から西の八丈富士を撮った写真です。
レンタカーを借りて江戸幕府の島役所跡や古い集落や秀吉の家老だった宇喜多秀家のお墓にも行きました。
そして八丈島には音楽家として昭和時代に活躍した有名な團 伊玖磨(だん いくま)の別荘があるのです。
八丈島では團伊玖磨氏を誇りにしています。2002年の没後一周忌に團さんの別荘を公開し、遺品や著作を展示しました。島に昭和6年から続いている地方新聞、「南海タイムス」の2002年5月31日の掲載写真を示します。
2番目の写真は別荘内の書斎や著作の展示の写真です。
團伊玖磨さんが亡くなってからもう23年になります。多くの童謡やオペラを作曲しました。なかでも「夕鶴」は広く上演されたのでご記憶の方も多いと思います。その一方で團伊玖磨さんは随筆の名作を沢山遺しました。
特に私は1964年から2000年まで毎月、彼の「パイプのけむり」と題した随筆を読み続けていたました。「パイプのけむり」はアサヒグラフという写真雑誌に連載されていたのです。四季折々の自然が主な題材です。そしていろいろな植物や旅や食べ物の話も多かったと記憶しています。
そして團伊玖磨は別荘のある八丈島のこともたびたび書いていました。
そのせいで私は八丈島を自然が豊かな夢の楽園として信じるようになってしまったのです。
写真でそんな八丈島の風景を示します。
3番目の写真は八丈島の温室に咲いていたブーゲンビリアです。
4番目の写真は島の集落にある玉石の石垣です。1月でも石垣の上に花が咲き緑の葉が茂っています。八丈島は亜熱帯なのです。
5番目の写真は島の漁港です。周囲は魚類の宝庫です。捕った魚は冷蔵して高速漁船で東京に送るそうです。
團伊玖磨さんの随筆についてもう少し説明させて下さい。
随筆はいろいろ読みました。寺田寅彦、中谷宇吉郎、團伊玖磨などのものは長年愛読してきました。團伊玖磨の「パイプのけむり」は1963年に八丈島の樫立に別荘を作った翌年から2001年に亡くなる直前まで40年近く続いた随筆です。朝日新聞社から27巻の本として出版されていますので、お読みになった方々も多いと思います。
外国で仕事をしながら忙しく書いたものや、葉山の自宅や、八丈島でゆっくり書いたものなど変化があって飽きさせませんでした。世界の珍しい風物や人情、そして八丈島の自然、人々・植物のことなどが軽妙洒脱な筆致で活き活きと描いてあります。話題は多岐ですが、いずれも上品な書き方で、文章の裏に人間愛が流れています。読後の爽快感が忘れられません。

團伊玖磨さんが亡くなって23年になりますが私は今でも團伊玖磨さんの「パイプの煙」を時々思い出します。思い出してほのぼのとした気分になります。若い頃に読んだ本は忘れにくいものです。

 それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

「我が小金井の夏祭り、阿波踊り」

2024年06月21日 | 日記・エッセイ・コラム
我が小金井の夏祭りは阿波踊りです。小金井では毎年7月の22日と23日に小金井阿波踊りが開催されます。
阿波踊りは、阿波国(現・徳島県)を発祥とする盆踊りです。高知のよさこい祭りと愛媛の新居浜太鼓祭りと並ぶ四国三大祭りであり日本三大盆踊りの一つとしても言います。
 現在は、阿波国以外にも伝播し、東京都などでも大規模に開催されるようになりました。阿波踊りは約400年の歴史を持つ日本の伝統芸能のひとつです。
踊る阿呆(あほう)に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らな損々…と唄われます。
我が町、小金井でも7月の22日と23日に開催されます。
小金井の阿波踊りの写真を示します。 自分が撮った写真です。


阿波踊りの起源は精霊踊りや念仏踊りが原形であるといわれています。徳島藩が成立して以後、盛んに踊られるようになったのです。天正14年(1586年)、徳島城が竣工した際、当時の阿波守の蜂須賀家政が城下に「城の完成祝いとして、好きに踊れ」という触れを出したことが発祥と言われています。
徳島県の県人会などの指導により「東京高円寺阿波おどり」はの60年の歴史があります。その他、下北沢50年超、中目黒、三鷹、初台、神楽坂などが40年超、大塚、都立家政、中村橋、糀谷、経堂、小金井、神奈川大和、埼玉狭山ヶ丘、南越谷などが30年超の歴史を持っています。 

現在は徳島以外の各地で夏のイベントとして8月はほぼ毎日のように全国のどこかで阿波踊りが催されております。
例えば関東地方につて列記します。
東京高円寺阿波おどり(東京都杉並区高円寺)
初台阿波踊り(東京都渋谷区初台)
糀谷阿波おどり(東京都大田区糀谷)
下北沢一番街 阿波おどり(東京都世田谷区下北沢)
神楽坂阿波おどり(東京都新宿区神楽坂)
東京大塚阿波おどり(東京都豊島区大塚)
成増阿波おどり大会(東京都板橋区成増)
中村橋阿波おどり(東京都練馬区)
きたまち阿波おどり(東京都練馬区)
都立家政阿波おどり(東京都中野区)
三鷹阿波おどり(東京都三鷹市)
小金井阿波おどり(東京都小金井市)
以下、関東地方の11ケ所は省略します。

さて阿波踊りでは一つの踊りのグループの事を「連(れん)」と言います。徳島県には有名連と呼ばれる連が多数あります。
こうした有名連以外にも踊りが好きな者同士が集まって結成した連、企業が企業名を売り込む目的で結成した企業連、大学のサークルなどで結成した大学連、気の合う仲間で結成した連、商店街で結成した連等、徳島県内には大小さまざまの数多くの連が存在します。殆どの連は先頭に連名を書いた巨大な提灯を掲げて浴衣などに名前を入れて踊っています。

今日は全国的に広がった徳島の阿波踊りをご紹介致しました。小金井でも7月の22日と23日に小金井阿波踊りが開催されます。皆様の地域の盆踊りはどのようなものでしょうか。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

「日本中に何故、廃村や無人島がどんどん増加するか?」

2024年06月21日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は日本中に何故、廃村や無人島がどんどん増加するか考えてみたいと思います。
日本全国に打ち捨てられた古里が沢山あるのです。1970年頃から始まった経済の高度成長で廃村が急増しました。現在の日本の人々はそんな事を忘れてしまったのでしょうか?
10年ほど前に八丈島へ一人旅をしました。見ると沖に八丈小富士という離島があります。昭和44年までは小学校や中学校があり2つの集落があったそうです。牧畜や漁業で生計を立てていたのです。それが完全に廃村になっているのです。八丈小富士の島を示します。10年前に私が撮った写真です。
1番目の写真は八丈小富士のある島です。
この美しい島に渡るには船をチャーターしなければなりません。人の住んで居ない島へは定期船などありませんでした。心を残しながら帰って来ました。
ところが全国の廃村を訪ね歩き、写真を撮っている奇特な人が居るのです。浅原昭生さんという1981年生まれの青年です。廃村訪問記と写真が沢山掲載されたHP、「廃村と過疎の風景」http://www.din.or.jp/~heyaneko/haison.html を出しています。感動的な内容のHPです。
その中に八丈小富士島へ船をチャーターして2度も訪問した時の感想文と写真があります。下に4枚の八丈小富士島の写真を転載させて頂きました。
2番目の写真は人が住まなくなった八丈小富士の風景です。
3番目の写真は人が住まなくなった八丈小富士の廃屋です。
浅原さんは全国の廃村を根気よく訪ね、写真を撮って記録として残しているのです。かつてその村に住んでいた人々を偲びながら記録を残しているのです。
私はこの浅原さんの気持ちに何故か感動します。
八丈小富士のある島は一つの例です。日本中に廃村や無人島がどんどん増加しているのです。
さて無人島化した離島一覧表は、「SHIMADAS」(日本離島センター刊)と「無人島が呼んでいる」(本木修次さん著,ハート出版刊)に詳しい情報が出ています。
日本には約3600位の島があります。、昭和時代に入ってから68の離島が無人島になってしまい、現在、人の住んで居る島は300位だけになってしまいました。
離島だけではありません。北海道から九州まで廃村になった村落が非常に増加しています。
何故、廃村や無人島がどんどん増加するか考えてみます。
よく田舎には就職口が無いから若い人が都会へ出て行ってしまうから過疎になると、人は簡単に納得します。
しかしそれは過疎化の原因の半分だけです。もう一つの原因は日本人の先祖の土地を守るという精神が無くなったからです。
このような現象が日本中に広がっているのです。
地方の自治体が過疎化を防ぐために都会からの移住を進めるいろいろな政策をとっています。しかしあまり成果はあがっていません。
過疎化は日本経済が豊かになり、先祖の土地を離れることに抵抗感が無くなればば当然起きる社会現象なのです。

そして近所でも過疎化の現象が起きていたのです。団地に人が住まなくなったのです。その結果書店街が消えてしまったのです。
このコメントで気がついたのですが私の家の近所の団地でも同じことがことが起きているのです。団地に住む人がいなくなったのでそばにあった商店街も消えてしまったのです。過疎化は都会の中でも進み、商店街も消えて行くのです。
都市の中の過疎化現象と消える商店街の様子を写真でご報告いたします。
4番目の写真は完全に空き家になった団地の棟を順次取り壊している光景です。
近所にあった広大な公務員団地の様子です。空き家です。団地の建物はコンクリートの打ち放しのままの貧弱な建物で、その上一軒の面積も狭いのです。少し余裕のある人は綺麗なマンションや一戸建ての洒落た家へ引っ越してしまったのです。
5番目の写真は私の家の裏手にあった商店街の現在の光景です。
私どもが1964年に引っ越して来た当時は両側にに20軒ほどの個人商店がビッチリと並んでいました。賑やかな商店街だったのです。酒屋、肉屋、葉茶屋、菓子屋、化粧品屋、八百屋、蕎麦屋、中華料理屋、本屋、電気屋そして歯科医院まであったのです。
夏になると商店街祭りがあり野外舞台にお笑い芸人や歌手が来ました。夜になると酒屋は椅子とテーブルをそろえ生ビールを出しました。浅草でサンバ踊りがあった後に踊り子が裏の商店街祭りにも来ていたのです。それは楽しい夏の夜の思い出です。そんな商店街が消えてしまったのです。
6番目の写真は私どもが1964年に引っ越して来た当時からあった寿司屋です。この菊寿司さんから何度も寿司を取り寄せたものです。現在は主人は亡くなって子供夫婦がしています。
7番目の写真は当時からあった肉屋の取壊し前の写真です。
この田中肉屋は当時のまま主人と奥さんと主人の姉の3人で営業していました。しかし現在は廃業して空き地になっています。
8番目の写真は裏の商店街に最近出来た「フレッシュさとう」という八百屋です。昔の酒屋と肉屋とお茶屋の跡を占めて賑やかに商売をしています。

以上のように都会の中でも過疎化して商店街が消えている場所があちこちに沢山あるのです。

今日は日本中に何故、廃村や無人島がどんどん増加するか書いてみました。都会の中でも過疎化して懐かしい商店街が消えてしまったのです。夏の商店街の祭りが楽しかったです。サンバ踊りを思い出します。
それにしても栄枯盛衰は世の習いです。嗚呼。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)