私は2009年1月に冬の波荒れる八丈島へ独りで旅をしました。帰りの船が悪天候で欠航したので非常に印象深い旅になりました。芝浦の桟橋から遥か286Kも船に揺られて翌朝辿り着いたのです。着いてみると八丈島は想像以上に大きな島です。
島の東に10万年前の噴火山の三原山があり、西に1万年前に出来た八丈富士があり、その間が平野で農村が広がっています。
そして西の海上には八丈小富士という急峻な火山が突き出ています。この3つの山が近過ぎず、遠過ぎず、丁度良い距離でどっしりと座っています。この配置が雄大な景観を作っています。
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1番目の写真は2009年1月に撮った写真です。東の三原山の中腹から西の八丈富士を撮った写真です。
レンタカーを借りて江戸幕府の島役所跡や古い集落や秀吉の家老だった宇喜多秀家のお墓にも行きました。
そして八丈島には音楽家として昭和時代に活躍した有名な團 伊玖磨(だん いくま)の別荘があるのです。
八丈島では團伊玖磨氏を誇りにしています。2002年の没後一周忌に團さんの別荘を公開し、遺品や著作を展示しました。島に昭和6年から続いている地方新聞、「南海タイムス」の2002年5月31日の掲載写真を示します。
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2番目の写真は別荘内の書斎や著作の展示の写真です。
團伊玖磨さんが亡くなってからもう23年になります。多くの童謡やオペラを作曲しました。なかでも「夕鶴」は広く上演されたのでご記憶の方も多いと思います。その一方で團伊玖磨さんは随筆の名作を沢山遺しました。
特に私は1964年から2000年まで毎月、彼の「パイプのけむり」と題した随筆を読み続けていたました。「パイプのけむり」はアサヒグラフという写真雑誌に連載されていたのです。四季折々の自然が主な題材です。そしていろいろな植物や旅や食べ物の話も多かったと記憶しています。
そして團伊玖磨は別荘のある八丈島のこともたびたび書いていました。
そのせいで私は八丈島を自然が豊かな夢の楽園として信じるようになってしまったのです。
写真でそんな八丈島の風景を示します。
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3番目の写真は八丈島の温室に咲いていたブーゲンビリアです。
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4番目の写真は島の集落にある玉石の石垣です。1月でも石垣の上に花が咲き緑の葉が茂っています。八丈島は亜熱帯なのです。
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5番目の写真は島の漁港です。周囲は魚類の宝庫です。捕った魚は冷蔵して高速漁船で東京に送るそうです。
團伊玖磨さんの随筆についてもう少し説明させて下さい。
随筆はいろいろ読みました。寺田寅彦、中谷宇吉郎、團伊玖磨などのものは長年愛読してきました。團伊玖磨の「パイプのけむり」は1963年に八丈島の樫立に別荘を作った翌年から2001年に亡くなる直前まで40年近く続いた随筆です。朝日新聞社から27巻の本として出版されていますので、お読みになった方々も多いと思います。
外国で仕事をしながら忙しく書いたものや、葉山の自宅や、八丈島でゆっくり書いたものなど変化があって飽きさせませんでした。世界の珍しい風物や人情、そして八丈島の自然、人々・植物のことなどが軽妙洒脱な筆致で活き活きと描いてあります。話題は多岐ですが、いずれも上品な書き方で、文章の裏に人間愛が流れています。読後の爽快感が忘れられません。
團伊玖磨さんが亡くなって23年になりますが私は今でも團伊玖磨さんの「パイプの煙」を時々思い出します。思い出してほのぼのとした気分になります。若い頃に読んだ本は忘れにくいものです。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)