後藤和弘のブログ

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中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「幕末に建てられた国宝、大浦天主堂と潜伏キリシタンの物語」

2024年06月28日 | 日記・エッセイ・コラム

明治維新を1968年とすると今年は150年になります。
幕末の戊辰戦争などの国内戦争、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、日中戦争、第二次世界大戦と戦争が続き、終いには日本中が焼け野原になって敗戦になりました。この敗戦から72年、日本は平和が続き工業技術が進歩し経済も大いに成長しました。
この150年間の日本の人々の輝きと悲しみを長崎の小高い丘の上から静かに見つめて来た建物があります。
それは幕末に建てられた大浦天主堂です。戦前の昭和8年に洋風建築として初めて国宝に指定された日本の文化遺産です。フランス人が幕末の1865年に作った国宝です。そして現在は観光名所として長崎を訪れる人は必ずのように行く場所になっています。

今日はこの国宝、大浦天主堂にまつわるお話を書きたいと思います。
始まりは文久2年(1862年)の事でした。
フランスのパリ外国宣教会宣教師のフランス人神父、フューレが長崎に赴任し、司祭館と教会堂の建築準備に着手します。
この時あたかも1597年に殉教した26名(日本二十六聖人)がローマ教皇ピオ9世により聖人として認められたのです。
文久3年にはプティジャン神父が長崎に着任し、フューレを補助し、天主堂建設に尽力しはじめました。
そうして遂に元治2年(1864年)に『日本二十六聖人』へ捧げる天主堂として完成したのです。下にその当時の写真を示します。

1番目の写真は1864年に『日本二十六聖人』へ捧げられた天主堂です。

1865年1月に 献堂式を行い、「二十六聖殉教者堂」と命名されたのです。
献堂式には居留外国人を含め、長崎港に停泊中のフランス、ロシア、イギリス、オランダの艦長がそれぞれカトリック信者の水兵数名を従え参列したそうです。

この天主堂が完成したのは幕末で、まだキリシタン禁教令が厳しく行なわれてた時だったのです。ところが、それにもかかわらず、献堂式のすぐ後に、浦上の潜伏キリシタンが大浦天主堂を訪ね、プティジャン神父に密かに信仰者であることを名乗ってしまったのです。
当時としては珍しい西洋風のこの建物を「フランス寺」と呼ばれていました。そこへ浦上の隠れキリシタンたちがプティジャン神父に近づき、「ワタシノムネ、アナタトオナジ」とささやいて信仰告白したそうです。そして「サンタ・マリアの御像はどこ?」と尋ねました。
その後噂を聞いた隠れキリシタン達が五島、外海、神の島など長崎県の各地から、また福岡県の今村からも来たそうです。

しかし日本の禁教令は明治5年まで厳重に執行されていたのです。居留外国人は自由にどの宗教を信じても良かったのです。
そこで幕府と明治政府は名乗り出た隠れキリシタンを逮捕し、日本の各地へ流刑にしました。これが有名な浦上4番崩れなのです。

この初代の天主堂はすぐプティジャン神父たちによって建て直されて、明治12年には現在のような美しい姿になったのです。下にその写真を示します。

2番目の写真は現在の大浦天主堂です。

この天主堂は昭和8年(1933年)に 当時の国宝保存法に基づき国宝に指定されたのです。
昭和20年8月9日の 長崎市への原爆投下によって破損しましたが、爆心地から比較的離れていたため焼失は免れました。
その後、昭和27年に修理が完了します。
そして昭和28年に文化財保護法に基づき国宝に指定されました。これは洋風建築としては初の国宝指定でした。

それらを設計したド・ロ神父のこともご紹介したいと思います。
この神父さまは現在も長崎で販売されているドロ様・ソーメンを作ったことで有名です。それだけではなく明治初期に貧困にあえいでいた人々をフランスの自分の財産を使って助けたのです。慈愛に満ちた神父さんでした。
ですから長崎地方では信者以外の人々も神父のことを『ドロ様』と呼んで、記念館まで作っているのです。
下にこのドロさまが設計した大浦天主堂の脇にある神学校の写真を示します。

3番目の写真は大浦天主堂の脇にある神学校です。キリシタン資料が展示してあります。

そして下の写真はドロさまが設計した出津教会の写真です。

4番目の写真はドロさまが設計した出津教会です。

最後の写真はド・ロ神父記念館です。

5番目の写真はド・ロ神父記念館です。

さて幕末から現在に至るまで数多くの宣教師、牧師、神父が外国からやって来ました。

しかし日本人によって記念館を建ててもらった人は非常に少ないのです。ドロさまが九州の人々に如何に慕われていたかが分かります。

そこで以下にドロ神父に関する記録を、http://seseragi-sc.jp/xe/3512 から抜粋して以下に示します。
・・・彼は宣教師として1868年に来日してから1914年に亡くなるまで一度も故郷に帰ることなく、私財をなげうって日本、特に長崎の貧しい人々のために自分を捧げた司祭である。

来日して12年後、ド・ロ神父は長崎の出津に赴任する。出津教会の主任をしながら彼がまず手を付けたのが福祉事業だった。授産施設「救助院」は、遭難漁民の寡婦ら貧しい婦女子に機織りや食品製造などの技術を教え、自力で生きて行く道を開けるよう援助する施設として開いたものである。農業にも通じていたド・ロ神父は、そうめんなどの材料となる小麦の種子をフランスから取り寄せて栽培し、水車小屋を造って製粉した。落花生油を使った独特の製法で、油となる落花生も地元で栽培した。こうして作られたそうめんは「ド・ロさまそうめん」の名で今も親しまれている。

まさに彼は、学んだ多くの技術を、日本の風土に合わせて土着させる能力を頂き、それを生涯かけて惜しまず使った人と言えるだろう。ド・ロ神父は教会、救助院、保育所、農漁業の改良、開墾、診療所、墓地と、人間の一生に必要なあらゆる施設を作り、神と人への愛を表した。
 長崎県出津に彼の記念館が建てられており、神と共に、また人と共に生涯を過ごしたド・ロ神父の姿を今も伝えている。・・・・

今日は国宝、大浦天主堂をご紹介し、そこに現れた潜伏キリシタンの話を書きました。ド・ロ神父の活躍もご紹介致しました。


それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


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