後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「テレビが普及する前の懐かしい戦後の日本映画」

2024年06月20日 | 日記・エッセイ・コラム
戦後に日本全国津々浦々にテレビが普及するまでの約30年間は映画全盛の時代でした。当時は邦画や洋画の看板が映画館にはなやかに飾ってあったものです。戦前に仙台で生まれ、戦後育ちの私はこれらの映画が大好きでした。
今日はテレビが普及する前の懐かしい戦後の日本映画のポスターの写真と、それぞれの「あらすじ」をお送りいたします。私の記憶に鮮明に残っている感銘深い映画を七つ選びました。
まず7枚のポスターの写真だけをご覧ください。興味深い映画を選んで「あらすじ」をお読み下さい。次に原作の文学作品の全文を読みたくなったら「青空文庫」を検索すれば全文を読むことが出来ます。
「青空文庫」の総合インデックス、https://www.aozora.gr.jp/index_pages/index_top.html の作家別か作品別に希望の名前をクリックすると作品が出てきます。その次、次と進んで最後に「 XHTMLファイル」の圧縮なしをクリックすると原作の全文が出てきます。

今日の「戦後の日本映画の写真とあらすじ」は以下の資料などから引用しました。
「昭和の名作邦画」、http://showa-love.jp/movie/showa1950s_japanese_movie
お楽しみ頂ければ幸いです。

 それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

1番目の写真は「青い山脈」 (1949年)のポスターです。
青い山脈 (1949年)は石坂洋二郎の小説を、今井正監督が、原節子を主演に迎え映画化した青春映画です。
戦後間もないころ田舎町の女学校に赴任してきた女性教師が、封建的な街の体制と戦う姿を描いたものです。
青年に池部良、少女に杉葉子、芸者に木暮実千代など懐かしい人々が出ています。
主題歌は服部良一作曲で、明るいメロディーーは今でも歌い継がれています。
封建的な町の青春映画です。戦後の自由と民主主義になろうとしていた社会に受け入れられ映画館は連日満員でした。
2番目の写真は『坊つちやん』のポスターです。
この映画は夏目漱石の小説『坊つちやん』を原作とした映画化作品です。これまでに5度映画化され、1935年版、1953年版、1958年版、1966年版、1977年版があります。
1953年版は東京映画製作。1953年8月12日公開で監督 : 丸山誠治でした。
キャストは、坊ちゃん : 池部良、 マドンナ:岡田茉莉子、山嵐 : 小沢栄、 赤シャツ : 森繁久弥、 たぬき : 小堀誠、 うらなり : 瀬良明、 野太鼓 : 多々良純などでした。
子供の頃から周囲と折り合いをつけることが苦手な不器用だった東京の青年が、愛媛の教師となり奮闘する物語です。理不尽なことを許さないもともとの性質は教師になっても抑えることはできず、己を信じて、正義のために戦うが、最後は破れて東京に帰ってしまう映画です。
坊ちゃんは子供のころから無鉄砲で、気性が荒かったので、親や兄からは嫌われていました。そんな中、いつも坊ちゃんの味方をしてくれたのは下女として働いていたおばあさんの清だけでした。
清は坊ちゃんの性格をまっすぐでいい性格だと事あるごとに褒めてくれました。
坊っちゃんにとっても清は心のよりどころであり、唯一の理解者でした。
そうして坊っちゃんは中学校の教師となりましたが生徒達と良い関係を築けません。
坊ちゃんは街の中で天ぷらそばを4杯食べているところを生徒に見られて「天麩羅先生」とあだ名をつけられたり、宿直として学校に泊まっていると、生徒に宿直室に大量のイナゴを入れられるといういたずらをされたりしました。
ある日、赤シャツと野だいこに誘われて坊ちゃんは釣りに行きます。二人は坊ちゃんのことを少しバカにしていました。
天麩羅先生やイナゴのことをネタにして陰でこそこそと笑ってました。
・・・中略・・・
坊っちゃんは、事あるごとに他人を陥れる赤シャツの横暴ぶりに堪忍袋の緒が切れ、赤シャツをこらしめる計画を山嵐とともに立てることにしましたのです。
坊ちゃんは赤シャツと野だいこが芸者遊びをしているところを取っ捕まえようと山嵐と一緒に待ち伏せをします。
そしてついに朝帰りをする二人ををこらしめてやりました。
坊っちゃんはその勢いでそのまま学校を辞めました。東京に戻った坊ちゃんは街鉄の技手となりました。
そして、清を呼び戻して、清が肺炎で亡くなるまでずっと一緒に暮らしました。
3番目の写真は「東京物語」昭和28年(1953年)のポスターです。
監督 小津安二郎、主演 笠智衆 原節子でした。
尾道から子供たち3人のいる大都会東京に出てきた老夫婦の周吉(笠智衆)ととみ(東山千栄子)でした。長男(山村聡)は開業医、長女(杉村春子)は下町で美容院を営み、戦死した次男の妻紀子がいまし。
子供たちにはそれぞれの生活で忙しく、居場所がない老夫婦でした。ただ温かくしてくれたのは血のつながりのない紀子(原節子)でした。
複雑な思いで帰途についた二人でしたが、東京で疲れたとみが倒れてやがて息を引き取ったのでした。
尾道に皆が集まりましたが、葬儀が終わっても周吉の世話をしてくれたのが紀子(原節子)でした。「あんたはいい人じゃ」と周吉がいい、周吉から妻の形見だといって時計を渡されて、紀子は号泣する。紀子はやがて新しい人生を決めたかのように尾道から東京に戻る。周吉は一人残って尾道の海を静かに眺めていた。
ちょうど朝鮮戦争が休戦となったころでした。なんの変哲もない日常の下町を描いた「小津調」と今でも慕われる名画でした。
4番目の写真は「七人の侍」昭和29年(1954年)のポスターです。
監督 黒澤明、主演 志村喬 三船敏郎でした。
戦国時代も末期、豊作の村を毎年のように襲ってくる野盗集団がいました。村の長老は侍を雇って村を守ろうとしました。その熱意に答えて七人の侍が村にきます。村人の竹槍と共に七人は柵や堀に敵を導き討ち取り、やがて追い払ったのです。
当時この人馬あいうつ死闘などが、米西部劇より迫力があって面白いと評価されたのです。黒澤明監督は大成功をおさめました。もともと黒澤監督が尊敬していたジョン・フォード監督西部劇の影響も受けていたそうです。
配役はリーダーを志村喬、菊千代を三船敏郎、その他木村功、稲葉義男、加藤大介、千秋実る、宮口精二の七人でした。
この映画は後に焼き直されて「荒野の七人」としてハリウッドでもリメイク制作され大ヒットしたのです。ヴェネチア国際映画祭銀師子賞受賞しました。
5番目の写真は「二十四の瞳」昭和29年(1954年)のポスターです。
監督 木下恵介、主演 高峰 秀子でした。
壺井栄の小説「二十四の瞳」が原作です。監督が木下恵介でロケは小豆島にある小さな分教場でした。そこの教師の大石先生を高峰秀子が演じました。時代は日本で不況がつづき、やがて満州事変、日中戦争へとまっさかさまに破局に向っていくような時代でした。島の若者も次々と出征して戦死、大石先生は軍人になりたいという教え子を「命を大切に」と諭しました。「アカ」との噂が立ちました。
やがて先生は若い遊覧船の機関士と結婚して3人の子供に恵まれました。しかし夫は召集されて戦死。そして敗戦、食糧難で娘も柿の木から落ちて死亡、先生も変転を重ねていきました。
終戦後になって分教場に戻った先生は、かっての子供たちと同窓会をして集まります。昔は子供だった瞳が大石先生を見上げていた光景を思い出します。大人になった者が戦争中の苦しみを話します。出征し戦傷を負い盲目になったソンキが哀れです。昔の集合写真の一人一人を指で差しながら名前を言って行きます。その指が少しずれてさしています。この場面は涙を抑えることが出来ません。
日本が戦争に突入し、これに呑み込まれていった女教師と子どもたち、その苦難と悲劇から戦争の悲惨さと悲劇を描いた映画でした。
6番目の写真は「野菊の如き君なりき」昭和30年(1955年)のポスターです。
監督 木下恵介、主演 有田紀子 田中晋二 でした。
原作は歌人伊藤左千夫の小説「野菊の墓」です。木下恵介監督は自然豊かな北信濃で主人公政夫(田中晋二)と二歳年上の美しい従姉妹の悲恋物語を描いた映画です。
もう半世紀を経ていた主人公政夫(演じるのは笠智衆)は年老いてから恋人だった民子(有田紀子)の墓に野菊を供えにふるさとへ帰省し、そこで当時の回想に浸ったのでした。
そのころ政夫の母が体が弱いので、従姉妹の民子が住み込みで手伝いにきてくれていました。村の住民が妬むほど仲がよくて時に喧嘩もしますが、なにはばかることもないような仲の良さが、やがて恋に変っていきました。ところが政夫は旧制中学に進み、遠くで入寮することになったのでした。ふたりは霧の流れる渡し場で別れなくてはなりませんでした。
時が流れ、民子は政夫を忘れての結婚を説得され嫁ぎましたが、嫁いだ後も政夫のことが忘れられなかったので、婚家では疎まれ続け、やがて流産をして体を痛めた末に息を引き取ってしまいました。手には政夫の手紙とリンドウの花が握られたままだったのです。
昔の場所に戻った政夫は、あの頃に自分がリンドウで、民子は野菊の花のようと語り合ったことを思い出すのでした。
当時の時代が持っていた田舎特有の因習や貧しさから、天真爛漫の二人の恋は途絶えたのでした。
経済が復興から成長を始めた世相に逆らうような純粋で美しい悲恋物語でした。
7番目の写真は「無法松の一生」昭和32年(1957年)のポスターです。
監督 稲垣浩、主演 三船敏郎 高峰秀子 でした。1958年にベネチア映画祭グランプリを受けました。
この映画は、かって戦時中1943年に一度稲垣監督で映画になっていて、公開がちょうど学徒出陣のころで、戦局は負けの様相で、生活も窮乏を極めたころでした。
舞台は九州の小倉、独身の人力車夫松五郎(坂東妻三郎、1957年のリメイクでは三船敏郎)は飲む打つ買うの無軌道な男で曲がったことは大嫌いでした。
ある日堀に落ちてけがをした少年・敏雄(長門裕之)を助ける。敏雄の父親は陸軍吉岡大尉(永田靖)で、その性格を気に入られた松五郎はその家に出入りするようになりました。しかし大尉はやがて急病で亡くなり、後には良子夫人(園井恵子、リメイクで高峰秀子)と一人息子敏雄が残される。婦人は息子を強い男にしてほしいと松五郎に期待したのです。松五郎もやる気で張り切り、やがて夫人への思いが募りだしたのです。
敏雄はやがて剛毅に育つが松五郎が「ぼんぼん」と呼ぶのを嫌って離れだすのでした。祭りの祇園太鼓を情熱をこめて叩く松五郎は恋慕の表情だったが、暗い時代は恋慕の画面を検閲でカットしました。やがて衰えて死んでいった松五郎、その貧弱な遺品の中から、夫人と敏雄のために預金を貯めていた通帳を見つけ、夫人は松五郎の真情をこのときに気づき泣き崩れるのでした。
稲垣監督のリメーク版はカラーででした。その後、「無法松の一生」は舞台演劇や歌謡としてもたくさん上演されてきました。

以上ここには7つの映画だけをご紹介しましたが、他にも沢山名作がありました。戦後の約30年間は映画全盛の時代だったのです。

「遥かなる我が故郷、仙台の近世の歴史」

2024年06月20日 | 日記・エッセイ・コラム
仙台は私が生まれた故郷です。1936年に生まれ1960年にアメリカへ留学するまで24年間住んでいた懐かしい故郷です。
今日はこの仙台の近世の歴史、郷土史をご紹介致します.
(1)伊達政宗が青葉山に仙台城を作り城下町を作った。
近世になるまでの仙台市域の大部分は国分氏の支配下にありました。国分氏は現在の多賀城市や仙台市岩切などを拠点とする留守氏と激しく対立していたのです。しかし戦国時代に入ると両氏とも戦国大名として台頭してきた伊達氏の軍門に下り伊達氏に隷属してしまいます。当時は仙台は「千代(せんだい)」と呼ばれていました。 
慶長5年(1601年1月28日)に伊達政宗が青葉山に仙台城を作り城下町を整備します。そして名前を「仙臺(仙台)」と改称したのです。
これが仙台の都市としての始まりでした。 62万石の仙台藩は、加賀藩(102.5万石)、薩摩藩(77万石)に次ぎ、尾張藩(約62万石)と並ぶ大藩だったのです。
(2)仙台の商業を発展させた近江商人たち
伊達政宗は仙台発展の体制を作りました。しかし実際に街造りを担ったのは商人たちでした。
城下町を豊かにしたのは士農工商のなかの工商階級でした。仙台にも鉄砲町や鍛冶町があり職人が鉄砲や刀剣を、そしていろいろな農機具を作っていました。そしていろいろな商店も出来ます。
郷土史家、田村昭さんによると仙台で一番古い店は田善銅器店(1596年)で、それから河原町にあった五軒茶店(1623年)や千松島酒造(1673年)などが記録に残っているそうです。
仙台藩は近江に飛び地の領地を持っていたこともあり、江戸中期に京都や滋賀からの商人が移住して来ました。奥州街道と仙台の大町通りの交差点にある「芭蕉の辻」近辺に店を構え、京都、大阪との商売で大きな儲けをもたらし、仙台を潤したのです。そのような豪商の代表は江戸中期の日野屋の中井新三郎です。現在の滋賀県の日野村からの移住者でした。
そしてもう一人居ます。現在の京都府の丹波の八木村から移住してきた豪商の八木久兵衛です。(八木久兵衛は代々同じ名前の八木久兵衛を使っていますのでご注意ください)
移住してきた始めの八木久兵衛は仙台の芭蕉の辻の近くに、「紅久」という化粧品や小間物を売っていた店を構えたそうです。「紅久」の創業は天明3年の1783年と言われています。その他、近江商人が何人も移住して来て、薬品店、小間物店、呉服店などなどを開業し、仙台の城下町は繁栄の時代を謳歌したのです。
仙台と京都の物流は西の峠を越して最上川に出て、酒田まで川を下って行いました。酒田には近江商人の町があり、そこを経由して北前船で京都、大阪と取引をしていたのです。現在、酒田や鶴岡、そして北海道の松前へ観光旅行をすると当時の近江商人の豪商の屋敷などがあって、北前船の重要性がよく理解できます。
明治維新が起きましたが、商人や職人は江戸時代のままの活躍を続けたのです。鉄道や銀行を作ったのは仙台の豪商たちでした。明治20年頃になって政府がやっと整い税収が増大してから鉄道も銀行も民間から買い上げて国有にしたのです。
(3)4代目、八木久兵衛が東北本線をつくった。
その明治時代に活躍した豪商の一人に「紅久」の4代目、八木久兵衛がいました。現在も仙台にある七十七銀行を作り、仙台味噌で大儲けをし、上野から仙台まで鉄道を敷き、兎に角、八面六臂の活躍をします。
終いには勅撰の貴族院議員になります。そうして仙台城の南西の広大な裏山を全て買い取る決心をするのです。実際にこの広大な国有の土地を買収する事業を完成したのは五代目の八木久兵衛の時です。そのお陰で、現在の仙台市に、「八木山」という地名が残りました。

その5代目、八木久兵衛の息子が八木栄治さんです。私が向山小学校へ通って居た頃、この栄治さんの一人娘が同級生に居ました。あまり目立たない大人しい子供でした。
八木栄治さんは小学校のPTA会長をしていたので何度かお会いしました。いかにも金持ちという鷹揚な態度で、やさしい話ぶりだったのを覚えています。
八木栄治さんの家は八木山の松林の中にある一軒家でしたが決して贅沢な家ではありませんでした。当時はそれでも広大な八木山一帯の土地を持っていて、その後、仙台市が動物園を作る時土地を寄付したり、住宅地へ開放したりして戦後の仙台の発展へも貢献していました。
さて最後に上記の記事に関連した写真を掲載します。

1番目の写真は私が昭和17年から23年まで通っていた向山小学校です。戦争中は向山国民学校という看板が石の門柱にかけてありました。日本軍が昭南島を占領した戦勝祝いに生徒全員がゴムマリを貰ったのを思い出しました。

2番目の写真は私が卒業した東北大学の金属工学科の建物です。現在は青葉山のキャンパスに引っ越して使っていませんが、赤レンガの建物が80年前と同じように残っています。

3番目の写真は青葉城の石垣です。城の建物はすべて戊辰戦争のおりに焼かれてしまいこの石垣だけが残ったのです。この石垣の下を右方向に車で登ると見晴らしの良い城跡に上がれます。

4番目の写真は城跡にある伊達政宗の騎馬像です。

5番目の写真は城跡から見下ろした現在の中心街の風景です。昭和20年の大空襲で一面の焼け野原になった町がこのような風景になったのです。

6番目の写真は広瀬川の評定河原橋付近から見た風景です。写真の左の小高い山に伊達政宗のお霊屋の瑞鳳殿があります。それで瑞鳳殿の下の町を「霊屋(おたまや)下」という地名になっています。この霊屋下には友人達が幾人か住んでいたのでしょっちゅう遊びに行った場所でした。

7番目の写真は伊達政宗のお霊屋の瑞鳳殿のある経ヶ峰の広瀬川に面した断崖の風景です。この写真の右手に家内が若い時に少しの間住んでいた公務員住宅があります。父親が東北大学で働いていたので一緒に少しの間住んでいました。この時見合いをして結婚した思い出の場所です。妻は鎌倉生まれ東京育ちですが偶然にもこの場所に住んでいたの結婚したのです。不思議な縁です。

さて皆様の生まれ故郷はどこでしょうか?遠方にある故郷は懐かしいものですね。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)