後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「江戸時代を想わせる小金井の坂道の名前」

2024年06月30日 | 日記・エッセイ・コラム

小金井市内は東西に走る国分寺崖線(ハケ)という10mを越える崖で坂上と坂下に大きく二分されています。この崖にはこれまでに「小金井の坂」としてアップした30近い坂道があります。

坂下はハケからの湧水や、それを集めて流れる野川の水で古くから稲作が行われ、昔から人々が住んでいました。一方坂上は関東ロームと呼ばれる厚い火山灰層で農作には適していませんでしたが、江戸時代前半の玉川上水の開通に伴い、そこからの分水によって次第に開墾が進んでいきます。

坂上、坂下にそれぞれ人々が多く住むようになって、その間の交流はこの崖の坂道を通して活発に行われるようになります。そして沢山の坂道がこの崖に出来たものと思われます。

(https://koganei-kanko.jp/maron/archives/2956 )

「小金井の坂」として30近い坂道があります。これらの坂は武蔵野公園まで行く野川の北にあるハケの道から連雀通りに登って行く坂です。

今日は6つの坂の写真をお送り致します。

1番目の写真は白伝坊の坂です。

連雀通りから南に下る坂道です。途中右側に渡邉家の墓地があります。幕末頃、この墓地の墓守として住んでいた「白伝」というお坊さんに因んで名づけられた とのことです。坂を下っていくと「ハケの道」と交差し、その先は 小金井神社の東側の通路となり ます。

この白伝坊の坂は武蔵野公園へ行った帰りによく登って帰って来ます。

2番目の写真はムジナ坂です。よく下を歩きます。

この坂の上に住む農民が田畑に通った道で、両側は山林の細い道です。だれいうことなく、この道をムジ坂といい、暗くなると化かされるといって、怖がられ遠回りしたそうです。いわくのある坂道です。今でも周囲は木々が鬱蒼としていて、ケモノ道の雰囲気を残しています。

ムジナとはアナグマのことですが、地域によってはタヌキ、ハクビシンのことだったりもします。民話ではキツネ、タヌキと並んで人を化かす妖怪として登場したりもするようです。

3番目の写真は念仏坂です。

現在の念仏坂はフレンチレストランTERAKOYAの下にある坂を呼んでいます。
「続小金井風土記」101頁に「ここを通る人は、その寂しさから思わず念仏をとなえる、というのでこの名があるらしい。」と記述されております。

入り口に「念仏坂」と記した立派な道標が立っていて、進むと薬師道へ繋がっています。かって道ばたに墓地があったりして薄気味悪い農道だったので念仏を唱えながら通ったのが名前の由来だそうです。
今でも民家が切れて生垣や鬱蒼とした樹木そして畑地など昔を偲ばせる雰囲気もあります。

4番目の写真は質屋坂です。

JR中央線武蔵小金井駅から小金井街道を南へ歩き、 連雀通りと交差する前原坂上交差点のところで斜め右の道に入ると途中屈折しながら南へ下っている坂です。幕末に下小金井村の星野家が開いていた質屋があったので、質屋坂と呼ばれます。この坂道は 埼玉県志木から府中へ商人が往来した志木街道の旧道で、 この街道では最も険しい坂でした。

5番目の写真は 小金井の西端で 国分寺市との境界にもなっている くらぼね坂です。

江戸時代から小平方面と府中を結ぶ主要な道だったようで、荷を積んだ馬などが行き来していました。急坂のため馬(鞍)が転んで骨を痛めた為にこの名が付いたとも言われています。
 坂を下りきって野川を渡る橋はくらおね橋(鞍尾根橋)で少し違っているのが面白いです。

6番目の写真は妙歓坂です。 小金井街道が出来る前はもっと先へ延びていました。

前原坂上交差点から 小金井街道を南に下る坂道(前原坂)の途中、左(東側)に枝分かれする金蔵院の坂との分かれ際というか付け根のところから、階段の急坂が下っています。これが妙歓(貫)坂です。

かつては農道だったそうですが、この坂の東側にある星野家墓地の庵に幕末墓守として妙歓(貫)尼という僧が住んでいたことから、こう呼ぶようになったということです。そのような跡形は今は全く見当たりませんが、墓地の東側に金蔵院があります。

以上に江戸時代からの小金井の坂道を紹介致しました。

 


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