後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「夏が来ると思い出す戦争(3)満州での中国人の悲劇」

2024年06月07日 | 日記・エッセイ・コラム

戦争というものの無駄と悲劇の大きさを客観的に深く理解するためには敵、味方、双方の立場に立って考えなければなりません。
満州事変と満州建国、敗戦、シベリア抑留、引揚にまつわる悲劇を中国と日本の双方の立場にたって考えて見ようと思います。
今日は中国人の立場に立ったら満州事変や満州建国をどのように見えるかを書いてみます。勿論、私は日本人ですから、完全に中国人の立場になることは不可能です。
しかしその立場になったらどう感じるか想像は出来ます。

1931年(昭和6年)満州の瀋陽市郊外で関東軍が起こした鉄道爆破事件、すなわち柳条湖(溝)事件が満州事変の発端になりました。関東軍は短期間で満州全土を占領します。しかし一般には1933年の停戦条約までを満州事変としています。
この柳条湖事件を中国人は九一八事変と呼んで学校の教科書で現在でも教えています。
満州事変は中国人にとっては大きな悲劇として現在でも学校で教えているのです。
この柳条湖事件の詳細は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B3%E6%9D%A1%E6%B9%96%E4%BA%8B%E4%BB%B6 をご参照下さい。そして満州事変については、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%80%E5%B7%9E%E4%BA%8B%E5%A4%89 をご覧ください。
日本軍が柳条湖事件で鉄道を爆破しておきながら、中国軍が爆破したと主張して戦争開始の口実にしたのです。
この嘘の口実を中国人は憎んでいるのです。日本の軍隊は中国人を蔑視し、謀略によって満州全土の武力占領を完了したのです。
そして日本の意のままになる傀儡国家の満州帝国を作ってしまったのです。
中國人にとって大きな悲劇でした。
その上に、中国人が辛亥革命で追放した清朝の最後の皇帝の溥儀を満州国の皇帝に利用したのです。
この行為は辛亥革命でやっと清朝を倒した中国人の感情を逆なでするものでした。
これほど中国人を愚弄するものはありません。
日本人が中国を蔑視し、武力で満州国を作り上げたのです。
戦前生まれの私は現在は絶対に書けない酷い蔑称で中国人を呼んでいました。昔の日本人は皆そうでした。本当に中国人を軽蔑していたのです。
中国人がそのことを恨みに思い、教科書で子子孫孫へ伝えているのは当然でないでしょうか?
中国共産党は日本の悪辣さを教科書で教え、記念日には反日デモなどのイベントを律義に行っています。
毎年9月18日になると満州事変の発端になった柳条湖事件の日を九一八事変記念日として瀋陽市では反日デモが行われます。
北京でも政府統制の反日デモが行われます。インターネットを使用した反日運動が続いているようです。満州事変の中国側の戦死者数は、https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1163741036 に出ています。
日本の人々は戦後、平和な生活に慣れ親しんできました。
しかし中国では、戦後は共産党と国民党の凄惨な内戦があり、1966年から1976年まで文化大革命という国内戦争が続いたのです。
私が1981年に北京に行った時、その街々の荒廃と、すさんだ人心に暗澹たる思いをしました。犯罪が横行し、家々の全ての窓には紅衛兵よけの鉄格子が厳重に取り付けてあります。
北京訪問の後、柳条湖事件の起きた瀋陽にも行きました。
そこの東北工学院の陸学長から満州のことをいろいろ聞きました。陸学長は日本が作った旅順工大の卒業生でした。いろいろ聞く私をなだめるように、旅順工大には良い日本の先生もいましたと言って微笑んでいました。その微笑みは「もうこれ以上聞くな」と言っているようです。

この瀋陽訪問の直後の1981年に、その東北工学院の金応培先生が筆者の研究室へ留学して来たのです。金応培先生は中国東北地方に散在している朝鮮族自治区の出身でした。
日本の朝鮮併合のあと、彼の両親が朝鮮を脱出し東北地区へ移住したのです。
満州に在住していた現地の中国人達も金さん一家のように苦難が続いたのです。これも戦争の大きな悲劇だったのです。
戦争ほど無駄なものはありません。必ず大きな悲劇が起きるのです。

挿絵代わりの写真は戦前の満州の大連の街の風景です。
写真の出典は、満州写真館、http://www.geocities.jp/ramopcommand/page035.html です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。後藤和弘(藤山杜人)





「フィリピンのカトリック教会の写真」

2024年06月07日 | 日記・エッセイ・コラム

フィリピンではキリスト教が全体の90パーセント以上です。そのうちカトリックが約80%、10%がプロテスタントを占めています。そんな国はアジアでは唯一です。

フィリピンには、スペイン植民地時代に建てられたカトリック教会や大聖堂などが点在しています。それではフィリピンのカトリック教会の写真をお送り致します。

1番目の写真はサンタマリア教会です。1993年に「バロック様式教会群」のひとつとして世界遺産に登録されました。教会全体を包む巨大な赤レンガが印象的で厳かな雰囲気です。

2番目の写真はサントニーニョ教会です。1565年にスペインの植民者レガスピとウルダネタによって建てられたフィリピン最古の教会です。

3番目の写真はサンアウグスチン教会の内部です。マニラで唯一の世界遺産に登録されている歴史的建造物です。1599~1606年に建てられたフィリピン初のスペイン建築様式の教会で、石造りの教会としてはフィリピン最古っです。

4番目の写真はモロ教会です。この教会は1831年スペイン統治時代に建てられたゴシック様式の美しい教会です。イロイロ市で最も賑わうモロ広場に隣接しています。

5番目の写真は バンタイ教会です。ビガンの隣町バンタイにあるローマ・カトリック教会で、イロコス地方で最も古い教会の一つです。教会は第二次世界大戦中に損傷を受けましたが、1950年に再建されました。

6番目の写真はダカラ教会です。ダラガの街の穏やかな丘にあるダラガ教会は、1772年にフランシスコ会によって設立されました。18世紀のバロック様式の外観はとても美しい教会ですが火山の噴火による被害を垣間見ることもできます。

7番目の写真はサン・アグスティン教会です。1586年に着工し、1607年に完成し、これ以降、16世紀・17世紀に起こった大きな地震にも耐え、現在まで残っているのです。

今日はフィリピンの幾つかのカトリック教会をご紹介致しました。フィリピンには、スペイン植民地時代に建てられたカトリック教会や大聖堂などがあるのです。アジアでは唯一カトリックが国教の国なのです。


「カトリック国のフィリピンの宗教事情と風景写真」

2024年06月07日 | 日記・エッセイ・コラム

いろいろな国の人々の考え方を理解するためにはその国の宗教事情を知ることは欠かせません。それは重要な事です。今日はフィリピンの宗教事情をご紹介したいと思います。

フィリピンは16世紀から1900年頃までスペインの植民地でした。その後はアメリカの植民地でした。本当に独立国になったのは第二次大戦後です。

フィリピンの宗教を決定したのは長らく植民地にしていたスペインでした。フィリピンは東南アジアでは珍しくキリスト教の国です。キリスト教はスペイン植民地時代にカトリックが普及したのです。今でも人々のほとんどが、ローマ・カトリックの信者です。キリスト教信徒はフィリピンの全人口の90%以上を占めています。

2000年の国勢調査では、カトリックが82.9%、福音派2.8%、その他で実質上カトリック国です。その国勢調査でのキリスト教以外では、スペイン人到来以前にもたらされたイスラム教が南部ミンダナオ島を中心に5%、その他が1.8%、不明が0.6%、無宗教が0.1%でした。キリスト教が入ってくる以前は、各島の自然の精霊などを信じる原始宗教があったのです。

フィリピン共和国憲法に政教分離が明記されていますが、カトリック教会の影響は強くフィリピン司教協会は離婚法や妊娠中絶や避妊に対して反対し、政治家に対して政治介入しているのが実情です。これがフィリピンの人口爆発と貧困の原因になっています。

また、結婚があっても離婚自体が法律上無い国家として有名であり、法的に離婚制度が無いのはバチカン市国とフィリピンのみです。

それではそんなフィリピンの実情を写真を示しながらご説明したいと思います。

1番目の写真はサン・アグスティン教会です。1586年に着工し、1607年に完成し、これ以降、16世紀・17世紀に起こった大きな地震にも耐え、現在まで残っているのです。

サン・アグスティン教会 は、フィリピン・イロコス・ノルテ州のパオアイ市に建つローマ・カトリックの教会です。同名の教会がフィリピン国内に多数存在するためパオアイのサン・アグスティン教会 、または単にパオアイ教会 と呼ばれています。

2番目の写真はフィリピンのバロック様式教会群 の一つです。

フィリピンのバロック様式教会群はフィリピンのルソン島、マニラ、パオアイなどの街に残るスペイン様式の教会です。ユネスコの世界遺産(文化遺産)として1993年にフィリピン初の世界遺産として登録されました。

3番目の写真は聖トマス大学です。創立1611年です。マニラ大司教により設置され、アジア最古の大学です。世界最大規模のカトリック系総合大学であり、これまで3人のローマ法王が訪問しています。

4番目の写真はビガン歴史都市です。  

ビガン歴史都市はフィリピン、ルソン島の北部にあるビガンの街並みで、ユネスコの世界遺産(文化遺産)です。

5番目の写真はフィリピン・コルディリェーラの棚田群です。

フィリピン・コルディリェーラの棚田群はフィリピンのルソン島北部の中央山岳地帯の主に東斜面に広がっている棚田地帯です。棚田の規模としては、世界最大です。1995年にユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されています。

6番目の写真はフィリピンの首都、マニラの遠景です。高度成長で高層ビルが並んでいます。

7番目の写真は首都、マニラの市場通リの様子です。ゴチャゴチャしていますが活気があります。

以上の写真だけを見るとフィリピンは良い国のように見えます。しかし南米と同じように貧富の差が大きく、あちこちに貧民街があります。こう云ったら,語弊になりますがカトリックの植民地だった国々はどういう訳か同じように貧富の差が大きく貧民街があります。困ったものです。

今日はフィリピンの宗教事情を書き、フィリピンの実情を写真を示しながら説明致しました。

最後になりましたが今日の記事では、https://philippinetravel.jp/feature-catholic-church-tour/ を参考にしました。記して感謝申し上げます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)