後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「ドイツの教会の写真」

2024年06月28日 | 日記・エッセイ・コラム
ドイツの教会はカトリックとエバンゲリッシュ で多少違います。エバンゲリッシュ とはプロテスタント教会のことです。
ドイツは本来キリスト教国でしたが近年イスラム教の難民を200万人受け入れたので宗教事情は複雑になりました。詳細は後にしてドイツの教会の写真を示します。壮大なケルンの教会等が有名ですが村の小さな教会も紹介します。
1番目の写真はローテンブルクのカトリック教会です。私が1969年秋に4ケ月間通った教会です。
2番目の写真はウルムの教会です。ドイツの都会にある典型的な教会です。
3番目の写真はドイツの都会にある典型的な教会の内部にあるパイプオルガンです。
4番目の写真はヴィースの巡礼教会 です。南ドイツのどかな田舎の牧場の中にポツリと建つ 教会です。
5番目の写真はヴィースの巡礼教会の内部 です。世界遺産に認定されています。
6番目の写真は南ドイツの田舎でよく見かける村の教会です。
7番目の写真も南ドイツのコロマン教会 です。山並みを背にし草原に立っています。
さてドイツの宗教事情を簡略に記しておきます。
オットー1世が戴冠した962年以降の神聖ローマ帝国時代の宗教事情から紹介します。
ドイツ王オットー1世が戴冠を受けたことによってはじめて成立したのが、イタリアから西ヨーロッパ全体を包括する神聖ローマ帝国 です。
次の歴史的転換期として、1517年にはマルティン・ルターによる宗教改革が起こったのです。
この宗教改革からエバンゲリッシュ(プロテスタント教会)が派生します。
現在「エバンゲリッシュ」は、カトリックとともにドイツにおいて最大規模の宗派となっています。 
そして1990年の東西ドイツの統一後、東ドイツの無宗教の人が多数加わったのです。
更に流入した200万人以上の移民はイスラム教徒なのです。
 イスラム教団体との対話を進めるための場を作るべく、ドイツ政府は「ドイツ・イスラム会議(Deutsche Islam Konferenz、DIK)」を2006年から設置します。
この会議の最終目標は、イスラム教を公法上の宗教団体として国家システムに組み入れ、公立学校でのイスラム教育を実現し、社会の様々な分野でより幅広く活動できるようにすることです。
しかし議論が紛糾しこの会議は具体的な成果をあげていません。
ドイツは伝統的なカトリックとエバンゲリッシュ(プロテスタント教会)の2つだけの社会だったのです。
 
なおこの記事を書くために、http://www.newsdigest.de/newsde/backnumber/7650-1021/ を参考にしました。記して謝意を表します。
 
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「美しい木造で1番古いカトリック宮津教会」

2024年06月28日 | 写真

京都府の日本海側の宮津市にるカトリック宮津教会は明治29年に建てられました。
国宝の大浦天主堂は明治12年に建てられたので、それに次いで日本で2番目に古い教会になります。
そして現役の木造教会としては日本一古い教会なのです。
ステンドグラスの美しい畳敷きの教会です。信者は入り口で靴を脱いで畳の上を静かに歩きます。
畳敷きの教会も良いものです。少し寛いで自然な気持ちで祈ることが出来るのです。
写真をお楽しみ頂けたら嬉しく思います。
出典は、http://pupa.cocolog-nifty.com/blog/2007/02/post_f70a.html です。




この教会の歴史です。
1888(明治21)年、パリ外国宣教会のルイ・ルラーブ神父は宮津に居を定めて、宣教を開始しました。ルラーブ神父の当時の受け持ち区域は、若狭(福井県南部)から但馬(兵庫県北部)までに及びました。
1895(明治28)年に、地元の旧家・田井五郎衛門氏から敷地の寄贈を受け、翌年の5月、当時としては珍しいフランス風の構造に木造・畳敷きという和洋折衷のロマネスク式の聖堂「洗者聖ヨハネ天主堂」が竣工され、献堂式が行われました。
1907(明治40)年には、教会敷地内に、現在の京都暁星高等学校の前身である「宮津裁縫伝習所」が設立されました。

1927(昭和2)年の丹後大震災の際には、戸塚文卿神父を中心とするカトリック医療団が救護活動に尽力しました。尚、この戸塚文卿神は私どもの小金井市に桜町病院やヨハネ女子修道会を作った医学博士の神父でした。その延長に現在のカトリック小金井教会があるのです。

 1935(昭和10)年、ルラーブ神父の来日50周年が祝われました。この年、ルラーブ神父の司祭叙階金祝を記念して「宮津暁星幼稚園」の設立が決定され、翌年に同幼稚園が開園されました。
 1941(昭和16)年、56年間日本で宣教活動を続けてきたルラーブ神父が、83歳で帰天されました。
1996(平成8)年5月6日には、献堂100周年の記念ミサが教区長・田中健一司教によってささげられました。
宮津教会は、日本に現存する2番目に古いカトリック天主堂として、今も現役の教会として祈りがささげられています。

主日のミサ:9:30(7~9月は於・加悦教会)
〒626-0023 京都府宮津市宮本500
TEL:0772-22-3127 FAX:0772-22-3684

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


「幕末に建てられた国宝、大浦天主堂と潜伏キリシタンの物語」

2024年06月28日 | 日記・エッセイ・コラム

明治維新を1968年とすると今年は150年になります。
幕末の戊辰戦争などの国内戦争、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、日中戦争、第二次世界大戦と戦争が続き、終いには日本中が焼け野原になって敗戦になりました。この敗戦から72年、日本は平和が続き工業技術が進歩し経済も大いに成長しました。
この150年間の日本の人々の輝きと悲しみを長崎の小高い丘の上から静かに見つめて来た建物があります。
それは幕末に建てられた大浦天主堂です。戦前の昭和8年に洋風建築として初めて国宝に指定された日本の文化遺産です。フランス人が幕末の1865年に作った国宝です。そして現在は観光名所として長崎を訪れる人は必ずのように行く場所になっています。

今日はこの国宝、大浦天主堂にまつわるお話を書きたいと思います。
始まりは文久2年(1862年)の事でした。
フランスのパリ外国宣教会宣教師のフランス人神父、フューレが長崎に赴任し、司祭館と教会堂の建築準備に着手します。
この時あたかも1597年に殉教した26名(日本二十六聖人)がローマ教皇ピオ9世により聖人として認められたのです。
文久3年にはプティジャン神父が長崎に着任し、フューレを補助し、天主堂建設に尽力しはじめました。
そうして遂に元治2年(1864年)に『日本二十六聖人』へ捧げる天主堂として完成したのです。下にその当時の写真を示します。

1番目の写真は1864年に『日本二十六聖人』へ捧げられた天主堂です。

1865年1月に 献堂式を行い、「二十六聖殉教者堂」と命名されたのです。
献堂式には居留外国人を含め、長崎港に停泊中のフランス、ロシア、イギリス、オランダの艦長がそれぞれカトリック信者の水兵数名を従え参列したそうです。

この天主堂が完成したのは幕末で、まだキリシタン禁教令が厳しく行なわれてた時だったのです。ところが、それにもかかわらず、献堂式のすぐ後に、浦上の潜伏キリシタンが大浦天主堂を訪ね、プティジャン神父に密かに信仰者であることを名乗ってしまったのです。
当時としては珍しい西洋風のこの建物を「フランス寺」と呼ばれていました。そこへ浦上の隠れキリシタンたちがプティジャン神父に近づき、「ワタシノムネ、アナタトオナジ」とささやいて信仰告白したそうです。そして「サンタ・マリアの御像はどこ?」と尋ねました。
その後噂を聞いた隠れキリシタン達が五島、外海、神の島など長崎県の各地から、また福岡県の今村からも来たそうです。

しかし日本の禁教令は明治5年まで厳重に執行されていたのです。居留外国人は自由にどの宗教を信じても良かったのです。
そこで幕府と明治政府は名乗り出た隠れキリシタンを逮捕し、日本の各地へ流刑にしました。これが有名な浦上4番崩れなのです。

この初代の天主堂はすぐプティジャン神父たちによって建て直されて、明治12年には現在のような美しい姿になったのです。下にその写真を示します。

2番目の写真は現在の大浦天主堂です。

この天主堂は昭和8年(1933年)に 当時の国宝保存法に基づき国宝に指定されたのです。
昭和20年8月9日の 長崎市への原爆投下によって破損しましたが、爆心地から比較的離れていたため焼失は免れました。
その後、昭和27年に修理が完了します。
そして昭和28年に文化財保護法に基づき国宝に指定されました。これは洋風建築としては初の国宝指定でした。

それらを設計したド・ロ神父のこともご紹介したいと思います。
この神父さまは現在も長崎で販売されているドロ様・ソーメンを作ったことで有名です。それだけではなく明治初期に貧困にあえいでいた人々をフランスの自分の財産を使って助けたのです。慈愛に満ちた神父さんでした。
ですから長崎地方では信者以外の人々も神父のことを『ドロ様』と呼んで、記念館まで作っているのです。
下にこのドロさまが設計した大浦天主堂の脇にある神学校の写真を示します。

3番目の写真は大浦天主堂の脇にある神学校です。キリシタン資料が展示してあります。

そして下の写真はドロさまが設計した出津教会の写真です。

4番目の写真はドロさまが設計した出津教会です。

最後の写真はド・ロ神父記念館です。

5番目の写真はド・ロ神父記念館です。

さて幕末から現在に至るまで数多くの宣教師、牧師、神父が外国からやって来ました。

しかし日本人によって記念館を建ててもらった人は非常に少ないのです。ドロさまが九州の人々に如何に慕われていたかが分かります。

そこで以下にドロ神父に関する記録を、http://seseragi-sc.jp/xe/3512 から抜粋して以下に示します。
・・・彼は宣教師として1868年に来日してから1914年に亡くなるまで一度も故郷に帰ることなく、私財をなげうって日本、特に長崎の貧しい人々のために自分を捧げた司祭である。

来日して12年後、ド・ロ神父は長崎の出津に赴任する。出津教会の主任をしながら彼がまず手を付けたのが福祉事業だった。授産施設「救助院」は、遭難漁民の寡婦ら貧しい婦女子に機織りや食品製造などの技術を教え、自力で生きて行く道を開けるよう援助する施設として開いたものである。農業にも通じていたド・ロ神父は、そうめんなどの材料となる小麦の種子をフランスから取り寄せて栽培し、水車小屋を造って製粉した。落花生油を使った独特の製法で、油となる落花生も地元で栽培した。こうして作られたそうめんは「ド・ロさまそうめん」の名で今も親しまれている。

まさに彼は、学んだ多くの技術を、日本の風土に合わせて土着させる能力を頂き、それを生涯かけて惜しまず使った人と言えるだろう。ド・ロ神父は教会、救助院、保育所、農漁業の改良、開墾、診療所、墓地と、人間の一生に必要なあらゆる施設を作り、神と人への愛を表した。
 長崎県出津に彼の記念館が建てられており、神と共に、また人と共に生涯を過ごしたド・ロ神父の姿を今も伝えている。・・・・

今日は国宝、大浦天主堂をご紹介し、そこに現れた潜伏キリシタンの話を書きました。ド・ロ神父の活躍もご紹介致しました。


それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)