後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「群馬県へ疎開した妻の思い出」

2024年06月19日 | 日記・エッセイ・コラム
終戦の前に家内は群馬県の山里の下仁田町に疎開しました。その縁で東京に帰ってからも下仁田とは交流があり、私も何度か下仁田を訪ねたことがあります。
上毛三山の妙義山の南麓にある本当に静かな所です。現在の下仁田町は昔の日本そのままのようなたたずまいです。
横山美知彦さんは家内が疎開した時の小学校で同級生でした。
その横山さんがときどき山里に暮らす四季折々の随筆や写真を送って下さいました。
戦後の貧しかった日本の地方によくあった人生模様が書いてあります。市井の人々の哀歓がさり気なく書いてあります。写真は下仁田町です。

写真のような山あいの町、下仁田町の諏訪神社の秋祭りは豪華です。7台の豪華な山車が勢揃いして、天保年間(1830~1844)から続く昔のままの賑わいで毎年10月に行われます。横山さんは長年祭りの世話役を務めています。
このような山あいの小さな町で京都や高山のような豪華な山車が7台もあることが不思議です。
そこで少々調べてみました。そうしたら諏訪神社の歴史が面白いのです。
昔からあった八幡神社が戦国時代に諏訪神社と変わったのです。その頃、武田信玄が下仁田町を占領し、自分の領地だった諏訪盆地の由緒ある諏訪神社を勧進して名前を変えたのです。
その後、江戸時代になって、諏訪神社は天保8年(1837)に再建されたのです。
その時の棟梁は信州諏訪市の矢崎善四郎とその弟子たちでした。
拝殿・本殿の壁面や虹梁は彫刻でうめ埋められていいます。彫刻師の腕が偲ばれる諏訪の大隅流の技を伝える傑作なのです。
下仁田町の秋の祭りの写真を3枚示します。

下仁田町の秋の祭りの様子は横山美知彦さんの送ってくれた3枚の写真と、彼自身の文章で示します。
横山美知彦さんは家内が疎開した時の小学校で同級生で毎年、暮に「下仁田葱」を沢山贈ってくれます。
======秋の風物詩・・・祭りと山車:横山美知彦=====
10月半ばになると、昼間の澄み切った秋の空の終わりに、夜の帳が足早にやって来る。お祭礼の提灯の明かりが何となく気分を、幼かった頃に引き戻してくれる。
かすかに見ることの出来るその明かりは、いったい何を私に訴えようとしているのだろう。そして何を教えようとしているのだろうか。遠くから静かに聞こえて来る笛や太鼓の独特な音は、私を特別な世界に引き入れてくれる。・・・以下省略。・・・

町内には七基の山車があります。何処でもそうである様に下仁田町でも若者が減ってはいるが、祭りには、遠方に居住を移して後も自然に集まり、旧交を温め会い、胸をわくわくさせ、山車に群がり、掛け声をかけながら夜遅くまで綱を引くのです。
そして山あいの町の例祭も終わり、静かに秋が深まっていくのです。
町の裏山の妙義山も紅葉が美しくなっていくのです。

皆様のお住まいの土地ではどのような秋祭りが行われるのでしょうか?

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「鎌倉の和食処の『鉢の木』の思い出」

2024年06月19日 | 日記
4月4日は家内が鎌倉で生まれた日です。数年前に車を走らせて、鎌倉の海を見て鉢の木という和食処で妻の誕生日の食事をしました。
写真は海の風景1枚と続いて鉢の木での写真3枚です。
鎌倉は何時行ってものどかな昔の日本の風情があって良いものです。

「妻の楽しい幼少時の鎌倉ものがたり」

2024年06月19日 | 日記・エッセイ・コラム
鎌倉はいろいろな意味で確かに魅力ある町です。観光客が絶えません。
しかし私にとって鎌倉は特別な意味があります。家内が生まれ、そこで終戦の年まで育った場所でした。終戦時は国民学校2年生でした。
家内は結婚以来何度も、何度も鎌倉での楽しい思い出を話します。
家内の話を聞いてから、私も彼女の昔の家の近所を何度か散歩しました。そして鎌倉の中をいろいろ歩き回りました。
家内が鎌倉生まれで小学校まで住んでいた処は長谷寺の近くで現在の鎌倉文学館の下でした。幼稚園は六地蔵の傍にあった聖母幼稚園へ行っていたそうです。その幼稚園を探したら名前は変わっていましたがありました。
通っていた小学校は御成小学校です。現在も当時のままの門がありましたので写真を撮りました。
1番目の写真は御成小学校の門です。御成小学校は海蔵寺や寿福寺に行く途中にあるので何度も行きました。戦前の校門と講堂が残っています。
妻が昔住んでいた家の上の丘には現在、鎌倉文学館学館がありますが当時は加賀藩主だった侯爵前田氏の別荘でした。鎌倉文学館はその別荘の建物をそのまま使っています。何度か入りましたが川端康成、芥川龍之介、久米正雄ら鎌倉文士やゆかりの作家300人余の原稿や初版本が展示してあります。そして昔の別荘の華麗な内装や家具を眺めて楽しみました。
2番目の写真は現在の鎌倉文学館学館です。
そこは当時、妻は加賀様山と呼んでいて、別荘の庭やその周囲の丘や草原で毎日のように遊んでいたそうです。
3番目の写真は昔家内の家のあった場所です。1975年頃迄は当時のままの2階建ての家が残っていました。
そして自宅から路地を抜けて、江の電の線路を渡ると由比ヶ浜です。夏になると親類の若者や子供達が海水浴に来て、何日も泊っていきます。
4番目の写真は由比ヶ浜です。
家内の父親は横須賀の海軍の経理学校で教えていました。一応佐官待遇だったようですが自由な思想の持ち主で陸上競技や野球を楽しんでいました。
鎌倉は終戦まで大規模な空襲が無かったので、戦前の余裕のある楽しい生活が続けられたのです。
鎌倉に行く度に家内が元気はつらつになるので、何度も行くことになりました。そのうち私自身も第二の故郷のように思うようになります。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「古都、鎌倉の古刹めぐりの魅力ーその静寂の世界」

2024年06月19日 | 日記・エッセイ・コラム
鎌倉は妻が生まれ育った町です。妻が懐かしいと言うで何度も行きました。そのうち私の故郷のように感じるようになりました。
今日はそんな鎌倉をご紹介致したいと思います。鎌倉の古刹めぐりの魅力を書きたいと思います。
鎌倉のお寺は円覚寺と建長寺の二つ以外のお寺は規模が小さくて質素なたたずまいです。京都の寺のように華やかでありません。静かな小さいお寺が沢山あるのです。
私はもう50年くらい前の中年になってからその魅力にとりつかれ何度も訪れました。円覚寺と建長寺をはじめ瑞泉寺、明月院、寿福寺、杉本寺、海蔵寺、報国寺、光明寺、などなど20位のお寺には何度も行きました。
ある時は鎌倉や逗子や江の島の宿に泊まり、まだ人のいない朝早くから、読経の声が響く境内を散歩したものでした。そして鎌倉のお寺から禅の精神を感じたのです。
そんな鎌倉のお寺を写真でご紹介したいと思います。

1番目の写真は円覚寺です。写真の出典は、https://www.engakuji.or.jp/about/ です。
円覚寺は臨済宗大本山で鎌倉時代後半の弘安5年(1282)執権北条時宗が中国・宋より招いた無学祖元禅師により開山されました。開基である時宗公は18歳で執権職につき、無学祖元禅師を師として深く禅宗に帰依していました。国家の鎮護と禅を広めたいという願い円覚寺を建てました。そして蒙古襲来による殉死者を、敵味方の区別なく平等に弔うたのです。
私は円覚寺の優しいたたずまいが好きで鎌倉に行くたびに訪れたお寺です。そして裏山に登り円覚寺の堂宇を見下ろしたものです。
円覚寺は北鎌倉駅の前にあります。鎌倉生まれの家内がまだ鎌倉を訪れたことの無かった私を連れて行った懐かしいお寺です。

2番目の写真は建長寺です。写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%BA%E9%95%B7%E5%AF%BA です。
このお寺は臨済宗建長寺派の大本山です。鎌倉時代の建長5年(1253年)の創建で、開基(創立者)は鎌倉幕府第5代執権・北条時頼でした。開山(初代住職)は南宋の禅僧・蘭渓道隆です。建長寺といえば隣にある「鉢の木」という和食の店にもよく寄ったものです。
3番目の写真は海蔵寺です。写真の出典は、http://c-saito.at.webry.info/theme/b81436e5da.html です。
このお寺は鎌倉駅の裏側にあり駐車場も広いので何度も行きました。鎌倉仏教らしい質素なたたず枚が魅力でした。
4番目の写真は報国寺です。写真の出典は、http://matome.naver.jp/odai/2139072013871894901/2139088534565345703 です。
竹林が美しいので竹林を見に行ったお寺です。
5番目の写真は光明寺です。写真の出典は、http://blog.takuzousuinari.com/?eid=674527 です。
この光明寺の山門だけは例外的に壮大です。浄土宗の本山の一つの「大本山」なので大きいようです。鎌倉の寺は円覚寺、建長寺とこの光明寺以外はとにかく小さいのです。お寺の雰囲気が侘しいのです。それは質実の世界なのです。
しかしその侘しさが何とも言えぬ魅力なのです。日本文化の底に流れる清冽の精神が強く感じられるのです。

その魅力にとりつかれて以来、何故、鎌倉のお寺はそのような雰囲気を持っているか考えてきました。
一番大きな原因は古来からの天皇や貴族のための仏教を改革し、武士や庶民の為の仏教にしたからです。分かりやすく言えば鎌倉時代に起こった日本の宗教改革が原因なのです。
この宗教改革は主に京都で起きましたが、その当時の政治権力が鎌倉にあったので、新しい宗派の寺を鎌倉に建てたのです。
その改革によって生まれた6つの宗派を鎌倉仏教と言います。1、浄土宗 、法然(源空)、2、浄土真宗(一向宗) 親鸞、3、時宗(遊行宗) 一遍(智真)、4、法華宗(日蓮宗) 日蓮、5、臨済宗、栄西、6、曹洞宗 、道元、の6宗派です。
現在、鎌倉にあるお寺の一覧表は末尾の参考資料にありますが、その大部分はこの新しい仏教宗派のお寺なのです。
古い時代に鑑真の開いた奈良仏教の宗派や、空海の真言宗や最澄の天台宗はその教義とは関係なく、天皇や貴族によって保護されたために京都にある寺院仏閣はどうしても華美なものになっているのです。

ところで、これらの宗派のお寺も鎌倉にもあります。真言宗や天台宗のお寺も幾つかあります。
しかしそれらのお寺も質素なたたずまいです。鎌倉の武士や庶民の信仰の対称になったいたので、華美な雰囲気はありません。
さて、鎌倉のお寺を訪れると「鎌倉五山」とか「京都五山」という言葉が出てきます。
当時の政治権力者が新しい禅宗の臨済宗の寺院を格付けし、管理コントロ-ルをする制度で選ばれたお寺です。第一位の建長寺から順々に円覚寺、寿福寺、浄智寺、浄妙寺(第五位)というランクがあったのです。幕府が住職を任命していたのです。
現在の政教分離の考えからあまり尊敬すべき制度ではありません。
しかし、この鎌倉五山のお寺も贅沢とはほど遠いたたずまいを見せています。

そんな鎌倉なので茶道も盛んでした。お寺の僧たちが茶道を愛したのです。現在でも抹茶を出してくれる店があちこちにあります。
鎌倉のお寺めぐりの魅力は「質朴の世界」にあるようです。日本人の心の琴線を掻き立てるのです。勿論外国の観光客もこの精神世界に触発され鎌倉を再訪する人も多いのです。

今日は鎌倉のお寺を写真とともにご紹介致しました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料=================
(1)鎌倉の寺院一覧:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8E%8C%E5%80%89%E5%B8%82%E5%86%85%E3%81%AE%E5%AF%BA%E9%99%A2%E4%B8%80%E8%A6%A7
鎌倉地域
扇ガ谷 英勝寺  東光山 浄土宗 玉峯清因 英勝院 1636年(寛永13年)
鎌倉地域
扇ガ谷 海蔵寺  扇谷山 臨済宗建長寺派 心昭空外 上杉氏定 1394年(応永元年)
鎌倉地域
扇ガ谷 護国寺 (鎌倉市)  立正山 日蓮正宗   日達 1969年(昭和44年)
鎌倉地域
扇ガ谷 寿福寺 亀谷山  臨済宗建長寺派 栄西 北条政子 1200年(正治2年) 鎌倉五山第三位
鎌倉地域
扇ガ谷 浄光明寺  泉谷山 真言宗泉涌寺派 真聖国師 北条長時 1251年(建長3年) 鎌倉観音霊・・・・以下省略します。
(2)日本の仏教宗派一覧:http://www.ne.jp/asahi/koiwa/hakkei/bukkyou26-4.htm
(3)鎌倉仏教:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8E%8C%E5%80%89%E4%BB%8F%E6%95%99
「鎌倉新仏教」とは、一般には次の6宗を示している。
浄土宗 法然(源空)
浄土真宗(一向宗) 親鸞
時宗(遊行宗) 一遍(智真)
法華宗(日蓮宗) 日蓮
臨済宗 栄西
曹洞宗 道元
(4)鎌倉五山:
我が国の禅宗のうち、臨済宗の寺院を格付けをする制度。すなわち、幕府が任命した住持(住職)を順次上位の寺に昇進させることにより、幕府の管理下に置き、コントロールしようというもの。 鎌倉幕府の五代執権、北条時頼の頃、中国の五山の制に倣って導入したのが始まりで、その時々に応じて入る寺院や順位などが変動した。最終的には、京都と鎌倉にそれぞれ五山、その上に「五山之上(ござんのうえ)」という最高寺格として南禅寺が置かれた。現在の五山の順位が決まったのは、至徳3(1386)年、室町幕府三代将軍・足利義満の時。ちなみに、五山の下には、十刹、諸山がある。
(京都・南禅寺 - 別格上位)
建長寺 - 第一位
円覚寺 - 第二位
寿福寺 - 第三位
浄智寺 - 第四位
浄妙寺 - 第五位
(5)鎌倉の寺院マップ:http://www5d.biglobe.ne.jp/~shocoma/tp/kmmp.htm
そして、https://www.google.com/maps/d/viewer?mid=znOgXTlC1ISA.k2mXDagL2b0E&hl=en_US