終戦後、疲弊した日本から繁栄していたアメリカへ渡航した日本人はアメリカの豊かさに度肝を抜かれました。「これでは戦争に負けるのが当然だ!」とみんなが心の中で呟いたものです。私もつぶやきました。
後に警察庁の研究所で道路交通の安全を研究し、日本の交通事故の減少へ大きな貢献をした小林實さんは前回の記事のように1959年に氷川丸で太平洋を横断し、シアトルに上陸しました。
今回はそのシアトルから大陸横断の列車の旅です。
当時の日本ではまだ新幹線も無く、蒸気機関車全盛の時代でした。電化していたのは東海道本線だけでした。
東海道本線の特急、「つばめ」だけが食堂車もついていて高級な列車でした。
しかしアメリカの鉄道は広軌の上、大型ジーゼル機関車の重連で大陸を驀進するのです。その上、客室は豪華で2階建ての展望車までついています。
小林青年はその大陸鉄道の旅の後にオハイオの州立大学に留学したのです。
余談ながら私も1年遅れで同じ大学へ留学しましたがその大学の立派さには驚きました。大学なのに本格的な18ホールのゴルフコースを2つ持っています。キャンパスも広大で芝生が青々としています。その上すべての建物が立派で、飛行場まで持っていたのです。
当時の日本の大学と比較すると文字通り雲泥の差です。
そんな事をご想像しながら以下の小林實さんの留学記をお楽しみ下さい。
===============================
当時の太平洋横断の様子
当時、留学が大変厳しかったことは前号に書いたとおりですが、その一つに開発途上国(当時の日本もそうでした)からの感染性の高い病気、ことに結核がアメリカに入ることに神経を尖らしており、入国に際しては指定された日本の病院で撮影した大判のレントゲン写真を携行することを義務づけていました。
さて、船旅の最大のメリットというのは、携行する荷物にかなり余裕のあることで、これに大きな辞書などを含め相当な量を持って行けたことでしょうか。氷川丸は日本列島に沿って北上し、アリューシャン列島に沿いながら、海流に乗って航行するというコースをとります。シアトルが北緯50度近くなので、これが最短距離となります。
人によっては、なぜ「憧れのハワイ航路」をとらないのかと思う人もいますが、ハワイは北緯20度に位置しますから、かなり下に下がる形になり時間もとるわけです。飛行機では空路であり、海流の影響もないのでジェット気流に乗れば、現在では成田から約6時間という距離になっています。
13日間というある意味で長い船旅は、日本郵船のシアトル埠頭に到着することで終わりを告げます。
長いというのは、同じ年代の男女が乗っているいわば等質化している集団でしたから、なにかとトラブル(というよりインシデント程度でしたが)があったことを記憶しています。
ちょうど台風が後ろから近づいていたこともあって、1万トンちょっとの氷川丸は結構揺れました。娯楽施設は船内にはあまりありませんでしたが、人気のあったのは卓球台で、船が揺れるたびに打った球がどこに落ちるのか分からないことが結構面白かった記憶があります。テーブルマナーや英会話の勉強などが船内の毎日の日課でした。
シアトルから大陸横断の鉄道の旅 <shapetype id="_x0000_t75" stroked="f" filled="f" path="m@4@5l@4@11@9@11@9@5xe" o:preferrelative="t" o:spt="75" coordsize="21600,21600"> <stroke joinstyle="miter"></stroke><formulas><f eqn="if lineDrawn pixelLineWidth 0"></f><f eqn="sum @0 1 0"></f><f eqn="sum 0 0 @1"></f><f eqn="prod @2 1 2"></f><f eqn="prod @3 21600 pixelWidth"></f><f eqn="prod @3 21600 pixelHeight"></f><f eqn="sum @0 0 1"></f><f eqn="prod @6 1 2"></f><f eqn="prod @7 21600 pixelWidth"></f><f eqn="sum @8 21600 0"></f><f eqn="prod @7 21600 pixelHeight"></f><f eqn="sum @10 21600 0"></f></formulas><path o:connecttype="rect" gradientshapeok="t" o:extrusionok="f"></path><lock aspectratio="t" v:ext="edit"></lock></shapetype><shape id="図_x0020_2" type="#_x0000_t75" o:spid="_x0000_i1025" style="WIDTH: 3in; HEIGHT: 183pt; VISIBILITY: visible"><imagedata src="file:///C:UsersGotoAppDataLocalTempmsohtmlclip11clip_image001.jpg"></imagedata></shape>
まず、シアトルの町に着いた第一印象を思い出しますと、なぜアメリカ人が道路清掃などをやっているのか、その違和感に悩まされました。何しろアメリカ映画で見た限り、皆が裕福な生活をしているのが当たり前の国という印象が強く、汚い仕事をしているアメリカ人というのは私の思考の範疇から外れていたわけです。英語を話すスピードが速いことにも困りましたが、相手はアメリカ人と同じだという感覚で話すことからくるのでしょうか。外国人だという差別化をしないことを、身をもって体験しました。
いよいよノーザンパシフィック鉄道-Northern Pacific Railway-(北太平洋鉄道)の大陸横断列車での旅です。地図を広げてご覧いただくとわかりますが、アメリカ合衆国(私は合州国の方があっていると思いますが)は何しろ横に広い。この鉄道の歴史は古く、1864年の連邦議会の特別立法で建設された北西部における最初の大陸横断鉄道です。当然ゴールドラッシュ時代には、その隆盛を誇った鉄道でもあったわけです。
列車は、発車ベルなど鳴らしませんから、いつ発車したのかわかりません。ある建築専攻の日本からの留学生が、停車した駅舎に興味を持ってスケッチをしているうちに列車は発車。彼は機転を利かしてヒッチハイクをしたところ、なんと美女の運転するスポーツカーで次の駅で待っていたというエピソードもあります。日本やスイスの鉄道のように、精度の高い運行管理をしていないこともあって、しかも長距離列車なので結構アバウトに感じました。
それでもシカゴまで3日目にたどりつき、そこからさらに列車でオハイオ州の州都コロンバスまで行きます。
まだ航空機が今ほどのネットワークはありませんでしたが、それでも鉄道の旅というのは時間とコストを考えると贅沢な旅であり、人々の移動は車中心であることは今と変わりありません。
当時禁酒州であったユタ州(モルモン教で有名、教徒は人口の70%以上といわれる)を通過する際には、バーのカウンターの酒のビン類をシーツで覆うという仰々しさというか、徹底しているのにも感心しました。
オハイオ州立大学(OSU )の豪華さ
さて私が留学したオハイオ州立大学はオハイオ州の州都のコロンバスにあります。いうなれば県立大学ということになりましょうか。それでも、キャンパスの広さにはまず圧倒されます。ご存知のように、コロンバスという地名はアメリカではあちこちにあります。これはアメリカ大陸発見者コロンブスにちなんでのものだからでしょう。
<shapetype id="_x0000_t75" stroked="f" filled="f" path="m@4@5l@4@11@9@11@9@5xe" o:preferrelative="t" o:spt="75" coordsize="21600,21600"> <stroke joinstyle="miter"></stroke><formulas><f eqn="if lineDrawn pixelLineWidth 0"></f><f eqn="sum @0 1 0"></f><f eqn="sum 0 0 @1"></f><f eqn="prod @2 1 2"></f><f eqn="prod @3 21600 pixelWidth"></f><f eqn="prod @3 21600 pixelHeight"></f><f eqn="sum @0 0 1"></f><f eqn="prod @6 1 2"></f><f eqn="prod @7 21600 pixelWidth"></f><f eqn="sum @8 21600 0"></f><f eqn="prod @7 21600 pixelHeight"></f><f eqn="sum @10 21600 0"></f></formulas><path o:connecttype="rect" gradientshapeok="t" o:extrusionok="f"></path><lock aspectratio="t" v:ext="edit"></lock></shapetype><shape id="_x0000_i1025" type="#_x0000_t75" style="WIDTH: 240pt; HEIGHT: 157.8pt"><imagedata o:title="s-OSU-1" src="file:///C:UsersGotoAppDataLocalTempmsohtmlclip11clip_image001.jpg"></imagedata></shape>
オハイオ州立大学入り口の看板(1959年当時)
オハイオ州というのは地図をご覧になればわかりますが、アメリカ中西部にあり、アメリカ英語のいわば標準語地帯といわれアナウンサーやキャスターをずいぶんと輩出しているエリアです。ニューヨークから来た学生はとても早口で、ちょうど江戸弁を聞いている感じです。また南部は俗に言う南部訛りであり、アクセントなどもずいぶん変わります。ちょうど青森の人と薩摩の人との方言ではお互いに理解不能なのとよく似ています。当時のこの大学で人気のあったのはフットボールでバックアイ(Buck eye-とちの実)の愛称で呼ばれ、有名な選手も結構居りました。大学敷地内にある大きなスタジアムはいつも人で溢れていました。
では学問のほうはどうかというと、化学の分野が有名で全米の化学雑誌Chemical Abstractの発行もやっていたくらいです。当然、日本からの留学生の中では化学専攻者が多かったこともうなずけるわけです。私は人間工学で有名だったP.M.Fitts(フィッツ)教授を頼っていったのでしたが、彼はミシガン大学のほうに転出しておられ、直接指導を受けることはなかったのですが、さいわい航空心理研究所の助手としての奨学金でしたので大学院で人間工学(主に心理学系統のもの)の単位