スケッチブック30

生活者の目線で日本の政治社会の有様を綴る

スケッチブック30(何故日米戦ったか①)

2024-02-19 11:52:44 | 日記
2月19日(月)
 私は社会人になって普通のサラリーマンよりは多く歴史の勉強をしたが、それはこの疑問を解く為のものであった。思い返ってみると、若い頃にまずマスゴミ報道に疑問を持ち、次に自虐史観に反発し、中高年になって保守運動に関心を示したのは、すべてこの疑問を解くための準備であった(つまり本当の事が知りたいとの欲求を果たす)ように思う。古代史とか一見日本近代史に関係のないようなものに興味を持ったのも、ものの見方を勉強する(マスゴミ情報に流されず真実を探る標準的思考方法を得る)為に関心が向いた事のように思う。色々彷徨っていよいよ日米何故戦ったかの問題に、収斂してきたという思いだ。
 当時アメリカの国力は日本の11倍であったと言う。11倍は何に着目して出した数字か知らないが(マクシミリアン統計と言うものがあって一応世界各国のGDPの算出は成されていた)、民政党の党員手帳にそのように記されていたと聞く。又大和級の大型船舶が作れるドッグは日本には四つしかないのに、アメリカには十幾つあるとは、海運関係者には周知の事実であった。戦争直前の昭和16年8月には総力戦研究所が日米戦のシミレーションをして、日本必敗との報告を出している。この報告の元となった机上演習には陸軍大臣であった東条英機も監督者として臨んでいる。だから当時の国民は全員、日米が戦ったら日本は負けると思っていたと考える。
 しかし真珠湾とその後の南方作戦の成功で、日本人はアメリカに勝てると思ってしまったようなのだ。勝てるとまでは思わずともアメリカ恐るるにあらずとは、考えたようなのだ。首相を辞した近衛文麿は昭和17年の何かの新年会で、残念でしたねえ、あのまま首相を続けておられれば喝采を浴びる身の上であったのに、惜しい事をされましたなあと多くの人から声を掛けられたと言っている。近衛はこいつらは来年もそう言えるのかと軽蔑したそうだが、日本人の心情の変化を表している出来事だと思う。
 また一木支隊の突入などを見ても、日本軍の中に根強く、アメリカを舐める気風があったように思う。
 こう考えると当時の一般大衆の世論と言うか雰囲気と言うものは、実に軽佻浮薄で流れる雲のように移ろい易いものだったと思う。目の前の一瞬の出来事に左右されるものだったと思う。しかし当時の日本は今日のような民主主義国家ではなかった。普通選挙は男子に限って実施されていたとはいえ、議会で多数を占めても政権が取れる状況ではとうになくなっていた。首相は内大臣主導による重臣たちの合議で推薦され、天皇がそれを承認して決められていた(西園寺はもう死んでいた)。そして日米戦は閣議で決められた。又閣僚の半分くらいは非政党人(軍人・官僚・実業界の大物など)であった。だから日米戦をするか否かの決定に世論が介入する余地は非常に少なかったと思う。むろん世論の動向は各閣僚の個人的判断に影響したであろうが、世論が日本は負けると思っていても、それに閣僚が従うようなことはなかったと、考える。国民はアメリカに負けると思っていてもそれが政治決定に反映されるシステムではなかったと、思う。つまり天皇を取り囲むエリート集団が日本の政策を決定(或いは舵取りする)国柄であったのである。
 そうすると当時の政策決定権者の集団が、日米戦を決断したことになる。彼らは日米の国力差を世論よりもっと具体的に、知っていたと思う。又近代戦の勝敗は国力に従うものだとも、認識していたと思う。となると彼らは承知の上で、自殺的決断をしたとの結論になる。どうしてそんな決断をしたのか、疑問であった。
 勉強して分かった事は政策決定権者の集団と言っても決して一枚岩ではないという事だ。まず政党と軍は対立し、民政党と政友会は足を引っ張り合い、陸軍はアメリカとの戦争は海軍の役目だとして大陸ばかりに目をやり、海軍はアメリカには勝てないと陸軍の独走に足を掛ける、そんな有様であったという事だ。(以下明日以降に続く)