宝鏡寺は、西山(せいざん)と号し、百々御所(どどごしょ)という御所号をもっている臨済宗の尼門跡寺院である。本尊は聖観世音菩薩で、伊勢の二見浦で漁網にかかったものと伝えられ、膝の上に小さな円鏡を持っている大変珍しい姿をしている。
開山は景愛寺(けいあいじ)第6世であった光厳天皇皇女華林宮惠厳(かりんのみやえごん)禅尼であり、応安年間(1368~75)に御所に祀られていたこの聖観世音菩薩像を景愛寺の支院であった福尼寺に奉納安置して、名前を改め開山したのが始まりと伝えられる。
景愛寺は弘安年間(1278~87)に無外如大禅尼(むがいにょだいぜんに)が開山した寺院で、足利氏の庇護により、南北朝時代以降は禅宗尼寺五山の第一位におかれ、寺門は大いに栄えていた。しかし応仁の乱の兵火や足利氏の衰退により消失してしまい、華林惠厳禅尼の入寺以後は宝鏡寺の住持が景愛寺を兼摂することとなり、以降、法灯は宝鏡寺が受け継いでいる。
また寛永21年(1644)、後水尾天皇々女久厳理昌禅尼(くごんりしょうぜんに)が入寺してから、紫衣を勅許され、皇室とのゆかりが再び強まり、以後歴代皇女が住持を勤める慣わしとなった。
天明8年(1788)の大火では類焼したが、寛政10年(1798)竣工の書院をはじめ、本堂・大門・阿弥陀堂・玄関・使者の間の六棟が復興され、現在は京都市指定有形文化財に指定されている。
文政10年(1827)上棟の本堂は前後三室からなる六間取の方丈形式で、書院には円山応挙の杉戸絵、天保4年(1833)に円山応震と吉村孝敬が描いた襖絵が目を奪う。
阿弥陀堂は勅作堂ともいい、光格天皇勅作阿弥陀如来立像が御所より移される折りに移築された建物。明治の廃仏毀釈以後は、宝鏡寺住職が代々兼務していた大慈院を合併し、本尊の阿弥陀如来立像、開基である崇賢門院(すうけんもんいん)御木像、尼僧姿の日野富子(ひのとみこ)御木像も阿弥陀堂に安置されている。これは、公卿日野政光の息女日野富子(1440~96)は、室町幕府八代将軍足利義政(よしまさ)の妻となった。我が子義尚(よしひさ)を世継ぎにしようとしたことが、応仁の乱を引き起こした原因の1つともなった。大慈院(浄土宗)が宝鏡寺に隣接してあり、後に富子は出家して妙善院(みょうぜんいん)となり入寺した。後に大慈院は宝鏡寺に受け継がれて日野富子の木像が奉られた。
当寺は人々から「人形の寺」と呼ばれている。
京都・奈良の尼門跡寺院にはたくさんの人形が保存されているが、これは代々内親王が入寺され、父である天皇から季節やことあるごとに人形が贈られてきたことに由来している。宝鏡寺も、そのような関係で多くの人形が所蔵されている。中でも特に近代の皇女である霊厳理欽尼(れいごんりきんに)には、3組の雛人形、猩々人形などが残っている。
このような人形を公開する意味から、昭和32年(1957)秋より人形展が始められ、それ以降は毎年春と秋に一般公開することになった。
その後、関係者により年1回、10月14日に人形供養祭が営まれ、島原太夫による舞や和楽器の演奏などが奉納される。昭和34年の秋には壊れたり汚れたりして捨てられてしまう人形を弔い供養し、その霊を慰めるために、人形製作に携わる人々及び有志などによって人形塚が境内に建立された。 人形塚は、吉川観方(かんぽう)氏による手に宝鏡を持った御所人形の姿をしており、武者小路実篤氏による
「人形よ誰がつくりしか
誰に愛されしか知らねども
愛された事実こそ汝の成仏の誠なれ」という詩が刻まれている。
当寺と皇女和宮との縁は深く、遺品がいくつか納められている。
和宮親子内親王(かずのみやちかこないしんのう)は、公武合体のため徳川将軍家茂公にご降嫁され、明治維新の江戸城開城に隠れた功績を残した。
幼少の頃、百々御所(宝鏡寺)へお成りになり、若い上臈(じょうろう)たちと双六や貝合わせなどに興じられたり、鶴亀の庭で遊ばれ、また、桂御殿御普請中はここに桂宮と住まわれ、その間よく上臈たちとお経を唱えられたという。このような縁から、当寺には絵巻物をはじめとした和宮の遺品が、御所より特別に下賜された。
百々町 (とどちょう)は、京都市上京区寺之内通堀川東入の江戸期~現在の町名。この町名は「今昔物語集」「応仁記」にも登場し「百々」という堀川通の北方を指す古地名でもあった。この地は現在でも多くの名勝や寺院が残るところで、宝鏡寺をはじめ、表千家不審庵、裏千家今日庵などがあり、茶道具を商う老舗も点在する。
所在地:京都市上京区寺之内通堀川東入。
交通:JR京都駅市バス(B)乗り場より9系統。京阪電鉄三条駅より市バス12系統。 バス停堀川寺ノ内より徒歩すぐ。
開山は景愛寺(けいあいじ)第6世であった光厳天皇皇女華林宮惠厳(かりんのみやえごん)禅尼であり、応安年間(1368~75)に御所に祀られていたこの聖観世音菩薩像を景愛寺の支院であった福尼寺に奉納安置して、名前を改め開山したのが始まりと伝えられる。
景愛寺は弘安年間(1278~87)に無外如大禅尼(むがいにょだいぜんに)が開山した寺院で、足利氏の庇護により、南北朝時代以降は禅宗尼寺五山の第一位におかれ、寺門は大いに栄えていた。しかし応仁の乱の兵火や足利氏の衰退により消失してしまい、華林惠厳禅尼の入寺以後は宝鏡寺の住持が景愛寺を兼摂することとなり、以降、法灯は宝鏡寺が受け継いでいる。
また寛永21年(1644)、後水尾天皇々女久厳理昌禅尼(くごんりしょうぜんに)が入寺してから、紫衣を勅許され、皇室とのゆかりが再び強まり、以後歴代皇女が住持を勤める慣わしとなった。
天明8年(1788)の大火では類焼したが、寛政10年(1798)竣工の書院をはじめ、本堂・大門・阿弥陀堂・玄関・使者の間の六棟が復興され、現在は京都市指定有形文化財に指定されている。
文政10年(1827)上棟の本堂は前後三室からなる六間取の方丈形式で、書院には円山応挙の杉戸絵、天保4年(1833)に円山応震と吉村孝敬が描いた襖絵が目を奪う。
阿弥陀堂は勅作堂ともいい、光格天皇勅作阿弥陀如来立像が御所より移される折りに移築された建物。明治の廃仏毀釈以後は、宝鏡寺住職が代々兼務していた大慈院を合併し、本尊の阿弥陀如来立像、開基である崇賢門院(すうけんもんいん)御木像、尼僧姿の日野富子(ひのとみこ)御木像も阿弥陀堂に安置されている。これは、公卿日野政光の息女日野富子(1440~96)は、室町幕府八代将軍足利義政(よしまさ)の妻となった。我が子義尚(よしひさ)を世継ぎにしようとしたことが、応仁の乱を引き起こした原因の1つともなった。大慈院(浄土宗)が宝鏡寺に隣接してあり、後に富子は出家して妙善院(みょうぜんいん)となり入寺した。後に大慈院は宝鏡寺に受け継がれて日野富子の木像が奉られた。
当寺は人々から「人形の寺」と呼ばれている。
京都・奈良の尼門跡寺院にはたくさんの人形が保存されているが、これは代々内親王が入寺され、父である天皇から季節やことあるごとに人形が贈られてきたことに由来している。宝鏡寺も、そのような関係で多くの人形が所蔵されている。中でも特に近代の皇女である霊厳理欽尼(れいごんりきんに)には、3組の雛人形、猩々人形などが残っている。
このような人形を公開する意味から、昭和32年(1957)秋より人形展が始められ、それ以降は毎年春と秋に一般公開することになった。
その後、関係者により年1回、10月14日に人形供養祭が営まれ、島原太夫による舞や和楽器の演奏などが奉納される。昭和34年の秋には壊れたり汚れたりして捨てられてしまう人形を弔い供養し、その霊を慰めるために、人形製作に携わる人々及び有志などによって人形塚が境内に建立された。 人形塚は、吉川観方(かんぽう)氏による手に宝鏡を持った御所人形の姿をしており、武者小路実篤氏による
「人形よ誰がつくりしか
誰に愛されしか知らねども
愛された事実こそ汝の成仏の誠なれ」という詩が刻まれている。
当寺と皇女和宮との縁は深く、遺品がいくつか納められている。
和宮親子内親王(かずのみやちかこないしんのう)は、公武合体のため徳川将軍家茂公にご降嫁され、明治維新の江戸城開城に隠れた功績を残した。
幼少の頃、百々御所(宝鏡寺)へお成りになり、若い上臈(じょうろう)たちと双六や貝合わせなどに興じられたり、鶴亀の庭で遊ばれ、また、桂御殿御普請中はここに桂宮と住まわれ、その間よく上臈たちとお経を唱えられたという。このような縁から、当寺には絵巻物をはじめとした和宮の遺品が、御所より特別に下賜された。
百々町 (とどちょう)は、京都市上京区寺之内通堀川東入の江戸期~現在の町名。この町名は「今昔物語集」「応仁記」にも登場し「百々」という堀川通の北方を指す古地名でもあった。この地は現在でも多くの名勝や寺院が残るところで、宝鏡寺をはじめ、表千家不審庵、裏千家今日庵などがあり、茶道具を商う老舗も点在する。
所在地:京都市上京区寺之内通堀川東入。
交通:JR京都駅市バス(B)乗り場より9系統。京阪電鉄三条駅より市バス12系統。 バス停堀川寺ノ内より徒歩すぐ。