「古都逍遥 京都・奈良編」「花の詩」「日常のこと」や花や風景写真

 京都・奈良を中心に古刹・名刹や「花の詩」等の紹介。花や風景写真、オリジナルの詩、カラオケ歌唱など掲載しています。

「長岡天満宮」(ながおかてんまんぐう)

2006年09月08日 07時44分04秒 | 古都逍遥「京都篇」
  『美しや紅の色なる梅の花 あこが顔にもつけたくぞある』

菅原道真が5歳の頃、庭に咲く紅梅を見て、その花びらで自分の頬を飾りたいと詠い、以来、道真と梅の縁は深く、道真の京の邸宅も紅梅殿・白梅殿と呼ばれるほどであった。
 道真が大宰府に左遷される折、邸宅の紅梅の梅に、『東風吹かば にほいおこせよ梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ』と詠んだ歌は有名だが、後にその梅が大宰府の道真のもとに飛んでいったという「飛梅伝説がある。

 道真と天満宮の梅は、切っても切れない関係にあるが、ここ長天満宮は、京都の北野天満宮、大宰府天満宮とは異なって裏手にある梅林は植樹して年数がさほど経っていないこともあり、それほど見るべきものがない。道真が大宰府に左遷された時、当地に立ち寄り「我が魂長くこの地にとどまるべし」と名残を惜しんだ縁故により、道真自作の木像を祀ったのが長岡天満宮の創立である。
 爾来、皇室の崇敬篤く、寄進造営され、寛永15年(1638)に八条宮智仁親王によって「八条が池」が築造された。この池畔周辺に樹齢130年というキリシマツツジが、春ともなれば零れんばかりに咲き乱れ、その見事さは東西随一と言われている。

 本殿は昭和16年に平安神宮の社殿を移築したもので、三間社流れ造り、素木の本殿で端正で丈が高く美しい。本殿へ向かう参道の途中に小さな弁天池があり、歌碑が数点立っている。
『しら梅の 離々と たかきは 神います』(樟蹊子)などがある。

 交通:阪急京都線・長岡天神駅下車徒歩10分。

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「広沢池」(ひろさわのいけ)

2006年09月05日 17時08分19秒 | 古都逍遥「京都篇」
 「宿も荒れ主もなけれど月のみぞ 澄みも変わらぬ広沢の池」(慈鎮)

 地理的には、広い意味で嵯峨野ということになるだろうが、観光客が訪れる嵯峨野・嵐山界隈からは、かなり離れており古刹「大覚寺」に近い。しかも、歴史的風土特別保存地区に指定されていることもあり、静かな景観が保たれている。道路沿いに鶏の水炊きの店などがあり、池を眺めながらの水炊きは格別な風味がある。

 目に入るのは、池と、背後の小高い山、そして西に広がる田園風景。そんな静かな風景が広がる広沢池、王朝時代より多くの人に愛されたいわれ深い洛西の別天地である。
 この池は、平安時代の中期、永祚元年(989)、宇多天皇の孫で真言宗の寛朝僧正がこの地に遍照寺を建立した時に、庭園の一部として造られたと言われていおり、当時、池のほとりには、釣殿、月見堂などが設けられていたそうだ。その後、寺は荒廃し、池だけが残ったという。遍照寺創建当時から月の名所として知られ、西行をはじめ多くの歌人が歌に詠んでいる。

「いにしへの人は汀に影たへて 月のみ澄める広沢の池」(新千載集:源三位頼政)
 
「あれにける宿とて月は変わねど 昔の影はなほぞこひしき」(風雅集:薩摩守平忠度)

 現在、池の西のほとりに橋が架けられた小さな島があり、観音像と池築造千年の碑が建てられている。この島は、寺があったころの観音堂の名残といわれており、時代劇の撮影地として大覚寺と共によく使われている。取材で訪ねた頃は夏の盛り、観音堂のある小島の周辺には古代蓮が咲き、一幅の日本画を見る思いであった。
 ところが冬になると池の水がほとんどなくなる。別に干上がっているわけではなく、水を抜いているのだ。池は養魚場にもなっており春、鯉や鮒、もろこの稚魚が放流され、そして冬を迎えること1月くらいかけて水を徐々に抜いていき、人が入れるくらいの深さになったところで、大きく育った魚を獲って即売したり、市内の料理屋などに売られていくというわけだ。魚を獲る様子はテレビなどで放映され、京都の冬の風物詩として定着している。冬は湿地のようになり、ところどころに水路があり、魚をねらって日が昇るにつれて、鳥たちが集まってくることから、バードウッチング愛好家たちの撮影ポイントとしても人気がある。

 周囲約1.3km、面積14万平方メートルでカイツブリ、イシガメなどが生息する。季節もやはり秋が一番。水面に赤や黄色の木々が綺麗に映る。観月にぴったりの小さな洲もあり、のどかな田園風景が広がる北嵯峨にある観月の名所。一説には、嵯峨野を開拓した秦氏の手によって造られたともいわれるが定かではない。

 所在地:京都府京都市右京区嵯峨広沢町。
 交通:JR京都駅より市バス26系統山越行(約30分)、山越より徒歩7分。

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「二尊院」(にそんいん)

2006年09月03日 12時02分31秒 | 古都逍遥「京都篇」
 秋ともなれば全山が紅で覆い尽くされ、燃え立って見える小倉山の東麓に、釈迦如来と阿弥陀如来(鎌倉時代の春日仏師作・重要文化財)の二尊を祀る「二尊院」がうある。正式な名称は「小倉山二尊教院華台寺」といい、嵯峨天皇のころ慈覚大師が承和年間(834~847)に開山した。

 威風堂々たる総門を入り、「紅葉の馬場」と呼ばれる参道を抜けると、秀麗な美を留める本堂がある。総門は伏見城の「薬医門」を移築したもので、本堂は京都御所の紫辰殿(ししんでん)を模して造られた。
 山内の時雨亭(しぐれてい)は藤原定家が百人一首を選定したところで、今はその跡地が保存されている。納経所の横にある茶室「御園亭」は後水尾天皇第五皇女であった賀子内親王(がしないしんのう)御化粧の間であったものを元禄10年(1697)に移築したもので、狩野永徳筆の腰張りがある。

 「しあわせの鐘」として信仰があつい「梵鐘」は、慶長9年(1604)作であったが、再鋳した。この鐘をつくとき、「自分が生かされている幸せを祈り」、「生きとし生けるものに感謝し」、「世界人類の幸せを祈る」の3つを祈りながら鐘をつく。腹に沁みる鐘の響きに心まで洗われる思がする。

 秋、澄み切った山麓の風に吹かれ紅葉がハラハラと散る中、境内の茶処で熱い甘酒をすすり小鳥のさえずりを聴けば世俗のことなど忘れてしまいそうだ。

 交通:京都バス「嵯峨小学校」下車、徒歩5分。
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「二条城」(にじょうじょう)

2006年09月02日 23時31分59秒 | 古都逍遥「京都篇」
 京都への修学旅行では大勢の学生たちが必ず訪れる名所は、清水寺、金閣寺、そして二条城である。
二条城は、慶長8年(1603)徳川家康が、京都御所の守護と将軍上洛のときの宿泊所として造営し、3代将軍家光により、伏見城の遺構を移すなどして、寛永3年(1626)完成した。
 豊臣秀吉の残した文禄年間の遺構と家康が建てた慶長年間の建築と家光が作らせた絵画・彫刻などが総合され、いわゆる桃山時代様式の全貌を垣間見ることができる、日本の歴史の移り変わりを見守ってきた城である。

 二条城をつぶさに鑑賞しようと思うと、短時間の刻限では難しいほど豊富な歴史的建造物や資料、そして美術工芸品に溢れている。
 二の丸御殿は、桃山時代の武家風書院造りの代表的なもので、車寄せに続いて遠侍(とおさむらい)、式台(しきだい)、大広間(おおひろま)、蘇鉄の間(そてつのま)、黒書院(くろしょいん)、白書院(しろしょいん)の六棟が東西から南北にかけて雁行に立ち並んでいる。

 唐門(からもん)を入ると豪華に装飾された車寄せが目に入る。欄間彫刻は表と裏のデザインを変えており、表側には五羽の鸞鳥(らんちょう)・松・ボタン、上部には雲、下部には笹を見ることができる。屋根は桧皮葺(ひわだぶき)になっており、床は牛車で中に入れるように四半敷になっている。
 遠侍の間は、二の丸御殿内で最大の床面積を誇り、約1046.1㎡もある。
一の間・二の間・三の間・若松の間・勅使の間に分かれ、城へ参上した大名の控えの間である。
 参上した大名が老中職とあいさつを交わしたところが式台の間で、将軍への献上品はこの部屋で取り次ぎされ。襖絵は狩野探幽(たんゆう)が描いたものといわれている。
 大政奉還を行なった大広間一の間・二の間は、一の間が広さが48畳、2の間は44畳もあるという。将軍が諸大名と対面した部屋で二の丸御殿の中で最も格式の高い部屋である。この部屋で慶応3年(1867)10月、15代将軍慶喜が諸大名を集め、大政奉還を発表した。また二の間は御水尾天皇の行幸のときに、南庭につくられた能舞台の見所に使われた。

 内堀に囲まれた約5、200坪の広大な敷地に建つのが本丸御殿である。
創建当時の本丸御殿は、二の丸御殿にほぼ匹敵する規模をもっており、内部は狩野派の障壁画で飾られていたという。
 本丸にはもと伏見城の天守・殿舎が移築され、5層の天守閣がそびえていたが、寛延3年(1750)落雷のため焼失、さらに天明8年(1788年)には市中の大火のため殿舎をも焼失した。

 現在の本丸御殿は、もと京都御所今出川御門内にあった旧桂宮邸の御殿を、明治26年から27年にかけて本丸内に移築したもので、旧桂宮御殿は京都御所にあった当時、仁孝天皇の皇女和宮が14代将軍家茂に嫁がれる前、約1年8ヶ月にわたって住まわれた縁の建物で、嘉永7年(1854)内裏が炎上したときにも延焼を免れ、孝明天皇の仮皇居に使用された由緒深い建物である。

 次に庭園について紹介しておこう。現在二条城には江戸時代につくられた二の丸庭園、明治時代の本丸庭園、昭和時代の清流園の3つの庭園がある。
 二の丸庭園は、作庭の年代については記録や作風から、慶長7、8年頃二条城が造営されたときに作庭され、御水尾天皇行幸の際に一部改修を加えられたと伝えられている。
 池泉回遊式庭園である二の丸庭園は、神泉蓬莱の世界を表した庭園と言われ、また八陣の庭とも呼ばれている。
 二条城は城主不在の城としても知られているが、3代将軍家光の上洛以降、なんと14代将軍家茂が上洛するまでの、229年間にわたって将軍不在のまま幕末を迎え、その間事由は定かではないが、吉宗の時代に庭園の改修が行なわれたとある。15代将軍慶喜の上洛時には樹木はほとんどなく、池は枯渇して枯山水風の庭園景観を呈し荒廃していた。

 大政奉還後、二条城は転々と所管が変わり、宮内省に所管されてからは5回以上改修が行なわれ、離宮的・迎賓館的な城として利用された。
 特に離宮時代に行われた植栽工事は、幕末の庭園景が変貌する程の大規模な改修工事で、今日に至る基本的な景観が完成したという。
 京都市に下げ渡されてからの二の丸庭園は、昭和14年(1939年)名勝に指定、昭和28年に国の特別名勝の指定を受け、文化財的資産と観光要素の1つとして維持されている。
 本丸庭園は、造営当初の史料が不足しているため、どのようなものであったか分かっていないらしく、二の丸庭園にひけをとらない庭園が存在していたと考えられている。
 しかし、天明8年(1788)の大火の飛び火によって本丸御殿、隅櫓、多聞櫓などが焼失。庭園も延焼して空地となっていたという。

 幕末には、本丸内に徳川慶喜の居室が建てられ、庭園は茶庭風に作られた。
居室は 老朽化のため明治14年に撤去、庭園も取り壊されて空地となったが、明治26年から翌年にかけて京都御苑内にあった旧桂宮邸の一部が移築されて、枯山水庭園が作庭された。
 現在の本丸庭園は明治28年5月23日、明治天皇が本丸に行幸された折、既存の枯山水風庭園の改造を命じ、約7ヵ月半の歳月をかけ大改造の末、翌年に完成した。庭園は東南隅に月見台(築山)を配し、芝生を敷き詰め、曲線的な園路を設け、石段(岩岐 <がんき>)沿いにはアラカシ、ベニカナメなどを植樹し、所々に燈籠や庭石などを据えられてる。

 清流園は、創建時(家康の時代)の二条城北部清流園地区は洛中洛外図屏風などから城内通路と天 守閣の一部が存在していた。しかし、寛永元年~同3年(家光の時代)にかけ ての二条城増改築の折、天守閣は淀城に移築されて空地となった。
 寛永11年(1634年)以降、同心(幕府の役人)の住まいが建造され、幕末まで建造物群があったが、明治前期に撤去されたという。
 大正4年、大正天皇即位式饗宴の儀の会場として利用され、饗宴施設等が増築された。翌大正5年より城内の復旧工事が行われ、饗宴施設の一部は岡崎桜の馬場(現在の京都会館付近)へ移築撤去され、その跡地を造園家小川治兵衛氏によって疎林式庭園に復旧された。
 この庭園は河原町二条にあった旧角倉了以の屋敷の一部、庭石、庭木等を無償で譲りうけ、更に全国から集めた銘石、篤志家より寄贈を受けたものなどを用い、昭和40年(1965年) 完成。当時の高山義三市長によって「清流園」と命名され、東半分が芝生を敷き詰めた洋風庭園、西半分は2棟の建物を含めた池泉回遊式山水園(和風庭園)からなる和洋折衷庭園である。
 障壁画も見事なものが多く、二の丸御殿には、3、411面の障壁画が現存しており、そのうちの954面が、昭和57年に国の重要文化財の指定を受けた。遠侍・式台・大広間・蘇鉄の間・黒書院・白書院の6棟が順に雁行状に連なっていて、内部の障壁画は白書院を除くとすべて金碧(きんぺき)障壁画で、桃山時代の華麗な様式を今に残している。 
 これらの障壁画は、慶長期のものではなく、寛永3年の後水尾天皇の行幸の際に、それまで御殿にあった障壁画を新たに描き改めたものといわれており、描いたのは、当時の幕府御用絵師であった狩野探幽をリーダーとする「狩野派」一派であった。
 絢爛たる御殿に花を添える花木も豊富で、特に春は染井吉野、紅枝垂桜をはじめとし、開花時期をずらした桜が植えられており、目を奪われる美しさである。
初春は梅園に白梅紅梅が香りを放ち、お堀にその華麗さを映している。四季折々の花が植えられ、1年を通して楽しめる二条城である。

 交通:JR京都駅から市バス9・50・101号系統「二条城前」下車、阪急電鉄四条河原町駅から市バス12号系統「堀川御池」下車。

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南禅寺「大寧軒」

2006年09月01日 23時15分11秒 | 古都逍遥「京都篇」
 一昨年は「京都・庭園見学―岡崎」と題して岡崎地区において多くのイベントが実行されてたが、その中の目玉の一つとして非公開庭園であった南禅寺大寧軒庭園の期間限定の公開があった。

 「大寧軒」は南禅寺の塔頭の一つであった「大寧院」跡であり、明治末期に茶人・藪之内紹智の作庭で庭園が造成されたがこれまで一般公開されていなかった。激動の維新の政変や大戦の渦中にも堪え、いま閑静な美観と造園の心を映し出し、奥深い古都の情緒をたたえている。
 数奇屋造りの広間から対座するその名庭は、春夏秋冬、昔ながらの四季の趣が心をとらえて離さない。
 茶人に趣向による作庭らしく、配石、苑路など随所に露地風の趣きがある。
座敷正面に優雅な曲線を持つ築山林泉庭である。奥に幅の広い流れがあり、そこに三方正面(三方どこから見ても鳥居の正面)の石造の鳥居がある。この鳥居は、右京区太秦にある「木嶋座天照御魂神社(蚕の社)」の鳥居を模して作られたという。鳥居の下から清泉が湧き小川となって池に注がれている。雅趣にとんだ落ち着いた庭で、全体が繊細にして華麗なる技法をみせた庭園で和敬静寂のたたずまいを醸し出している。随所に見られる玄武岩の庭石は、兵庫県の天然記念物に指定されている柱状列石を持ち込んだもので、銘石といわれている。

所在地:京都府京都市左京区南禅寺。
 交通:地下鉄東西線「蹴上」駅下車、徒歩7分。
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