「古都逍遥 京都・奈良編」「花の詩」「日常のこと」や花や風景写真

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「二条城」(にじょうじょう)

2006年09月02日 23時31分59秒 | 古都逍遥「京都篇」
 京都への修学旅行では大勢の学生たちが必ず訪れる名所は、清水寺、金閣寺、そして二条城である。
二条城は、慶長8年(1603)徳川家康が、京都御所の守護と将軍上洛のときの宿泊所として造営し、3代将軍家光により、伏見城の遺構を移すなどして、寛永3年(1626)完成した。
 豊臣秀吉の残した文禄年間の遺構と家康が建てた慶長年間の建築と家光が作らせた絵画・彫刻などが総合され、いわゆる桃山時代様式の全貌を垣間見ることができる、日本の歴史の移り変わりを見守ってきた城である。

 二条城をつぶさに鑑賞しようと思うと、短時間の刻限では難しいほど豊富な歴史的建造物や資料、そして美術工芸品に溢れている。
 二の丸御殿は、桃山時代の武家風書院造りの代表的なもので、車寄せに続いて遠侍(とおさむらい)、式台(しきだい)、大広間(おおひろま)、蘇鉄の間(そてつのま)、黒書院(くろしょいん)、白書院(しろしょいん)の六棟が東西から南北にかけて雁行に立ち並んでいる。

 唐門(からもん)を入ると豪華に装飾された車寄せが目に入る。欄間彫刻は表と裏のデザインを変えており、表側には五羽の鸞鳥(らんちょう)・松・ボタン、上部には雲、下部には笹を見ることができる。屋根は桧皮葺(ひわだぶき)になっており、床は牛車で中に入れるように四半敷になっている。
 遠侍の間は、二の丸御殿内で最大の床面積を誇り、約1046.1㎡もある。
一の間・二の間・三の間・若松の間・勅使の間に分かれ、城へ参上した大名の控えの間である。
 参上した大名が老中職とあいさつを交わしたところが式台の間で、将軍への献上品はこの部屋で取り次ぎされ。襖絵は狩野探幽(たんゆう)が描いたものといわれている。
 大政奉還を行なった大広間一の間・二の間は、一の間が広さが48畳、2の間は44畳もあるという。将軍が諸大名と対面した部屋で二の丸御殿の中で最も格式の高い部屋である。この部屋で慶応3年(1867)10月、15代将軍慶喜が諸大名を集め、大政奉還を発表した。また二の間は御水尾天皇の行幸のときに、南庭につくられた能舞台の見所に使われた。

 内堀に囲まれた約5、200坪の広大な敷地に建つのが本丸御殿である。
創建当時の本丸御殿は、二の丸御殿にほぼ匹敵する規模をもっており、内部は狩野派の障壁画で飾られていたという。
 本丸にはもと伏見城の天守・殿舎が移築され、5層の天守閣がそびえていたが、寛延3年(1750)落雷のため焼失、さらに天明8年(1788年)には市中の大火のため殿舎をも焼失した。

 現在の本丸御殿は、もと京都御所今出川御門内にあった旧桂宮邸の御殿を、明治26年から27年にかけて本丸内に移築したもので、旧桂宮御殿は京都御所にあった当時、仁孝天皇の皇女和宮が14代将軍家茂に嫁がれる前、約1年8ヶ月にわたって住まわれた縁の建物で、嘉永7年(1854)内裏が炎上したときにも延焼を免れ、孝明天皇の仮皇居に使用された由緒深い建物である。

 次に庭園について紹介しておこう。現在二条城には江戸時代につくられた二の丸庭園、明治時代の本丸庭園、昭和時代の清流園の3つの庭園がある。
 二の丸庭園は、作庭の年代については記録や作風から、慶長7、8年頃二条城が造営されたときに作庭され、御水尾天皇行幸の際に一部改修を加えられたと伝えられている。
 池泉回遊式庭園である二の丸庭園は、神泉蓬莱の世界を表した庭園と言われ、また八陣の庭とも呼ばれている。
 二条城は城主不在の城としても知られているが、3代将軍家光の上洛以降、なんと14代将軍家茂が上洛するまでの、229年間にわたって将軍不在のまま幕末を迎え、その間事由は定かではないが、吉宗の時代に庭園の改修が行なわれたとある。15代将軍慶喜の上洛時には樹木はほとんどなく、池は枯渇して枯山水風の庭園景観を呈し荒廃していた。

 大政奉還後、二条城は転々と所管が変わり、宮内省に所管されてからは5回以上改修が行なわれ、離宮的・迎賓館的な城として利用された。
 特に離宮時代に行われた植栽工事は、幕末の庭園景が変貌する程の大規模な改修工事で、今日に至る基本的な景観が完成したという。
 京都市に下げ渡されてからの二の丸庭園は、昭和14年(1939年)名勝に指定、昭和28年に国の特別名勝の指定を受け、文化財的資産と観光要素の1つとして維持されている。
 本丸庭園は、造営当初の史料が不足しているため、どのようなものであったか分かっていないらしく、二の丸庭園にひけをとらない庭園が存在していたと考えられている。
 しかし、天明8年(1788)の大火の飛び火によって本丸御殿、隅櫓、多聞櫓などが焼失。庭園も延焼して空地となっていたという。

 幕末には、本丸内に徳川慶喜の居室が建てられ、庭園は茶庭風に作られた。
居室は 老朽化のため明治14年に撤去、庭園も取り壊されて空地となったが、明治26年から翌年にかけて京都御苑内にあった旧桂宮邸の一部が移築されて、枯山水庭園が作庭された。
 現在の本丸庭園は明治28年5月23日、明治天皇が本丸に行幸された折、既存の枯山水風庭園の改造を命じ、約7ヵ月半の歳月をかけ大改造の末、翌年に完成した。庭園は東南隅に月見台(築山)を配し、芝生を敷き詰め、曲線的な園路を設け、石段(岩岐 <がんき>)沿いにはアラカシ、ベニカナメなどを植樹し、所々に燈籠や庭石などを据えられてる。

 清流園は、創建時(家康の時代)の二条城北部清流園地区は洛中洛外図屏風などから城内通路と天 守閣の一部が存在していた。しかし、寛永元年~同3年(家光の時代)にかけ ての二条城増改築の折、天守閣は淀城に移築されて空地となった。
 寛永11年(1634年)以降、同心(幕府の役人)の住まいが建造され、幕末まで建造物群があったが、明治前期に撤去されたという。
 大正4年、大正天皇即位式饗宴の儀の会場として利用され、饗宴施設等が増築された。翌大正5年より城内の復旧工事が行われ、饗宴施設の一部は岡崎桜の馬場(現在の京都会館付近)へ移築撤去され、その跡地を造園家小川治兵衛氏によって疎林式庭園に復旧された。
 この庭園は河原町二条にあった旧角倉了以の屋敷の一部、庭石、庭木等を無償で譲りうけ、更に全国から集めた銘石、篤志家より寄贈を受けたものなどを用い、昭和40年(1965年) 完成。当時の高山義三市長によって「清流園」と命名され、東半分が芝生を敷き詰めた洋風庭園、西半分は2棟の建物を含めた池泉回遊式山水園(和風庭園)からなる和洋折衷庭園である。
 障壁画も見事なものが多く、二の丸御殿には、3、411面の障壁画が現存しており、そのうちの954面が、昭和57年に国の重要文化財の指定を受けた。遠侍・式台・大広間・蘇鉄の間・黒書院・白書院の6棟が順に雁行状に連なっていて、内部の障壁画は白書院を除くとすべて金碧(きんぺき)障壁画で、桃山時代の華麗な様式を今に残している。 
 これらの障壁画は、慶長期のものではなく、寛永3年の後水尾天皇の行幸の際に、それまで御殿にあった障壁画を新たに描き改めたものといわれており、描いたのは、当時の幕府御用絵師であった狩野探幽をリーダーとする「狩野派」一派であった。
 絢爛たる御殿に花を添える花木も豊富で、特に春は染井吉野、紅枝垂桜をはじめとし、開花時期をずらした桜が植えられており、目を奪われる美しさである。
初春は梅園に白梅紅梅が香りを放ち、お堀にその華麗さを映している。四季折々の花が植えられ、1年を通して楽しめる二条城である。

 交通:JR京都駅から市バス9・50・101号系統「二条城前」下車、阪急電鉄四条河原町駅から市バス12号系統「堀川御池」下車。

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