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「大雲院」(だいうんいん)

2008年07月03日 10時06分37秒 | 古都逍遥「京都篇」
 一年坂から石塀小路を経て、石畳の道を二年坂、産寧坂(さんねんさか)へと向かう途中、高台寺へと通じる「ねねの道」から山鉾に似たひときわ高い塔「祇園閣」が見える。そこが今回訪れた大雲院である。

 大雲院は、もとは浄土宗知恩院に属していた寺であったが、現在は浄土教系の単立寺で「龍池山」と号している。
 当院は、天正15年(1587)正親町天皇の勅命を賜り、織田信長、信忠父子の菩提を弔うため、御池御所(烏丸二条南)の地で貞安(じょうあん)上人が開山、織田信忠の法名に因んで「大雲院」を寺号とした。
 その後、豊臣秀吉が寺域の狭いことを憂慮して天正18年(1590)寺町四条南に移転。さらに島津以久(ゆきひさ:日向国佐土原(さどはら)城主)の帰依を受け寺も栄えたが、天明(1781~)・元治(1864)の大火で焼失。
 明治期(1868~)に復興したが、寺域周辺が商業・繁華街化したため昭和48年(1973)に現在の地へ移転した。

 貞安上人は、天正3年(1575)、能登の西光寺に住 んでいたが、上杉謙信の穴水城攻めを逃れて、同4年に安土(近江)の円通寺へ移る。そこで、織田信長の帰依を受け、能登の西光寺にならって西光寺を建立し、浄土宗の布教で功績をあげ、信長から軍配団扇と朱印の感状を受けた。その扇と感状が当院に展示されている。

 本堂の裏(西側)にある祇園閣は、昭和3年(1928)に明治・大正期の財閥の大倉喜八郎が別邸として建てた「真葛荘」の一部で、喜八郎90歳の卒寿祝いに展望台として作ったものと云われている。設計は築地本願寺も手がけた伊藤忠太(1867-1954)と云われており、祇園祭りの鉾を模した高さ36メートルの鉄筋コンクリート造りの三層建、鉾先には金鶏が取り付けられている。最上階から市街が一望でき、涼しい風がまた心地好く、高台の氷室にいるようで真夏を忘れさせてくれた。五右衛門も「絶景かな・・・」と感嘆するだろうか。
 最上階には平和の鐘が架けられ、一層には阿弥陀像が安置されている。一層から三層への通路壁面には、中国・敦煌莫高窟に描かれている壁画を模写した壁画が描かれている。

 本尊は阿弥陀如来 坐像で、如来の着衣は通肩で、6丈(約3メートル)と大きい。鐘楼は桃山時代の建物で、北野天満宮から移築されたもので、島津家(宮崎県)が佐土原藩士の菩提を弔うために寄進したもので、室町時代の造られたものという。

 祇園閣背後の墓地には、織田信長、信忠父子碑の他、島津以久、画家の望月玉川・富岡鉄斎、さらに大盗賊の石川五右衛門などの墓がある。
 石川五右衛門の戒名は「融仙院良岳寿感禅定門」。五右衛門の墓石の角はなく、後世の人たちが「貴族、金持ちから大判・小判を奪って貧しい人々にばら撒いた」という五右衛門伝説にあやかりたいと、かけらを持ち去ったともいわれている。

 春や夏など季節によって「京の旅」関連で特別公開されることがあり、調べて訪ねるとよい。今回は7月から始った夏の特別公開で、ガイド付きでゆっくり取材できた。

 所在地:京都市東山区祇園町南側594-1(円山公園音楽堂の西側)。
 交通:市バス「祇園」下車徒歩10分。

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