♫ 私は若い頃に、在日の男性と結婚した夫婦と親交がありました。
在日の男性は差別されて育ったことで、ニホンの会社ではなく、外資系の会社に勤めていました。
奥さんは最初から両親の反対にあい、それでも貫いて、家族をあきらめさせて、めでたくゴールインしたそうです。
二人の間には、息子が生まれました。
在日の男性の話しです。
「自分が在日として育ち、差別されて悔しかった思い出が沢山あるので、将来は差別をしないような人間になろう。」と、自分の心にいつも誓っていたといいます。
ところが、彼はとても正直な人でした。
息子が生まれて、可愛がっているうちに、ふと、自分の心に差別的な考えが、浮かんできたそうです。
「息子が将来、アフリカンと結婚すると言ったら、僕は仰天して、反対すると思います。」
「日本人なら、別のアジア人なら、いいですが、アフリカンは、困ります。この差別の気持ちが自分にもあった事に自分自身が、驚いています。」
自分のかつての考えとは、思いもよらない、自分の心の変遷を彼はとても正直に語ってくれました。
そもそも、差別とは、いったいどこからくるのでしょうか?
「差別はいけない。」というものは、最近はずっと日本の中に生きてきました。
その差別というものは、表に出ると差別だと、私は思いました。
彼が自分の考えをもっていることは、これは差別感であって、単に嫌っているというものです。
人が人を嫌うことを、辞めるというのは、実は大変難しいのです。
もしかしたら、人を好きになるよりも、難しいのではないでしょうか?
嫌っている心、それを取り消したり、考えを変える人は、見たことがありません。
この夫婦の奥さんの両親は、娘の説得を受け入れただけで、差別感を娘の夫にまでは、及ぼす事を辞めたに過ぎないと思います。
長い時間をかけ、歴史をしり、そうして理解していかなければ、この差別感を変えることは、私は難しいと考えます。しかし、それは、絶対に出来ないことではないと思います。
犬の散歩をしている人をよく見かけます。
犬は飼い主に可愛がられていると、芝犬は別ですが。たいてい犬好きの私に愛想よく近寄ってきます。
犬を縛っておくだけで、心を通わせていない飼い主の犬は、表情も暗く、モクモクと歩いています。
犬を飼うということは、飼い主にもっと喜びを与えてくれるのに、もったいないことです。
私は犬を飼っていた、子供の頃を思い出しますが、私の親も飼っているだけでした。
犬を犬以上のものがあるということに、開眼することはありませんでした。
他を理解するのは、実は犬を飼うことで、ペットと遊べる人、やらせではなく、自由に遊ぶことが、出来る人はきっと、そういうペットの心が理解できるのではないでしょうか?
言葉は話せなくても、私達人間同志も、このようにして、理解でき、差別感から解放される時が、きっと来ると、私は楽観しています。
人間は自分はまともだと、皆思っています。しかし人種が違うと、オカシイと思う事だって多いのです。(ですから、お互いさまです。)
小さなことだと、私は思います。
嫌いって、ことから、差別感が生まれ。それが多くの人が感じると、差別へとなるのではないでしょうか?
嫌いでも、生き方を尊重することは、出来るはずです。それが、本当のお互い様ではないでしょうか?