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水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

その手をにぎりたい

2014年03月27日 | おすすめの本・CD

 元木青子は、社長に連れられて銀座の高級寿司店のカウンターに座っていた。24年間の人生で初の体験だ。

 ちなみにその倍以上生きている私めには、その経験はない。たとえば今日、部活のあと急遽銀座の高級寿司店に出かけ一人前握ってもらう機会を得たとして、その価値が分かるものだろうか。
 鮮度のいい魚なら、こどもの頃から普通に食べてきてるけど、たんにネタとシャリをあわせただけではない、「仕事のしてある」寿司というしろものを、おいしいと感じ取れるだろうか。 
 いや、おいしく感じるのは間違いない。ただ、二万円なり三万円なりを払って、それだけの価値があったと心から思えるほど楽しめるだろうか。自信ないなあ。
 見知らぬ町の居酒屋に一人で入れるくらいに大人(オヤジ)になってしまったが、銀座のお寿司やさんは、かりにお金に不自由がなくても敷居が高くて、気持ち的にも本気で味わえないかもしれないと思う。
 だから、24歳にして、初めて食べた「ちゃんとした」寿司の味が体と心にしみこんでしまい、退職して田舎に帰ろうとしていた決心を覆し、このお寿司をもう一回食べるために東京に残ろうとする青子の味覚が、自分にはうらやましく感じた。

 青子とは、柚木麻子『その手をにぎりたい』(小学館)の主人公の名だ。
 最初に出されたのはヅケだった。職人さんのすばやい動きに見とれる青子の目の前に、どうぞとヅケの握りが差し出される。職人さんの手のひらから直接とって食べるというお店だった。

 ちなみに私めが愛用する店では、そんなはしたないことはせず、小ぶりのお皿に載せられた二カンずつが、しずしずと近づいていて、そのお皿自体を自分で手元にもってくるシステムになっている。


  ~ それにしても、人の手から直に食べ物を貰うなんて、何年ぶりだろう。幼い頃、母の手のひらから受け取った手作りのおやつを思い出す。お焼きに揚げたてのドーナツ、さつまいもの天ぷら、そしてかんぴょうの海苔巻き。人から人に食べ物が渡る光景はなんと穏やかで幸福なのだろう。そこに確かな信頼関係がなければ成り立たない。育子の胸はほんのりと温まる。 ~


 寿司をとる際に一瞬触れた職人さんの手のひらが身震いするほど冷たい。こんな清潔な男の手に触れたことは今までないと青子は思う。


 ~ 鮨を口に運び、青子は思わず目を閉じる。経験したことのないドラマがロの中で起きている気がした。なんだろう、なんだろう――。ねっとりした質感の冷たいヅケを噛み切るこの心地良さ。酢の風味、硬く炊かれた米のくっきりとした甘み、ひんやりと醤油が芯まで染みこんだ鮪。それらがとろけて一体となり、喉から鼻に風味が抜け、体中に染みこんでいく。めまぐるしい心の動きに、青子は自分でも付いて行くことができず、茫然としてしまう。言葉もない、とはこのことだ。 ~


 この日以来、青子の心は「すし静」でいっぱいになった。東京に未練などないと思っていたのに、もう一度味わいたいという思いがふつふつとわいてくる。同時に、彼氏の川本君との今後をどうしようかとも考えていた。
 六本木の高給寿司店で彼におごってもらいながら、「すし静」と比較してしまう自分、川本くんの軟らかい手と、あの職人さんのストイックな手とを比較してしまう自分。
 青子が田舎に帰る直前、やっと結婚をほのめかした彼にお寿司をおごられながら、自分がしたいのはおごられることではなく、自分でお金を払って好きなものを食べることだと、青子は気づく。
 東京に残ろう。両親はちゃんと説得する。もう少し給料のいい会社に「とらばーゆ」しよう。
 三ヶ月に一度、いや半年に一度しか行けないかもしれないけど、自分で働いたお金で「すし静」に行こう、と青子は心を決める。
 時代は変わり始めている。女のあたしも、頑張ればあの店のカウンターに座れるくらい稼げる … と東京タワーを見上げた夜は、1983年の夏のことだった。

 これが第一章「ヅケ」。以下「ガリ」「イカ」「ウニ」 … というタイトルがならび、1984年、85年 … 1992年の青子が描かれていく。
 日本経済の、バブル前夜から、未曾有の好景気を迎え一気に坂をおりていく時期。
 カンチとリカの時代でもある。
 「バブル文学」というようなくくりが日本文学にあるとすれば、その枠に入れたい作品はいくつか思い浮かぶが、『その手を握りたい』は、白眉だと思う。直木賞候補になったら受賞できるじゃないかな。

 「食べること」とは「生きること」だ。
 青子が何をどう食べるかを描くことで、この時代に一人の若い女性がどんな風に生きたかがくっきりと浮かび上がる。
 不動産業界に転職した青子は、ばりばり働いた。給料はどんどん上がった。社内での地位もあがり、接待で「すし静」を使えるようにもなった。常連になった。
 ヅケを初めて食べたときに触れた手の持ち主への思いは高まっていった。しかしその一ノ瀬は、店で働いていた女の子と所帯をもつことになり、足は遠のいていった。
 自分のした仕事が、めぐりめぐって「すし静」の常連さんの命を縮める結果になったことは、青子の心の重いものにさせていた。


 ~ 「山葵、強すぎましたか?」
 彼の心配そうな顔が滲んでよく見えない。もう取り繕う余裕は残っていなかった。
 「いいえ、こんなに美味しいとなんだか悲しくなっちゃって。美味しいものほど、あっという間に終わっちゃうから」
 しばらくして、一ノ瀬さんがぼそぼそと言った。
 「本木さんの、そういう感性がとても好きです。僕がうまく言葉に出来ないことを、ちゃんと言葉にしてくれる。僕もカマトロを食べるとほんのり悲しくなるんです」
 好き、という言葉に体が震えた。もう三十歳だというのに、中学生のように心が暴れ出す。まるで神様であるかのように彼を見上げる。
 「私だけじゃないんですね……」
 「最高に幸せな時、ふっと悲しくなるのと似ていますよね」 ~


 久しぶりに訪れた「すし静」で、青子はいきなり「トロちょうだい」という。もうどう思われたっていい。
 青子の心を見透かすかにように、一ノ瀬は挑むように注文も聞かずに寿司を握って差し出す。


 ~ 自分が生き返っていくのがわかった。トロ、中トロ、ヅケ、鰤、鯛、烏賊……。食べ進めるうちに、次第にかつての気持ちが蘇ってくる。食べることが純粋に楽しくて、一ノ瀬さんの手元を見つめるのに夢中だったあの頃の。手のひらから鮨を受け取りながら、このカウンターで二人は時間を交換してきたんだ、と気付く。一ノ瀬さんの時間は鮨に、青子の時間は金に形を換え、互いを惜しみなく奪い合い、与え合った。この時が止まったような静かな銀座の夜、それぞれが大切な時間を交換する行為は、食事を超えた何かに思えた。これで十分ではないか。青子は重たい荷物を下ろした気分になる。目の前の手をにぎることはこの先、一生ないかもしれない。でも、こうして互いの時間を交換し合えば、それで十分、相手に関わったといえるのではないだろうか。自分が東京に残った理由がようやくわかった。仕事や恋愛に未練があったわけではない。誰かと強く関わりたかった。誰かの人生に足跡を残したかった。 ~


 食べるとはどういうことか。
 食べる、食べさせるは、まさに人と人とのまじわりの根源だ。
 「寿司文学」というくくりがあるなら、岡本かの子「鮨」と並ぶ代表と言える。

 人は何のために働くのか、何の為に恋をするのか。
 バブリーな時代の日本人の狂騒は、といっても実際にそれを直接享受していたのは一部の日本人ではあるが、でも日本全体がお祭りな感覚はたしかにあった。
 なんで、あんなにはしゃいでいたのか。
 当時はわからなくても、時をへて相対化できると、その意味もわかってくる。
 バカをやっていた若いころの自分を恥ずかしくも懐かしく思い返せるように、みんなではしゃいでいたあの時代を愛おしく思えるようになってくる。
 『ランチのあっこちゃん』は、ふつうにたのしい作品だった。
 なので、軽い気持ちで手にした作品だったが、こんなに読み応えのあるものとは思いもしなかった。おすすめです。
 食いしん坊な人って(自分もけっこうそうだと思うのだが)、生きる力のある人なんじゃないだろうか。

コメント
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