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水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

責任

2014年03月13日 | 教育に関すること

 「あの先生じゃなかったら、もっといい学校生活をすごせたのに」と生徒や保護者に思われるとしたら、それは教員として悲しいことではある。
 しかし、どの教員も、そう言われること、思われることを想定して働かないといけない。
 自分の知っているかぎり、立派な先生ほどそういう感覚をもっている。
 ただ、われわれは、どちらかというと、「おれのおかげであいつは成長した」とか「いい結果を残せた」とか考えがちな人種で、そういう楽天性も、この商売にはある意味必須の条件ではないかと思う。
 その一方で、自分のできることなど限られている、自分の力で児童生徒を変えようとするなんて畏れ多いことだとの感覚も必要だ。かりに指導を感謝されたにしても、自分はちょっとしたお手伝いができただけだと考えるべきだ。
 逆に、成長させられなかった、結果が出ないままにしてしまったことについては、こどものせいにするなどもってのほかで、これについては強く責任を感じなければならない。
 とは言っても、どう責任をとればいいのか。
 それは自分自身が精進することで、次に受け持つ児童生徒に対し、少しでもいい仕事ができるようにがんばるしかない。

 かりにAという生徒が、Mという教師にならったとする。
 その結果、国語ができるようにはならなかったと。
 Mに責任はあるけれど、損害賠償の対象にはならない。
 今の学校のシステムにおいては、A君は運が悪かったと思ってもらうしかない。
 勉強においては、この考え方で通用するかな。
 勉強なら、A君の勉強の仕方が悪かったからだと非を求めることもできるし。
 つまり、学習指導については、教師の未熟さは「損害賠償」の対象にはなりにくい。

 じゃ、学校生活の指導についてはどうだろう。
 クラス内の人間関係がうまくいってなくて、不登校になった生徒さんがいたとする。
 能力の高い教員が担当していて、クラス経営がうまくいっていれば、その生徒は不登校にならなかったのではないかという想定は可能だ。
 となると、その先生のせいで不利益を被ったのだから、慰謝料を払えという考え方は成立するだろうか。
 いじめがあって、教員の対応の稚拙さのせいで、いじめを受けた子が多大な被害を受けた例はどうか。
 これは現在、全国各地で問題になっているとおり、具体的な教師の責任の取り方が問題になってくる。
 では、大きな自然災害があったとき、その避難のさせ方の間違いで児童生徒の命が奪われる事態となったとき、教員の責任はどこまで問われるべきなのか。

 「大川小遺族が『明らかに人災』と提訴」という報道は、教員として他人事ではないなと感じたので、サンデル教授みたく考えてみようかと思った。
 大川小学校で問題になっているのは、なぜ避難が遅れたのかということだ。
 「空白の50分間」ともよばれる、校庭に居続けた時間の不可解さについては、検証委員会としては解明できないとしているようだ。
 でも冷静に考えて、教員の指示に問題があったことは言うまでもなく、でもそれは、指示をした先生個人の資質の問題に帰していいのかという疑問もおこる。
 こどもを校庭に集めて、そこで先生方が行ったのはどこに避難するかという議論だったという。
 延々と続く議論をみかねて、「先生とにかく山に逃げようよ」という子どももいた。
 そんななか、学年主任の先生が「間違った」方向性を出し、他の教員はしぶしぶ従わざるをえなかったという状況が想像される。
 今ある情報に基づいて、頭をふりしぼっただけなので、あくまでも想像にはすぎないが、どんな学校にも起こりうる、システムとしての問題や教員の資質の問題がそこにあると思われる。
 同業者として、あの学校の先生は何やってんだよ、と非難して終わりにはできないものがある。

 すいません、これ、中途半端な段階です。
 でも、教員志望の方とか読んでらっしゃったら、こういうことも少し考えてみてもいいかなと思ったので。

コメント
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