土曜は現代文が1コマだけ。「メタメッセージにたよった安易なコミュニケーションばかりしてると、意味の多重性とかに気が付かなくなっちゃうよ」という内田樹先生の文章での演習問題を行う。
~ わたしたちは学校教育やメディアを通じて「記号の読み方」を学ぶわけだが、それは要するに「オブジェ」の持つ多義性、カオス性を切り捨てて、標準的で一義的な読み方に一元化しようとする解釈の貧困化のプロセスでもあるわけなのだ。「覇権を握ったソシオレクト(注:社会的な解釈)」はこうして神話を通じてわたしたちの思考と経験を定型化してゆくのである。(『現代思想のパフォーマンス』) ~
選択肢のなかから一つを選ばせるセンター試験の小説など、まさにこれだろう。
内田先生のお言葉を借りるなら、「解釈の貧困化」を一生懸命やっているのが、センター対策の授業だ。
あまんじて、その批判は受け入れる。
自分だって、小説の読み方としてセンター方式がベストだとは思わない。
「センター試験形式で国語力を測れるか否か」という大論争が、都留文科大学の鶴田清司教授と、この私めとの間でセンセーショナルに繰り広げられたことがある。
鶴田先生も、もう覚えてらっしゃらないだろうが。雑誌論文とそれへの反論の投稿という形に論争だった。
しばらくしてから、ある研究会のとき、成蹊大学のトイレではじめて先生とお会いした。
手を洗いながら「先生、実は … 」「おお、あなたがあの … 」とご挨拶し、根本的に小説をセンターの問題で使うこと自体に問題はあるよねという点では気持ちが通じあったのだった。
ただしそのことと、試験として成立しているかどうかは別問題だ。
疑問や違和感はあるけれども、今の試験でも、受験生の学力を反映した結果になっているのは間違いない。
国語の授業では一つの読み方、一つの解釈をおしつけてはいけない、という考えは正しい。
しかし、おしつけられなかったならば、子どもたちは結局何も手にしない。
押しつけでもなければ作品を読まない。
芸術でもスポーツでも、一つの種目、分野、表現方法を、誰かの流儀でいいから一つ押しつけられてみる。
その経験をベースにして自分なりの何かを発見するなり、創造するなりすればいいだけのことだ。
ドレミファソラシドという音階を知り、それにもとづいて作られた音楽があることを経験したうえで、自分で好きな曲を書けばいい。
「貧困化」けっこう。
徹底的に「貧困な」読み方を教えて、センターの問題くらいは簡単に満点とってもらって、少しでも難しい大学に入ってもらい、そこで好きなように解釈してもらえばいい。
夕べ夜更かししてお弁当ではなかったので、食堂で麻婆丼を食す。
自分達でバンドを立ち上げて今度ミューズで演奏会を開くOBが来校して、少し話をする。
最初の集合で、「個人練たっぷりデーだから、新曲をしっかりさらっておいて」と指示し、一路所沢ミューズに向かう。
新人戦第二目の観戦だ。
相変わらず手堅いサウンドの不動岡さん、小泉先生色が随分でてきたと思える市立浦和さんの演奏に感心する。
最近がんばっているという噂の県立浦和さんは、噂どおりだった。しっかり楽器が鳴っている。もしくは成らそうとしている。技術的には本校のメンバーときわめて近いが、積極性を感じた。
慶應志木さんは、本校の半分以下の人数で、21人中15人が1年生だという。しかし全員が役割を果たしているうえ、音楽がある。
大宮高校さんは35人。ミューズで35人が配置されるとB部門のコンクールに見えるが、響いてきたサウンドはチョーA級だった。徳栄さんの「マゼラン」もさすがだと思ったが(カットはやや微妙)、大宮さんの最初の数秒で本日の最優秀を確信した。
自分たちが出た初日、そして二階席で聞いた今日の演奏。現状把握と今後どうしていくべきかを考えるうえで、きわめて貴重な今年の新人戦であった。
そうなると気持ちははやる。すぐにミューズを出て学校にもどり、楽譜の準備やら、月曜の授業の準備をする。
時折、予備校のサイトをチェックして、今日の問題がアップされてないか確認する。
お、やっと載った。プリントアウトして、帰りがけにドトールで解いてから帰宅しよう。