今朝、「あはれ」の現代語は「やばい」だという文章を読んで、「ちがうやろっ!」とつっこんだ国語教員は日本中に相当いたにちがいない。
天声人語子は言う。
~ 心なき身にもあはれは知られけり、とは西行の歌である。心なきことでは西行どころではない身ながら、勇を鼓して「あはれ」を知りに出かけた。 … まず、予習である。大野晋編『古典基礎語辞典』を開く。「もの」とは〈決まり、運命、動かしがたい事実〉などを意味する。「あはれ」は〈共感の眼差しで対象をみるときの人間の思い〉である。その思いの底には悲しさや哀憐がある。 … 美術館の石田佳也学芸部長は「もののあはれの共有の仕方や伝え方は時代とともに変わる」と語る。石田さんは昨夏、花火を見る若者が「やばい」と連呼するのを聞いた。感動詞あはれの、これが現代版である。(朝日新聞「天声人語」) ~
『古典基礎語辞典』を繙いたのはえらい。でも、きっと経費で買ったんだろね。
国語の教員は、自分で6825円で買って手元においていおくのだ。
ひいて意味を調べた以上、それをちゃんと理解して使わないと。
たしかに若者たちはいろんなシーンで「やばい、やばい」言う。
たのしいとき、おもしろいとき、おどろいたとき、おいしいとき、かっこいいものをみたとき。
源氏物語の登場人物も、いろんなシーンで「あはれ」に感じる。口にする。
「やばい」って訳すとはまりそうなところは確かにある。
一つの言葉にいろんな情感が表される点では似ているのだが、やはり内実は異なる。
しみじみとした情感に満たされたとき、若者は、少なくともおれの知っている若い人たちは、「やばい」とは言ってない。
花火を見た若者が発した「やばい」は、おそらく天空にひろがるきらびやかな色と光の絵にむけて発したものだ。
「あはれ」を使うなら、その花火の消え去ったあとだろう。
空に広がった花火をみて「やばい、やばい」と連呼した若者も、花火大会の終わったあとの河原を二人で歩きながら、しみじみと「来年もいっしょに見れるといいね」と片方が語りかけ、「見れるに決まってんじゃん」と言いながら「来年、このまま故郷にいるのかな」とか「去年いっしょに見たあいつはいなくなっちゃったなあ」とか思いながら「もののあはれ」を感じている。
その漠然としたせつなさ、やりきれなさを、おそらく彼らは「やばい」とは言わない。
天声人語を書き写して日本語の勉強をしようとする高校生っているのだろうか。最近は「天声人語書き写し帳」という本もあるけど。
たとえばお年寄りが手を動かす運動のための書き写しならいいかもしれないが、「よい子」は使わない方がいいんじゃないかな。