水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

11月10日

2012年11月10日 | 学年だよりなど

 学年だより「調教作業」

 たとえば小説家という限られた(選ばれたと言うべきか)生き方ができる人は、おそらく神から命じられた限られた方々だけだ。そのような限定的な才能を万人がもっているとは普通考えられない。たとえばプレミアでプレーするサッカー選手しかり、メジャーリーガーしかり。
 作家の村上春樹氏は、「小説家にとって最も重要な資質は何ですか」という質問に、「言うまでもなく才能」だと答えている。「文学的才能がまったくなければ、どれだけ熱心に努力しても小説家にはなれない」と。
 そして才能の次に大事なのは何かと問われ、氏は「集中力」そして「持続力」だと答える。


 ~ 自分の持っている限られた才能を、必要な一点に集約して注ぎ込める能力。これがなければ、大事なことは何も達成できない。そしてこの力を有効に用いれば、才能の不足や偏在をある程度補うことができる。
  … 集中力の次に必要なものは持続力だ。一日に三時間か四時間、意識を集中して執筆できたとしても、一週間続けたら疲れ果ててしまいましたというのでは、長い作品は書けない。(村上春樹『走ることについて語るときに僕が語ること』文春文庫) ~


 残念ながら今年の受賞はならなかったものの、ここ数年つねにノーベル文学賞の最有力候補と言われる村上氏。近年の作品『1Q84』は、数百万部を越えるベストセラーとなっている。
 そんな村上氏だが、「自分には才能が不足している」と言う。
 こちらからすれば「うそぉ!」というしかないが、あくまでもご自身の感覚としてはそうであり、その才能の不足分を「集中力」と「持続力」とで補ってきたと言う。
 「才能」はもってうまれたものだが、「集中力」と「持続力」については、いくらでも向上させていくことができると氏は考えているからだ。


 ~ このような能力(集中力と持続力)はありがたいことに才能の場合とは違って、トレーニングによって後天的に獲得し、その資質を向上させていくことができる。毎日机の前に座り、意識を一点に注ぎ込む訓練を続けていれば、集中力と持続力は自然に身についてくる。これは前に書いた筋肉の調教作業に似ている。日々休まずに書き続け、意識を集中して仕事をすることが、自分という人間にとって必要なことなのだという情報を身体システムに継続して送り込み、しっかりと覚え込ませるわけだ。そして少しずつその限界値を押し上げていく。気づかれない程度にわずかずつ、その目盛りをこっそりと移動させていく。これは日々ジョギングを続けることによって、筋肉を強化し、ランナーとしての体型を作り上げていくのと同じ種類の作業である。刺激し、持続する。刺激し、持続する。この作業にはもちろん我慢が必要である。しかし、それだけの見返りはある。 ~


 集中力や持続力は、筋力を鍛えるのと同様に身体的かつ運動的努力で身につけられるのだ。

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質の高い教育

2012年11月10日 | 日々のあれこれ

 田中文科大臣の大学新設不認可問題を、すべてを彼女一人の資質のせいにして収束させようとしてる空気もないではないが、真紀子さんが提起した問題は八理くらいあると思うし、彼女の強引なあの提起の仕方でなかったら、今後も誰も何もしなかった問題であることだけは間違いない。
 「だいたい大学が多すぎるのよ、こんなに子供が減ってるのに、いまさら数ばっか増やしてどうするの」って真紀子さんが言ったとき、そうだそうだと思った一般人は多いはずだ。
 教室の後ろに貼ってある大学難易度一覧は、一番下の枠、つまり合格偏差値が実質はない大学枠がたくさんある。
 だからその大学に価値はないということにはならないが、積極的にその大学に教え子を入れたいかと言われれば二の足をふむし、そういう希望を口にする生徒さんがいたなら、よく考えて決断しなさいと言うだろう。
 それでも、行くといえばその子に決断だからしょうがないし、ぎゃくに誰もが認める難関大学に行ったから必ず成長できると決まったわけでもない。
 そもそも「質の高い教育」って何?
 「またあのおばちゃんにも困ったもんだよ」と嘆いているお役人も、文科大臣一人のせいにしている官邸も、「質の高い教育」を受けたはずの人々だ。
 そうか、文科大臣自身も自分は「レベルの高い」大学で「質の高い教育」を受けたと考えているだろう。その結果がこれか。
 なるほど、教育全体を見直すべき時期なのかもしれない。
 ただ、大学の数が多いから学生の質が低くなったという批判はあたらない。
 大学に入る前の段階で、学力の低い子は低いのであり、その状態で入れる大学が多くなったというだけのことだ。
 いま、四則計算やらアルファベットの書き方まで面倒を見てくれる大学が存在する。
 だから、かりに何人かがそうやって勉強してくれれば、「大学生になれたのだから、今まで勉強なるものをした経験ないけど、ちょっとやってみようか」と心を入れ替えてくれるなら、大学はあっていい。
 問題は、やはり「どうせうちにはたいした学生は来ないからね」とあきらめて、何年か高給をもらって去って行く先生方のほうではないか。
 たいした研究者でもないのに、かといって教育面でもがんばっているわけではない大学の先生がけっこういらっしゃるように見えてしまうのが正直なところだ。(えっ? いや別に疲れててトゲトゲしてるわけじゃないですよ)

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