何のために勉強するのかに答えがないのと同じくらいに、何のために働くかにも答えはない。
人が人であるからとしか答えられないのだ。
内田樹先生のブログに書いてあった。
~ 人間だけが労働する。動物は当面の生存に必要な以上のものをその環境から取り出して作り置きをしたり、それを交換したりしない。ライオンはお腹がいっぱいになったら昼寝をする。横をトムソンガゼルの群れが通りかかっても、「この機会に二三頭、取り置きしておこうか」などとは考えない。「労働」とは生物学的に必要である以上のものを環境から取り出す活動のことであり、そういう余計なことをするのは人間だけである。 ~
この具体例には、ものすごく納得できませんか。
~ どうして人間だけがそんなことをするのか。それは「贈与する」ためである。ほかに理由は見当たらない。もし、腹一杯のライオンがそれでも獲物を狩ったとしたら、その獲物は誰かに(仲間のライオンかハイエナか禿鷲かあるいは地中の微生物か)「贈り物」として与える以外には用途がない。 ~
なるほどねえ。
~ 「働く」ことの本質は「贈与すること」にあり、それは「親族を形成する」とか「言語を用いる」と同レベルの類的宿命であり、人間の人間性を形成する根源的な営みである。 ~
だから「どうして働くの?」という問いは、「人間てなぜ人間なのですか」と問うのと同じになってしまうと先生は言う。
では、なぜこのような問い(「なぜ働くの?」)が、今あちこちで発せられているのか。
~ それは「働くことは自己利益を増大させるためである」という歪んだ労働観がひろく定着したせいである。働くと、その程度に応じて、権力や威信や財貨や情報や文化資本が獲得される。だから働け、というのが近代固有の労働観である。 ~
「先生、なぜ働かないとだめなんですか?」
「なんでって、はたらいてお金が手に入れば、いい暮らしができるじゃないか」
と、われわれは答えたりするけど、それは近代的なものの考え方だというのだ。
この考え方だと「うちはお金に困らないので、就職しなくていいですか?」
と聞かれたら、「ああ、別に … 。どうぞ」というしかなくなる。
教育者たるもの、それでいいのか!
仕事というのは、お金のためだけにするものではないと言えてはじめて、人にものを教えられる存在だ。
なぜ勉強をしないといけないのか。
なぜ部活をやるのか。
本質は同じではないかと思う。
それをやることで、自分にどんな利益があるのかを第一に考えたなら、理論的に納得できる理由を見つけるのは難しい。
部活など、その最たるもので、たくさんの人が莫大な資源をつぎこんでいるけれど、そこから何か具体的な利益がうまれるのかと言われれば、形あるものは何も生まれないとしかいいようがない。
努力の価値、頑張れる力、協力する喜び、ひとつのものを造りあげる感動、人としての成長 … 。
いろんな言葉で部活の意義は語られるが、定量的な何か、数値におきかえられるような価値、つまり近代的価値、資本主義的価値は生まれない。
資本主義的価値観であらゆるものごとをとらえる人にとっては、部活など非合理で、不条理で、無価値なものに見えてしまうのは当然だ。
ここ数年、最近そういう感覚の生徒さんに接する機会が増え、さらに、そういう考え方をされる親御さんと出会うことが多くなった。
つまりわれわれ世代の問題だ。
根本のところで価値観が異なる場合、心を通じ合えるのはなかなか難しいものだ。
わかってもらえないだろうなあと思いながらも、旧来の活動をしていかねばならないのである。
人が人であるからとしか答えられないのだ。
内田樹先生のブログに書いてあった。
~ 人間だけが労働する。動物は当面の生存に必要な以上のものをその環境から取り出して作り置きをしたり、それを交換したりしない。ライオンはお腹がいっぱいになったら昼寝をする。横をトムソンガゼルの群れが通りかかっても、「この機会に二三頭、取り置きしておこうか」などとは考えない。「労働」とは生物学的に必要である以上のものを環境から取り出す活動のことであり、そういう余計なことをするのは人間だけである。 ~
この具体例には、ものすごく納得できませんか。
~ どうして人間だけがそんなことをするのか。それは「贈与する」ためである。ほかに理由は見当たらない。もし、腹一杯のライオンがそれでも獲物を狩ったとしたら、その獲物は誰かに(仲間のライオンかハイエナか禿鷲かあるいは地中の微生物か)「贈り物」として与える以外には用途がない。 ~
なるほどねえ。
~ 「働く」ことの本質は「贈与すること」にあり、それは「親族を形成する」とか「言語を用いる」と同レベルの類的宿命であり、人間の人間性を形成する根源的な営みである。 ~
だから「どうして働くの?」という問いは、「人間てなぜ人間なのですか」と問うのと同じになってしまうと先生は言う。
では、なぜこのような問い(「なぜ働くの?」)が、今あちこちで発せられているのか。
~ それは「働くことは自己利益を増大させるためである」という歪んだ労働観がひろく定着したせいである。働くと、その程度に応じて、権力や威信や財貨や情報や文化資本が獲得される。だから働け、というのが近代固有の労働観である。 ~
「先生、なぜ働かないとだめなんですか?」
「なんでって、はたらいてお金が手に入れば、いい暮らしができるじゃないか」
と、われわれは答えたりするけど、それは近代的なものの考え方だというのだ。
この考え方だと「うちはお金に困らないので、就職しなくていいですか?」
と聞かれたら、「ああ、別に … 。どうぞ」というしかなくなる。
教育者たるもの、それでいいのか!
仕事というのは、お金のためだけにするものではないと言えてはじめて、人にものを教えられる存在だ。
なぜ勉強をしないといけないのか。
なぜ部活をやるのか。
本質は同じではないかと思う。
それをやることで、自分にどんな利益があるのかを第一に考えたなら、理論的に納得できる理由を見つけるのは難しい。
部活など、その最たるもので、たくさんの人が莫大な資源をつぎこんでいるけれど、そこから何か具体的な利益がうまれるのかと言われれば、形あるものは何も生まれないとしかいいようがない。
努力の価値、頑張れる力、協力する喜び、ひとつのものを造りあげる感動、人としての成長 … 。
いろんな言葉で部活の意義は語られるが、定量的な何か、数値におきかえられるような価値、つまり近代的価値、資本主義的価値は生まれない。
資本主義的価値観であらゆるものごとをとらえる人にとっては、部活など非合理で、不条理で、無価値なものに見えてしまうのは当然だ。
ここ数年、最近そういう感覚の生徒さんに接する機会が増え、さらに、そういう考え方をされる親御さんと出会うことが多くなった。
つまりわれわれ世代の問題だ。
根本のところで価値観が異なる場合、心を通じ合えるのはなかなか難しいものだ。
わかってもらえないだろうなあと思いながらも、旧来の活動をしていかねばならないのである。