日本の話か中国のだったかさだかではないが、こんな話がある。
ある学者が、旅先で数学の天才的能力をもつ少年と出会う。
その子に都にでて学問を積むように勧めるが、経済状況からそれは不可能だということだった。
で、どこにいても学問はできるからがんばれと励まし、その土地を去った。
何十年か後、再びその地を訪れた年老いた学者のもとに、一人の中年?(このへんは適当に書いてます)が尋ねてくる。
ずいぶん昔に先生にはげましてもらい、ずっと独学をし続けてきたと言う話をきき、あの時の少年か、と思い出す。
「先生、ぜひ見ていただきたいものがあります」とうれしそうに差し出された紙を見て、その学者は天を仰ぐしかなかった。
その紙には、彼が独自で発見した、二次方程式の解法が書かれていたのだ。
たしかに独学で二次方程式の解法を発見したその才能は大変なものだ。
しかし、都に出て学校で学んでいれば、そんなことはすぐに教えてもらえる。
そして、その才能をもっと高い次元で発揮することができる。
独学というのは、かくも残酷なものであるというお話で、呉智英先生の本でこの逸話を読んだ。
昨日、新宿で映画「イントゥザワイルド」の観ながら、終わりの方でふとこの話が思い浮かんだ。
主人公の青年は頭がよく、優秀な成績で大学を卒業したが、とつぜん誰にも告げずに旅に出る。
自分の車を捨て、お金を捨て、ヒッチハイクと野宿をしながら旅を続け、途中さまざまな人ととのふれあいを経て、アラスカの荒野にたどりつく。
そして、大自然と格闘しながら生き、死ぬ。
彼は日記をつけつづける。何を食べたか、天候、生きていくための生活の知恵、そしてその中で思ったこと、考えたこと。
自然との厳しい格闘を通して得られた言葉が綴られていく。
巨大なシカ(だったかな?)を射止めるが、解体していく途中で蝿にたかられウジがわいてしまった後の絶望から、人間はなんと弱いのだとさとってみたり、幸せは、それを誰かと分かち合えたときにもっと幸せになるという言葉にたどりついて涙を流したりするのだが … 。
彼のものすごい経験からたどりついたその言葉は、たしかに尊いものにちがいない。
でも、そこまでたいそうな手順をふまなくてもいいんじゃないかと、非常に覚めた目でスクリーンを観ていた自分がいた(お、自己客観化表現)のだ。
両親にだまって家をで、身分証を捨て、車を捨て、お金も燃やして歩みはじめる姿は、かっこいい。
若者がそういうものに憧れる気持ちはわかる。
究極の「自分探しの旅」である。
でも、と思ってしまうのだ。旅に出ないといけないだろうか。
文明に背を向けなければならないのだろうか。
自然界の弱肉強食を体験しないといけないのだろうか。
それが「人」としての生き方なのか。
たまたま彼は旅に出た。自然に立ち向かった。
ひきこもりと呼ばれる若者がいる。
俗世間と自分との間に壁をつくり、自分の世界のみで生きようとする根本的な姿勢において、この映画の主人公とひきこもらーとは、なんら変わらないのではないか。そんなことを思った。
旅に出なくても自分探しはできる。
できれば、自分探しなどせずに、目の前の娑婆を生きてみる方が、自分という者が何者であるかはわかる。
それは、まちがいない。
でも、それは今だから言えることで、当事者には通用しないのかもしれない。
この映画を絶賛する多くの評論家は、そういう意味では若者の感性を持ち続けているのかもしれない。
うらやましい気もするが、今さらガキにもどれないなとも思う。
ある学者が、旅先で数学の天才的能力をもつ少年と出会う。
その子に都にでて学問を積むように勧めるが、経済状況からそれは不可能だということだった。
で、どこにいても学問はできるからがんばれと励まし、その土地を去った。
何十年か後、再びその地を訪れた年老いた学者のもとに、一人の中年?(このへんは適当に書いてます)が尋ねてくる。
ずいぶん昔に先生にはげましてもらい、ずっと独学をし続けてきたと言う話をきき、あの時の少年か、と思い出す。
「先生、ぜひ見ていただきたいものがあります」とうれしそうに差し出された紙を見て、その学者は天を仰ぐしかなかった。
その紙には、彼が独自で発見した、二次方程式の解法が書かれていたのだ。
たしかに独学で二次方程式の解法を発見したその才能は大変なものだ。
しかし、都に出て学校で学んでいれば、そんなことはすぐに教えてもらえる。
そして、その才能をもっと高い次元で発揮することができる。
独学というのは、かくも残酷なものであるというお話で、呉智英先生の本でこの逸話を読んだ。
昨日、新宿で映画「イントゥザワイルド」の観ながら、終わりの方でふとこの話が思い浮かんだ。
主人公の青年は頭がよく、優秀な成績で大学を卒業したが、とつぜん誰にも告げずに旅に出る。
自分の車を捨て、お金を捨て、ヒッチハイクと野宿をしながら旅を続け、途中さまざまな人ととのふれあいを経て、アラスカの荒野にたどりつく。
そして、大自然と格闘しながら生き、死ぬ。
彼は日記をつけつづける。何を食べたか、天候、生きていくための生活の知恵、そしてその中で思ったこと、考えたこと。
自然との厳しい格闘を通して得られた言葉が綴られていく。
巨大なシカ(だったかな?)を射止めるが、解体していく途中で蝿にたかられウジがわいてしまった後の絶望から、人間はなんと弱いのだとさとってみたり、幸せは、それを誰かと分かち合えたときにもっと幸せになるという言葉にたどりついて涙を流したりするのだが … 。
彼のものすごい経験からたどりついたその言葉は、たしかに尊いものにちがいない。
でも、そこまでたいそうな手順をふまなくてもいいんじゃないかと、非常に覚めた目でスクリーンを観ていた自分がいた(お、自己客観化表現)のだ。
両親にだまって家をで、身分証を捨て、車を捨て、お金も燃やして歩みはじめる姿は、かっこいい。
若者がそういうものに憧れる気持ちはわかる。
究極の「自分探しの旅」である。
でも、と思ってしまうのだ。旅に出ないといけないだろうか。
文明に背を向けなければならないのだろうか。
自然界の弱肉強食を体験しないといけないのだろうか。
それが「人」としての生き方なのか。
たまたま彼は旅に出た。自然に立ち向かった。
ひきこもりと呼ばれる若者がいる。
俗世間と自分との間に壁をつくり、自分の世界のみで生きようとする根本的な姿勢において、この映画の主人公とひきこもらーとは、なんら変わらないのではないか。そんなことを思った。
旅に出なくても自分探しはできる。
できれば、自分探しなどせずに、目の前の娑婆を生きてみる方が、自分という者が何者であるかはわかる。
それは、まちがいない。
でも、それは今だから言えることで、当事者には通用しないのかもしれない。
この映画を絶賛する多くの評論家は、そういう意味では若者の感性を持ち続けているのかもしれない。
うらやましい気もするが、今さらガキにもどれないなとも思う。