Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

無人島

2013-10-15 13:31:23 | 日記

★ 自我に先立つ世界、自我がない世界。ドゥルーズはそれを「無人島」といういくぶん不思議な形象を通じて論じている。しかも、極めて早い段階において、である。1950年に書かれ、長きにわたって未発表のままであった草稿「無人島の原因と理由」がそのアイディアを伝えている。(…)或る雑誌の「無人島」特集号に掲載されるはずであったが、いかなる理由からか、掲載にはいたらなかった。

★ 「無人島の原因と理由」は不思議なテクストである。陸島と洋島という地理学上の区分から始まる論述は、「或る島が無人であるということは、我々にとって哲学的には正常なことと思われて然るべきなのだ」というきわめて難解な、どうやら哲学的テーゼらしい何かを経て、無人島なる形象の本質に、ドゥルーズ独自の視点で迫る。

★ “無人島文学”とでも言うべき、ジャン・ジロドゥ『シュザンヌと太平洋』およびダニエル・デフォー『ロビンソン・クルーソー』の名が挙げられて、前者は肯定的に、後者は否定的に論じられ、そこから一種の神話批判のテーマが掲げられて、論述は幕を閉じる。単行本で7頁ほどの短文であるが、以上から分かるように、話題は、地理学、哲学、文学、神話学など、多岐に及んでおり、また論述も高度に圧縮されているため、その全貌を紹介することはできない。ここでは、あくまでも超越論的経験論の序章としてこのテクストを紹介するに留める。

★ (…)その後『意味の論理学』の補遺として収録された「ミシェル・トゥルニエと他者のない世界」で、ドゥルーズはこの無人島の逆説をより論理的に解説している。これはミシェル・トゥルニエの小説『フライデーあるいは太平洋の冥界』を論じた書評論文だが、トゥルニエの小説自体がデフォーの『ロビンソン・クルーソー』に取材して書かれたもので、無人島に漂着したロビンソンを或る種の哲学的な目線で追う物語になっている。「他者」という論点からこの小説を読み解いたドゥルーズの論考が「無人島の原因と理由」に通底する主題をもっていることは間違いない。

★ 自我があって外界のものを対象化する作用を獲得するのではなく、対象化作用の獲得によって初めて自我が発生する。したがって、他者は知覚領域における対象ではないばかりではなく、私を知覚する主体でもない。知覚する主体/知覚される客体という構図そのものが他者によって成立するものだからである。他者がいなければ自我もない、という逆説。他者がもたらす最も根本的な効果とは「私の意識とその対象の区別」だということになるだろう。「この区別は、実際には他者の構造から帰結する」。この命題はもちろん、その反対命題を伴う――「他者が不在だと、意識とその対象はもはや一つでしかない」

<國分功一郎『ドゥルーズの哲学原理』(岩波現代全書001―2013)>

* 「無人島の原因と理由」の翻訳は、ドゥルーズ『無人島 1953-1968』(河出書房新社2003)の最初に収録されている。


(追記・感想; ”日本”というのは、やはり一種の無人島なのだろうか?)






“社会的なもの”がない社会

2013-10-14 12:13:15 | 日記

★ 「医学は社会科学であり、さらに政治とは広義の医学に他ならない」――これは、細胞病理学の確立者として名高いドイツのR.フイルヒョウが1848年の革命の最中に、コレラやチフスの犠牲者が貧困層を集中的に襲っている事実を前にして説いた言葉である。

★ フイルヒョウの言う「社会科学」は、価値自由という原則を何らかの形で意識しなければならない、私の見知っているそれとは違って、明確な価値を理念として目指している。それは、どこか伸びやかで、人々の苦難や苦境を身近に見つつも、いや身近で見ているからこそ、力強く希望を与えるものに見えた。

★ 無論、フーコーなどを読みかじってしまった私としては、フイルヒョウの言う「社会科学」とその医学との結びつきについて、一定の距離を保ち続けないわけにはいかなかったが、それでも、現在の社会科学がフイルヒョウの説いたそれとは異なるものに変容していったその道筋を、自分の目で確かめなければならないと思った。

★ そのためには、「社会的なもの」に関する「社会学的忘却」とは何であり、それが何を、どのように忘却させたのかに関する歴史的な考察が必要だろうと私はかねがね思ってきた。本書ではそれを試みたつもりである。

★ 他方、この20年間で、政治的な言葉としての「社会」が、日本で急速に減衰していることについては、そのことの是非のみならず、それとは別に、社会学にいる人間として、それがなぜなのかを自分なりに明らかにしなければならないと思った。

★ 本書を執筆しながら、私は、「social」や「sozial」という西洋語について自分は何も理解していないし、今後も理解できないのではないか、あるいは、この言葉をたとえば「社会的」という日本語に変換することで、自分は大変な間違いをしているのではないか、という気持ちに何度かとらわれた。「社会的」という言葉は、私にとってますます不透明になり、この日本語を用いて言われていることのすべてが意味不明に思え、また逆に、ここで私が日本語で書いていることも誰にも伝わらないのではないかと思った。

★ 翻訳者の使命は、外国語によって自国語を激しく揺さぶることである、とベンヤミンは言った。私がろくな翻訳者でないことは端から承知だが、異なる言語の間を行ったり来たりすることで生じる揺さぶりとは、ひょっとしたらこういうことなのかもしれないと思う瞬間もあった。

<市野川容孝『社会』(岩波・思考のフロンティア2006)あとがき>






人間力!(or 人間失格?)

2013-10-12 17:46:17 | 日記

<国公立大入試 2次の学力試験廃止 人物評価重視に> 毎日新聞 10月11日(金)7時1分配信

 政府の教育再生実行会議(座長、鎌田薫・早稲田大総長)が、国公立大入試の2次試験から「1点刻みで採点する教科型ペーパー試験」を原則廃止する方向で検討することが分かった。同会議の大学入試改革原案では、1次試験で大学入試センター試験を基にした新テストを創設。結果を点数グループでランク分けして学力水準の目安とする考えだ。2次試験からペーパー試験を廃し、面接など「人物評価」を重視することで、各大学に抜本的な入試改革を強く促す狙いがある。実行する大学には補助金などで財政支援する方針だ。

 同会議のメンバーである下村博文文部科学相が、毎日新聞の単独インタビューで明らかにした。

 同会議は「知識偏重」と批判される現在の入試を見直し、センター試験を衣替えした複数回受験可能な新しい大学入学試験と、高校在学中に基礎学力を測る到達度試験の二つの新テストを創設し、大規模な教育改革を進めようとしている。11日の会合から、本格的な議論に入る。

 下村文科相は「学力一辺倒の一発勝負、1点差勝負の試験を変える時だ」とし、新テスト創設の必要性を強調。さらに、大学ごとに実施する2次試験について「大学の判断だが(同会議では)2回もペーパーテストをしないで済むよう考えたい」「暗記・記憶中心の入試を2回も課す必要はない」と述べた。

 私立大も新テストを活用するのであれば、同様の対応を求める方針だ。

 同会議の改革原案では、各大学がアドミッションポリシー(入学者受け入れ方針)に基づき多面的・総合的に判断する入試を行うよう求めている。だが、面接や論文、課外活動の評価を重視する新しい2次試験では、従来のペーパー試験に比べ、人手など膨大なコストが発生する。下村文科相は「改革を進める大学には、補助金などでバックアップしたい」と述べ、国が費用面で支援する考えを示した。【福田隆、三木陽介】
(以上引用)


國分功一郎ツイッター;

★ 五十嵐泰正@yas_igarashi
はいはい、人間力、人間力。次に言い出すことは「人間力のない大学教員には人物評価なんてできないから、経営者を高等教育の現場に」でしょ。|<国公立大入試>2次の学力試験廃止 人物評価重視に(毎日新聞) - Y!ニュース http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20131011-0000014-mai-life…
Retweeted by 國分功一郎  

★ 國分功一郎@lethal_notion
未来の大学って、語学力も計算力も読解力もないけど、「人間力」だけあるやつとかが入ってくるのかなぁ。嫌だなあ。それってドラクエでいうとどのキャラに相当するわけ?

★ 國分功一郎@lethal_notion
就活の面接で、「私は自分の人間力に自信があります」とか言うやつが出てくるのかなあ。まぁ、こんなのは、人間中心主義的だから問題外だ。

★ 國分功一郎@lethal_notion
「人間力」を測る入試としては、受験生を山に閉じ込めて、一週間後に体重の減りが少ない奴から順に合格というのがいいのではないか。もちろん、どんな手段を使っても良いことにする。

★ 國分功一郎@lethal_notion
人間力とかって、どういう人達がどういう圧力を感じて言い始めたことなのかイマイチよく分からない。フレキシブルでクリエイティブな人材ってのは、グローバル化での使い捨て労働力を作るためだったのだろうが、人間力がある労働力はいったい何の役にたつのか?

★ 江川純一@pettazzoniano
僕には「国の政策や会社のやり方に逆らわないこと=人間力」のようにみえます。
Retweeted by 國分功一郎

★ 國分功一郎@lethal_notion
009の映画に、死体から作った兵士というのが出てくるけど、ああいうのを作りたいのかな。何にも逆らわず、何も考えず、そして、何も知らない、そういう若い人間群。

★ 國分功一郎@lethal_notion
社会が若者に「何も知らなくていいよ」と言い出すというのは本当に恐ろしいことだ。それは、女性を従属的地位にとどめておくために教育を受けさせなかったのと同じだ。

★ 國分功一郎@lethal_notion
ただですね、ペーパーテストだけじゃなくて、口頭試験を導入するのはいいと思いますよ。面接じゃなくて、口頭試験ね。「この命題をいまここで証明しなさい」とか「誰々の何々論の骨子をいまここで説明せよ」とかそういうの。俺も自分の授業で導入したいと思ってるが、いかんせん、人数が多すぎるので。

★ 千葉雅也 Masaya CHIBA@masayachiba
平常点評価の拡大ほど恐ろしいものない、とドゥルーズは「管理社会について」のなかで言っていますね。逃げ場がなくなるし、基準がどんどんぼかされて恣意になるからです。万事の「生涯教育化」は、旧式の監獄・軍隊・学校よりも悲惨であると
Retweeted by 國分功一郎

★ 森田 真生@orionis23
大学が面接で「人物評価」を重視し出すとなると、いよいよ「株式会社」と何が違うのかがわからなくなってくる。既存の大学教員に「人物」を「評価」される程度の人材しか集まらないのは、大学としてマズいのではないか。http://mainichi.jp/feature/exam/nws/20131011k0000m040148000c.html…
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★ 千葉雅也 Masaya CHIBA@masayachiba
ところで、大きな問いに対して論述するフランスなどの試験でも問われているのは、大きな問いを複数の小さな問いに分析する力→複数の小さな問いに対応する知識問題を想定する力(文脈力)→それらの問題と解答を総合して論述する文章力、ですよね。
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★ 長門@nagat_o
ペーパーテストが駄目でも人間力高ければ合格ってことは必死に勉強した奴より奥井雅美のベストアルバムとか聴いてる奴の方が有利ってことでしょ?? そんなのズルくね?
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★ KAMEYAMA Taichi@mt_tortoise
「面接を重視」することで、たとえば発達障害を持つ受験者などは圧倒的に不利になる。へたすると違法になる懸念もあるんだけど、そこんとこどう考えてる?/国公立大入試:2次の学力試験廃止 人物評価重視に http://mainichi.jp/feature/exam/nws/20131011k0000m040148000c.html…
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★ egamiday@egamiday
"学力"を勝手に矮小化して否定するみたいになってないかな / “国公立大入試:2次の学力試験廃止 人物評価重視に- 毎日jp(毎日新聞)” http://htn.to/y4KfML
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★ 國分功一郎@lethal_notion
つまらなくなんかない、大切なことだと思います。@t_kawase つまらない原則論を言うけど、一点刻みの試験の優れているところは、何よりも公平であるところ。人格や人間性なんていう曖昧な基準が入り込む余地がないところ。一芸入試やAO入試でそれまで以上のいい成果がでた、とか寡聞にして

★ 山口二郎@260yamaguchi
<国公立大入試>2次の学力試験廃止 人物評価重視に http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20131011-0000014-mai-life…
総理、副総理をはじめ試験勉強を真面目にした経験を持たない人間が政治の指導者となっている。言語や歴史の常識をわきまえるうえで、試験勉強は不可欠。
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★ 佐々木中@『踊れわれわれの夜を…』刊行@AtaruSasaki
このような反知性主義は悪。技芸一般の習得の軽視にも繋がる。努力もなく人柄だけで楽器や料理や手術やスポーツが上手くなるか?ニーチェいわく、「愛も学ばれなくてはならない!」<国公立大入試>2次の学力試験廃止 人物評価重視に(毎日新聞)
Retweeted by 國分功一郎

★ kumatarouguma@kumatarouguma
うちの大学はかなり処理能力よりであることは認めるが国公立の二次試験で、問題の出来不出来はともあれ、センターの二番煎じなんてやってないし、数学や国語や社会の論述は、思考の組み立て方の多面性や論理性をみているわけで、それは一番の「人間力」なんじゃないの(あくまで理念的には)
Retweeted by 國分功一郎

★ 國分功一郎@lethal_notion
国公立大の二次試験におけるペーパーテスト廃止のニュース。猛烈に皆が反応している。いわゆる学力の重要性を多くの人がキチンと認識していることを知り、非常に頼もしく思った。ツイッター世論、捨てたものではない。

★ 國分功一郎@lethal_notion
いや、「変わるようです」ではない。変わらせませんよ(笑)@HuffPostJapan: 【教育】大学入試の2次試験が、人物評価重視に変わるようです。素案によれば、面接や論文のほかボランティアなどの活動歴を通じて総合的に評価するようです http://huff.to/19sev4w

★ 國分功一郎@lethal_notion
自転車三人乗り禁止とかPSE法も世論が盛り上がって潰した。ペーパーテスト廃止もそうすれば良い。

★ 國分功一郎@lethal_notion
各種団体がそれぞれに抗議の声をあげる。一元化するより、いろんな団体から抗議の声を文科省に届けるのがよい。

★ 國分功一郎@lethal_notion
大学に入るために子どもたちが教師の顔色を伺うようになり、社会から安易な仕方で認められるように「ボランティア」をする。そんなおぞましい社会にしてはならない。

★ 國分功一郎@lethal_notion
社会奉仕って言い方を復活させればいいと思います。“@stupid164: @lethal_notion 「ボランティア」の字義通りの自発性はどこにいってしまったんですかね。

★ 小田嶋隆@tako_ashi
学力試験で落ちるのは単に学力不足だけど、人間力入試で落とされると人間失格だぞ。立ち直れないぞ。
Retweeted by 國分功一郎

★ 小田嶋隆@tako_ashi
文科省なり大学当局が受験者の「人間力」について合理的に測定する基準を開示できない以上、その優劣は面接官の直感に委ねられるに違いないわけだけど、仮に下村博文がオレの人間力を査定したら、オダジマの人間力偏差値は40にも届かないはずだ。
Retweeted by 國分功一郎

★ 小田嶋隆@tako_ashi
下村博文さんが想定している「人間力」って、どうせ神社の掃き掃除をすることでぐんぐん高まるタイプの資質だよね。
Retweeted by 國分功一郎

★ 小田嶋隆@tako_ashi
人間力を測定可能な資質と考えている人間に、人間力が備わっているとは、どうしても思えないぞ。
Retweeted by 國分功一郎

★ 小田嶋隆@tako_ashi
下村さんは「一流大学の学生が一流の人間であるとは限らない」という当たり前のことが理解できていない(←だって、学力が高いだけなんだから)からこそ、一流大学に一流の人間(←測定可能だと思ってるw)が集まる仕組みを作ろうとしているのだろうね。バカなのだね。学力的にも人間的にも。
Retweeted by 國分功一郎

(以上すべて引用)






重層する次元への離陸

2013-10-10 16:42:39 | 日記

★ 1922年5月21日「小岩井農場」の歩行の日付から、1923年9月16日「風景とオルゴール」詩群の日付までの1年4ヶ月は、賢治にとって、長い1年4ヶ月だった。22年11月には、賢治の固有の対(つい)ともいうべき妹とし子を喪っている。「永別の朝」「無声慟哭」の絶唱はよく知られている。23年7、8月には、賢治の生涯でいちばん遠くまでの旅に出ている。「オホーツク挽歌」行である。この当時の日本地図の北限にあった樺太(「サガレン」)に至るこの時の旅が、賢治にとって、とし子の存在のゆくえを求める旅であったことはすでにみてきた。

★ 「鈴谷平原」でその旅の極北に立った詩人はこう記している。
      こんやはもう標本をいつぱいもつて
      わたくしは宗谷海峡をわたる
      だから風の音が汽車のやうだ
「標本をいつぱいもつて」賢治は旅を折り返す。存在のゆくえを求めるその旅にあって、詩人の乗り継ぐべき鉄道はもはや、風の鉄道でしかありえぬことが予感されている。
      永久におまへたちは地を這うがいい。(「宗谷挽歌」)
詩人の幻想はこのようなことばを置いて、「上方とよぶその不可思議の方角へ」向かう軌条にのりうつる。『銀河鉄道の夜』の骨格が構想されるのは、この挽歌行の時である。<銀河の鉄道>は第4次元に、あの<透明な軌道>の方に、離陸した樺太鉄道である。

★ 「樺太鉄道」というこのときの詩篇には、<サガレンの八月のすきとほつた空気を>という一節があるが、「サガレンの八月」という未完の断片の中では、「何の用でこゝへ来たの、何かしらべに来たの、何かしらべに来たの。」とくりかえし吹きつけてくるサガレンの風にたいして、「標本を集めに来たんだい。」と「私」は答える。それは銀河の河原、「プリオシン海岸」のふしぎな問答の原型である。「標本にするんですか?」とジョバンニたちが聞く。「証明するに要るんだ」と、学者が答える。

★ 標本とは証明である。地層の内、気層の内に発掘されるべき証明である。証明とは、過去は現在しつづけるのだ、死んだたましいは今もありつづけるのだという、賢治がそのぜんぶを賭けても求めつづけた切実な問いへの答だ。「オホーツク挽歌」の水平の旅は、銀河の鉄道への離陸のために必要な助走であった。

★ それはとし子が「今も生きている」という、よくある感傷や自己欺瞞とはべつのものである。<とし子の死んだことならば/いまわたくしがそれを夢でないと考へて/あたらしくぎくつとしなければならないほどの/あんまりひどいげんじつなのだ>(「青森挽歌」)。そうではなくて、それは世界への視角のとり方(エピステーメー)――空間と時間について、風景や心象について、つまり<げんしやうするせかい>についての、ひとつのあたらしい視角のとり方をえらぶことへの、自由なのだ。それはぼくたちのみている風景に、いくつもの次元に重層する奥行きを与えてしまう、鮮烈なひとつの視界だ。

<見田宗介“補章 風景が離陸するとき”―『宮沢賢治 存在の祭りの中へ』(岩波現代文庫2001)>






むかしむかし、アメリカで起こったこと

2013-10-09 15:48:51 | 日記

★ 1955年12月1日、アラバマ州モントゴメリ。一人の黒人女性ローザ・パークスが、人種分離を実施していた市内バスで白人専用の座席に座り続け、逮捕される。この事件をきっかけに一年間におよぶ大規模なバス・ボイコット闘争が繰り広げられ、ついに56年11月、連邦最高裁は地方バス路線における人種分離を違憲と判定した。この闘争は、旧来の法廷闘争の枠を大きく破った新しい形態の黒人解放闘争=公民権運動の端緒となった。さらに60年2月1日、ノースカロライナ州グリーンズボロで食堂における黒人差別に抗議して自然発生的に始まった「座り込み(シット・イン)」が、「市民的不服従」の有力な戦術として使われるようになった。

★ 奴隷解放宣言百周年にあたる1963年は黒人の公民権運動がおおいに盛り上がり、5月のバーミングハム闘争に続いて8月にはワシントンで25万人の大デモが展開された。その大行進を導いたマーティン・ルーサー・キング牧師は、自由と正義、友愛の未来像を描きだしながら、「私には夢がある」と繰り返す名演説を残している。

★ 他方、南部では保守派の白人による公民権運動家の暗殺、黒人教会の爆破などのテロ行為があいつぎ、ついに同年11月テキサス州ダラスにおいて公民権運動の支持に動いていたケネディ大統領が凶弾に倒れる。

★ すべての公共施設における人種差別を禁じた64年の公民権法によっても、黒人の実質的平等は実現されず、翌年には公民権デモが組織されさらに66年、黒人の自立・武装自衛を説く「ブラック・パワー」路線がSNCC(学生非暴力調整委員会)によって首唱されるにいたった。他方、64年9月にはカリフォルニア州バークレー校で、18人の学生団体からなる共闘組織FSN(フリー・スピーチ・ムーヴメント)が当局による政治活動の制限に抗議して「反乱」を起す。これが全国の大学に「スチューデント・パワー」を飛び火させ、また北爆開始にともなう反戦ティーチインや徴兵カード焼却といった市民的不服従のベトナム反戦運動も、65年から本格的な動きを見せるようになっていた。

★ (その後3年間の主な動き)
① 死者41名を出したデトロイトでの黒人蜂起(67年7月)
② ペンタゴン前に10万人を結集したベトナム反戦の大デモンストレーション(67年10月)
③ 不服従運動のシンボル的存在であったキング牧師の暗殺(68年4月)
④ 小児科医ベンジャミン・スポックらベトナム反戦運動活動家に対する有罪判決(68年6月)
⑤ シカゴの民主党全国大会の会場周辺で、反戦・平和を訴えるデモ隊と警官隊とが衝突(68年8月――翌年7人の被告が「騒擾防止法」違反容疑で取り調べを受け、いわゆる「シカゴ・セブン」の冤罪事件として世人の注視するところとなった)
⑥ 「法と秩序」回復を謳った共和党リチャード・M・ニクソンが第37代大統領に当選(68年11月)

<川本隆史『ロールズ 正義の原理』(講談社・現代思想の冒険者たちSelect 2005)






“わたしは低い輝きのない生活をお目にかける”

2013-10-08 13:04:01 | 日記

★ たとえば、モンテーニュのような思想家は反体系的な思想家の代表のようにみえる。われわれは、モンテーニュのいうことをまとめてしまうことはできない。そこには、エピキュリアンもいれば、ストア派もおり、パスカル的なキリスト教徒もいる。だが、それは決して混乱した印象を与えない。注意深く読むならば、『エセー』のなかにはなにか原理的なものが、あるいは原理的にみようとする精神の動きがある。『エセー』がたえず新鮮なのは、それが非体系的で矛盾にみちているからではなく、どんな矛盾をもみようとする新たな眼が底にあるからだ。そして、彼の思考の断片的形式は、むしろテクストをこえてあるような意味、透明な意味に対するたえまないプロテストと同じことなのである。

★ 彼はこういっている。
《 わたしは低い輝きのない生活をお目にかける。かまうことはない。結局それは同じことになる。道徳哲学は、平民の私の生活の中からも、それよりずっと高貴な生活の中からも、全く同じように引き出される。人間はそれぞれ人間の本性を完全に身にそなえているのだ。世の著作者たちは、何か特別な外的な特徴によって自分を人々に伝えている。わたしこそ初めて、わたし全体によって、つまり文法家とか詩人とか法律家としてでなく、ミシェル・ド・モンテーニュとして、自分を伝えるのである。もし世の人たちが、わたしがあまり自分について語るといって嘆くならば、わたしは彼らが自分をさえ考えないことをうらみとする。 》

★ これは逆説であって、実は、モンテーニュはいわゆる自分のことなど書いてもいなければ考えてもいない。むしろ、世の人たちはあまりに自分のことばかり考えていると彼はいっているのである。私こそ初めて、とモンテーニュがいうとき、彼は「自分」というものが主題となりうることを初めて見出した確信を語っているのだ。これまでの著者に対して、モンテーニュはいいえただろう。君たちは哲学者とか詩人として、人間について精神について語ったかもしれないが、まだなにも語っていないにひとしい。どんな説明も規定も解釈もうんざりだ。私は「自分」というありふれた、しかも奇怪なものについて語る。それに対してはどんな予断も躊躇も遠慮もしない、と。

★ モンテーニュが描き出したのは、「人間」に関する従来のさまざまな観念ではなく、いわばその内的な構造なのである。「人間」に関するどんな観念もモンテーニュの前でこわれてしまう。しかし彼がそのことにすこしもおびえなかったのは、宗教や哲学がみいだす「人間」は「意味されるもの」にすぎず、その底には「自分」という奇怪な「意味するもの」がありそれがすべてだと考えていたからである。いいかえれば、主体でも自意識でもなく、逆にそれらがそこから派生してくるような「自分」がある。それはいわゆる自分ではなく、彼が引用するテクストそのものである

<柄谷行人『マルクスその可能性の中心』(講談社学術文庫1990)>






愚者の“民主主義”

2013-10-08 08:22:41 | 日記

<丸山健二ブログ “一刀両断”(2013-10-07 19:22:22)>引用(全文);

 民主主義とは、つまり、愚者たちの犠牲になることです。

 愚者が愚者たる所以は、賢者が賢者たる所以である極めて少数ということに反比例して、絶対的大多数を占めていることなのです。そうでなければ、選挙でもって、毎回毎回こんな連中を選び、投票するはずがありません。かつて有名人だったから、人柄がよさそうだから、顔立ちが好みに合うから、立派な学歴を持った、元偉い役人だったから、有名政治家の息子だから、握手してくれたから、土下座して涙を流してくれたから、孫を抱いてくれたから、息子や娘の就職や結婚に力を貸してくれたから、笑顔が素敵だから、地元に橋を架け、高速道路や新幹線を通してくれたから、原発や大企業を誘致して働き口を増やしてくれたから、一杯飲ませてくれたから、などといった、そんな呆れ果てた理由と口実でもって、熱心に選挙に参加する者が大多数なのです。

 要するに、選挙に打って出ようとする連中は、その事実をよくよく承知しており、一部の賢者など最初から相手にしてはいません。そんなことをすれば敗北するからです。

 愚者たちに的を絞り、欺きやすいかれらの心をかすめ取り、愚かに過ぎる票をかき集めて政治家になろうとする連中は、当然ながらまともな人間ではありませんし、ろくな輩ではないのです。勝利したあかつきには、かれらは必ずや、ぺこぺこ頭を下げ、媚を売り、愛想を振りまいた反動として、また、ひた隠しに隠していた本性をむき出しにして、元を取ることを考え、えげつない手段を用いて実行に移し、下世話な欲望を満足させようとします。これの繰り返しが選挙というものであり、民主主義なるものの実態なのです。この一点から目を逸らしてはならないでしょう。

(以上引用)






Freedomについてまなぶ

2013-10-07 12:12:02 | 日記

★ 近代のリベラリズムが<国家>や<社会>の権力を批判するとき、その批判の照準は、主として、統合の過剰に向けられてきたと言える。それは、国家や社会があたかも個人を越えた一つの実在であるかのように見なされ、諸個人の生が、その統合――同化や動員――の力に巻き込まれることに自由への脅威を看取してきた。しかしながら、そうした集合的な「主体=実体」が人びとの生に及ぼす統合の力が低下し、いまや統合の過剰というよりもむしろ分断の深化によって自由に対する制約や剥奪が惹き起こされているとすれば、リベラリズムの批判はその標的を失うことになる。国家の権力は、依然として、自由にとっての脅威の一つであるが、それは、人びとの生きる空間の分断を与件とするものに変容しつつある。このことは、他者が、自由を脅かす敵として再び浮かびあがってきている事情とも密接に関係している。

★ 近年、かつてホッブスがとらえた自由への脅威、つまり<他者>による暴力が、再び、自由に対するリアルな脅威として見なされつつある。「暴力からの自由」「恐怖からの自由」への要求は、街路や住居のありようを変えるところまで昂進しつつある。自由と安全はホッブス的な意味でほぼ同義のものと見なされ、公権力の存在理由としても、初期の近代と同じように、治安――「法と秩序」――の維持がまず第一のものとして挙げられるようになってきている。

★ 自由と安全を同一視する傾向が強まっている背景としては、2001年のいわゆる「9.11」とその後の戦争の影響も無視できないが、人びとの生きる空間の分断・隔離が他者への不信、その(復讐の)行動への恐怖を喚び起しているという事情がより重要であろう。その徴候を示す行動に対する予防的な対応を含め、犯罪に厳しく臨もうとする政策は、すでに多くの人びとの支持をあつめている。

★ 安全に対する過度の強調は、リベラリズムが自由を擁護するために重視してきた権力制限を脱する余地すら国家に与える危険性がある。実際、それは、テロリズムへの恐怖が日々の生活に貼りつくようになったアメリカ合衆国では、治安権力に情報の収集、家宅捜査、外国人の処遇などに関して通常の法の支配を大きく逸脱するような権限を与えているし(2002年に制定されたいわゆる「米国愛国者法」とそれにつづく一連の反テロ法を念頭においている)、日本においても2004年に施行された「国民保護法」には、「武力攻撃事態」と定義される事態においては「国民の自由と権利に制限が加えられる」ことがありうる旨が記されている。

★ 「人びとが生きる空間の分断」は、(…)この四半世紀における<市場>の圧倒的な優位――国家や労働組合等がそれに対して行使しうるコントロールの著しい低下――によって惹き起こされていると見ることができる。グローバル化のもとで常態となった熾烈な「自由競争」は、国家による規制やそれが担ってきた社会保障の機能を、経済活動の自由――資本移動の自由化、労働市場の柔軟化等――を阻害し、国際競争力や民間の活力を殺ぐものとして批判する力を<市場>のアクターたちに与えている。

★ 自由は、「国家の規制」VS.「市場の自由」あるいは「大きな政府」VS.「小さな政府」というきわめて単純な二分法に即して論じられ、前者から後者へと移行することが、あたかも自由の領域を拡張することであるかのように語られている。実際、この間に、国家の機能は社会保障という側面においては後退し、年金負担をはじめとする社会保障の負荷を企業からさらに取り除く方向での社会保障の再編が進められようとしている。

★ 「政治的なもの」(国家)は、「社会的なもの」(雇用保険や社会保障)との結びつきを弱める一方で、「経済的なもの」との結びつきを強めている。あるいはもっと直裁に、「政治的なもの」や「社会的なもの」は「経済的なもの」によって植民地化されつつある、とこの間の経緯を要約することもできるだろう。

★ 現代における自由への最大の脅威を「経済的なもの」の圧倒的な優位に見いだすとしても、その力を制御しうるはずの当の「政治的なもの」や「社会的なもの」が行き詰まりを見せているというのが、否定しがたい現実であろう。重要なのは、国家VS.市場というニ項対立の文脈を受け容れたうえで、国家の力量を性急に回復することではなく、この間の規制緩和や民営化が誰にどのような自由をもたらしたのか、誰からどのような自由を奪ってきたのかを認識し、その認識を「政治的なもの」「社会的なもの」「経済的なもの」の間の新しい関係の構想へと繋げていくことだろう(その際、「社会的なもの」の思想は、経済的・社会的格差の拡がりにたんに社会統合に対する危険性のみならず、「各人の自由な発展」に対する障害を見いだすところから展開しはじめたことが想起されるべきである)。自らが享受している自由のあり方を自ら批判的に評価し、私的な問題として受けとめられている問題を公共的な問題としてとらえ返す視野をひらくことは、そうした構想のためにも不可欠である。

<斎藤純一『自由』(岩波書店・思考のフロンティア2005)>






餌食

2013-10-07 09:07:12 | 日記

天木直人ブログ(2013年10月07日)全文引用;

<消費税増税に賛成する国民は官僚にとって格好の餌食である>

 きょう10月7日の各紙が、安倍首相が消費税8%増税を発表した後の世論調査結果を一斉に報じている。各社によって多少の違いはあるが、総じて世論の大半が消費税増税の決断を評価していることになっている。信じられない数字だ。しかしそれを見て私は世論調査が捏造されたとまでは言わない。

本当の事を知らされていない大多数の国民が、「仕方がない」と思って支持している結果だと思う。

なぜ「仕方がない」と思うのか。それは超高齢化社会に向かって財政負担が増すと思わされているからだ。しかしそのような国民は、官僚の次のような思惑を知ったらそれでも「仕方がない」と思うだろうか。

人口構成の大きな部分を占める団塊の世代はあと20年もすれば皆この世からいなくなる。
その後は少子化の結果人口は減っていく。

それでも消費税はなくならない。税率は下らない。その時官僚たちはあり余る税収入でやりたい放題だ。すなわち高齢化社会による負担は過渡的なものなのである。そして過渡的なものである以上、それは税制を変えなくてもやりくりすれば凌げる。その仕事をするのが公僕である官僚なのに官僚は悪知恵を働かす。

かつて年金未納問題が大騒ぎとなった時、年金制度の抜本的な見直しが論じられ、その議論の中で、年金制度を考え出した官僚の悪知恵が暴露された。

集めた年金が支払われるのは40年先のことだ。それまではその集めた金を好きなように使える。それは裏返して言えば、40年たってその金を支払わねばならない時は、世の中はどうなっているかわからない、どうとでも理由をつけて年金の支払いを誤魔化すことができる、ということだ。

その言葉どおり、金がたらなくなったから年金支払い年齢を引き延ばし、年金支払額がどんどんと削られている。消費税増税もまさに官僚の悪知恵が作り出した詐欺だ。今消費税を上げておけば後輩官僚たちはあり余った予算を好き放題に使えるのである。官僚組織は永遠であるというわけだ。私はそのような官僚の悪知恵を知っているから消費税増税に反対する。それどころかあらゆる増税に反対である。

国が破綻すればどうなるかって?国民は国がなくなってもやっていけるが官僚は国がなくなった瞬間に終る。国がなくなって一番困るのは官僚である・・・

(以上引用)





手品師をボーっと見つめる観客たち

2013-10-04 11:35:11 | 日記

ぼくが思うに、“現在ニッポンのひとびと”というのは、一部の例外(たぶん数パーセントだ)を除き、テレビを見ているうちに、“手品”にやすやすと洗脳される習性が身についた人々なのだ。

いま藤原新也ブログ(Talk & Diary)の最新記事に<手品師>のことが書いてあるので引用する(全文);

<手品師が一番いやがるお客さんでいること。> 2013/10/02(Wed)

昔トルコのイスタンブールでヤクザの見張る買春宿の居並ぶ一角(ゲネレブ)があった。
一角には頑丈な門扉がありそこにはヤクザの見張りがおり、門から入った各家にもヤクザが見張っていた。
その現場を撮影しょうとしてイタリアのカメラマンが袋叩きに遭って血だらけで門の外に放り出されたという曰く付きのところだが、そこを撮影するために一計を案じた。
観光客を装い、腕組みにし、体を横向きにして肩からぶら下がるカメラのシャッターを押すということをやったわけだ。
その際、シャッター音をかき消すために大きな咳払いをするという手の込んだことをやった。
ただし現場が薄暗く、咳払いによってカメラブレが起こるため、ホテルで予行演習を何度もしたものだ。
                            ◉

昨日の安倍首相の消費税増税会見を見ながら、なぜかふと私はあの時の自分の曲芸を思い出した。

「復興特別法人税の前倒し廃止」という不埒な政策をかき消すための「消費税増税」という咳払いをするという曲芸だ。

「消費税増税」と「復興特別法人税の前倒し廃止」とは何の関係もない別々の事案であり、本来別々に発表されるべき筋合いのものである。

すでに前々から決まっていた「消費税増税」よりとつぜん持ち出された「復興特別法人税の前倒し廃止」の方が寝耳に水で、報道と論議に値する案件であることは一目瞭然なのだが「消費税増税」の”ことの大きさ”に報道も世間の論調も引きずられ、安倍の手法は半ば功を奏したと見る。

私たちの所得税は25年間、税額に2.1%を上乗せするという形で徴収され、住民税は10年間、年1000円引き上げるにも関わらず「復興特別法人税」というものがわずか3年間というこの優遇処置と不公平をうかつなことに私は知らなかったが、さらにそれを1年前倒しで廃止するというのである。

この理不尽をうすらぼんやりと見送っているマスコミも完全に”安倍マジック”に洗脳されていると言わざるをえない。

思うにこの「復興特別法人税の前倒し廃止」というのは、かねてより財界からの要望が強い法人実効税率引き下げを留保する”見返り”案として安倍と経団連の間で密談されたとも勘ぐることもできるだろう。

昨今財界べったりの安倍は国民の見えぬところで経団連の老醜と何を話し合っているかわかったものではない。

だいたい「復興特別法人税の前倒し廃止」による企業の内部留保増大分を労働者に還元配分し、それによって消費を拡大、それがまた企業を活性化するし、それが成長戦略に繋がるというほど復興特別法人税が巨万の額を占めているわけでもない。

内部留保を社会や労働者に還元するというなら、なにも「復興特別法人税の前倒し廃止」を待つまでもなく、今現在においても企業の内部留保は腐臭が立ちのぼるほど”腐るくらいにある”のだから、どこかの予備校教師の言葉ではないが”やるなら今でしょ!!”の世界なのである。

つまり還元する意欲と誠意があるなら「復興特別法人税の前倒し廃止」を待つまでもなくすでにやっているということだ。

ということは「復興特別法人税の前倒し廃止」が履行されたとしてもそれは十分に”還元”されることなく、新たな内部留保の財源になる可能性が大。

企業の内部留保は現金貯蓄のみではなく当然土地や建物にも投資されているわけだが、このニッポンの企業の溜め込み癖こそが国(社)栄えて民滅びる、日本固有のいびつな経済風土を生んでいるひとつの要因であることは疑いようのない事実である。

大企業の内部留保だけでも461兆円というあのベルルスコーニもあっと驚く天文学的数字。

さらに10年間ごと100兆円が増加するこの恐るべきだぶついた贅肉の肥大。

ちなみに2011年3月期の内部留保ランキングは、

1/トヨタ自動車/13兆8630億円
2/本田技研工業/7兆7826億円
3/NTTドコモ/4兆7250億円
4/キヤノン/4兆3141億円
5/パナソニック/4兆1662億円
6/日産自動車/4兆24億円
7/三菱商事/3兆4946億円
8/東京電力/3兆2652億円
9/ソニー/3兆876億円
10/関西電力/2兆4595億円

それぞれが国家か?と錯覚するくらい巨大である。

絶対損をしない『総括原価方式』に庇護されている東電(8位)、関電(10位)、中電(20位)がランクインしているのもふざけきっているわけだが、国から3兆円の支援を受けた東電の内部留保がまだ3兆円以上もあるというのはブラックユーモアである。

あきらかにこの国は狂っている。

ちなみに調べてみるとたとえばトヨタ自動車の内部留保13兆8630億円はあのアジアの大国インドネシアの国家予算13兆6510億円に相当するわけだから、つまりトヨタ自動車というのは”国家”なのである。
                          ◉

というわけで、今後安倍が大きな咳払いするときには、その裏に何か隠したい案件が潜んでいるのではないかと冷静に事態をみつめる必要ある。

昨日の会見でもそうだが”人相鑑定家”の私が観るところ、最近安倍は言葉巧みな手品師の立ち居振る舞い、面構え、に似てきている。

手品師が一番いやがるのは衆目を注意を逸らすべくブラフをかける手以外のところを見つめている醒めた客だが、逆を言えばそういう風に安倍と現政権の行状を見つめる楽しみもあるということだ。

(以上引用)






1984年6月、初夏

2013-10-03 19:15:59 | 日記

★ サルペトリエール病院の小さい病室のなかでミシェル・フーコーは友人たちに会う。(…)夏がすでにパリには輝き、病院の建物は広大な庭園のただなかにある。建物に達するには相当長く歩かなければならない。フーコーは笑う。冗談を言う。発売されたばかりの例の二つの本について発表された最初のいくつかの記事に論評を加える。以前より快方に向かっている様子だ。

★ 6月25日の午後のさかり、一通のAFP電が、数々の編集室に、ついで知識人社会に、驚愕をひき起こす。ラジオとテレビが「ミシェル・フーコー、死去」と報じたときだった。

★ 6月のその朝、きわめて早い時刻だった。そして太陽はパリの上にまだその姿を現していなかった。だが、ピチエ=サルペトリエール病院のうしろの小さい中庭には、数百名の人々がミシェル・フーコーに最後の敬意ささげようとしてすでに集合していた。長時間、待った。大いなる沈黙。ついで、かすれて、よく通らず、悲しみゆえに変わってしまった声が突然、聞こえてくる。

★ 「私を駆りたてた動機はというと、ごく単純であった。ある人々にとっては、私はその動機だけで充分であってくれればよいと思っている。それは好奇心だ。――ともかく、いくらか執拗に実行に移してみる価値はある唯一の種類の好奇心である。つまり、知るのが望ましい事柄を自分のものにしようと努める体の好奇心ではなく、自分自身からの離脱を可能にしてくれる好奇心なのだ。もしも知への執拗さというものが、もっぱら知識の獲得のみを保障すべきだとするならば、そして知る人間の迷いを、ある種のやり方で、しかも可能なかぎり容認するはずのものであってはならないとするならば、そうした執拗さにはどれほどの価値があろうか?はたして自分は、いつもの思索とは異なる仕方で思索することができるか、いつもの見方とは異なる仕方で知覚することができるか、そのことを知る問題が、熟視や思索をつづけるために不可欠である、そのような機会が人生には生じるのだ。[…] 哲学――哲学の活動、という意味での――が思索の思索自体への批判作業でないとすれば、今日、哲学とは何であろう?自分がすでに知っていることを正当化するかわりに、別の仕方で思索することが、いかに、どこまで可能であるかを知ろうとする企てに哲学が存立していないとすれば、哲学とは何であろう?」

★ これはフーコーの言葉である。『快楽の活用』への序文の一節だ。それを読みあげるのはジル・ドゥルーズ。群集は耳を傾けている。ミシェル・フーコーのたどった数知れぬ道を横切ったことのあるすべての人々、彼の数知れぬ姿の一つとなじんだことのあるすべての人々が混じり合っている多種多様な群集だ。大学の職場のなかで、政治闘争の場で、あるいはその双方の場で、友人関係のなかで、情愛関係のなかで…

★ 1989年の初頭、ささやかな本が刊行された。『コレージュ・ド・フランス年鑑』のためにフーコーが記した《講義概要》を、それは集めている。彼が書いた最後の概要は、《主体の解釈学》に当てられた。1981-82年度の講義にかんするものである。その末尾には、ストア派の教えにかんする以下の言及を読むことができる。
「死にかんする瞑想の独特の価値が生み出されるのは、世論では一般に最大の不幸と考えられている事態を、その瞑想があらかじめ思索するからだけではないし、また、その瞑想のおかげで、死は不幸にあらずということを確信できるからだけではない。自分の人生にたいして回顧の視線を、いわば先取りの思索によって投じうる可能性を、その瞑想こそが提供してくれるのである。自分は死に瀕しているのだと自分自身のことを考えることによって、われわれは現に自分が行いつつある行為の一つ一つをそれ独自の価値において評価することができる。(…)」

<ディディエ・エリボン『ミシェル・フーコー伝』(新潮社1991)第3部・第9章“一つの芸術としての人生”>

* なお、『コレージュ・ド・フランス年鑑』のためにフーコーが記した《講義概要》の翻訳は、『フーコー・ガイドブック』(ちくま学芸文庫2006)に収録されている。






増税は、”しかたがない”んですか?

2013-10-02 12:59:37 | 日記

<増税の大義が見えない 消費税引き上げを決定 東京新聞社説 2013年10月2日>

 安倍晋三首相が来年四月から消費税の8%への引き上げを決めた。終始、国民不在のまま進んだ大増税は、本来の目的も変質し、暮らしにのしかかる。
 一体、何のための大増税か-。疑問がわく決着である。重い負担を強いるのに、血税は社会保障や財政再建といった本来の目的に充てられる保証はない。公共事業などのばらまきを可能とする付則が消費増税法に加えられたためだ。肝心の社会保障改革は不安が先に立つ内容となり、増税のための巨額の経済対策に至っては財政再建に矛盾する。増税の意義がまったく見えないのである。

◆正統性ない決定過程

 わたしたちは、現時点での消費税増税には反対を唱えてきた。何よりも、この増税の決定プロセスには正統性がないと考えたからである。始まりは、民主党の「マニフェスト(政権公約)違反」であった。
 消費税増税をしないといって政権に就いたにもかかわらず、突如として増税に舵(かじ)を切った。一千兆円もの財政赤字の現状から、国民にいずれ消費税引き上げはやむを得ないとの覚悟があったとしても、手続き違反だし、国民への背信行為である。
 民主党は「天下りや渡りを繰り返すシロアリ官僚の退治なしの増税はおかしい」とも訴えながら、結局、行革も自ら身を切る改革も反故(ほご)にしてきた。政治には信頼が必要なのである。

 その民主と組んで昨年八月に消費増税法を成立させた自民、公明も年末の総選挙や七月の参院選で増税を堂々と争点に掲げることはなかった。消費税増税が政治的に国民の理解を得たとはいえない。
 それもそのはずである。自公は消費増税法案の付則に「成長戦略や事前防災、減災などの分野に資金を重点的に配分する」と追加し、消費税の使い道を公共事業など何でもありに変更した

◆変質した増税の理念

 消費増税法の原点は「社会保障と税の一体改革」であり、毎年一兆円ずつ増え続ける社会保障費の財源確保が目的だったはずだ。国民の多くは今でもそう望んでいるだろう。しかし一体改革であるはずなのに、増税だけが先行して決まった。そのうえ年金制度など社会保障の抜本改革は見送られた。

 本来なら「社会保障改革のために財源がこれだけ必要となり、そのために消費税を何%引き上げる必要がある」と国民に理解を求めるのが筋である。財政再建を理由に、先に増税ありきの財務省が描くシナリオに乗るから齟齬(そご)を来すのである。消費税増税の理念は変質し、国民に負担を求める大義も失ってしまったといっていい。

 消費税は1%で二・七兆円の税収があり、3%引き上げると国民負担は八兆円を超える。財務省にとっては景気に左右されず安定的に税収が確保できるので好都合だ。だが、すべての人に同等にのしかかるため、所得の低い人ほど負担が重くなる逆進性がある
 さらに法人税は赤字企業には課せられないが、消費税はすべての商取引にかかり、もうかっていなくても必ず発生する。立場の弱い中小零細事業者は消費税を転嫁できずに自ら背負わざるを得ない場合がある。このままでは格差を広げ、弱者を追い込む「悪魔の税制」になってしまう。

 消費税を増税する一方、法人税は減税を進めようというのは大企業を優先する安倍政権の姿勢を物語っている。消費税増税で景気腰折れとならないよう打ち出す経済対策も同じである。五兆円規模のうち、企業向けの設備投資や賃上げを促す減税、さらに年末までに決める復興特別法人税の前倒し廃止を合わせると一・九兆円に上る。公共事業などの景気浮揚策も二兆円である。
 国民から吸い上げた消費税を原資に、財界や建設業界といった自民党支持基盤に還流されたり、減税に充てられる構図である。過去に経済対策と銘打って公共事業をばらまき、借金を積み上げた「古い自民」の歴史を忘れてもらっては困る。このままでは社会保障の充実も財政再建もかなわないまま、消費税率だけが上がっていくことになりかねない。

◆安心できる社会保障を

 安倍首相は「持続可能な社会保障制度を次の世代にしっかりと引き渡すため、熟慮の末に消費税引き上げを決断した。財源確保は待ったなしだ」と理由を述べた。
 そうであるならば、やるべきことは、安心できる社会保障制度の将来像を具体的に描き、その実現のために無駄な財政支出を徹底的に削減し、公平な負担を確立する。それなしに国民の理解は得られるとはとても思えない。

(以上引用、一部省略)






一枚の写真;“あーやだやだ”

2013-10-01 14:30:16 | 日記

ここに掲げた写真ととも、現在“有名なひと”が以下のように述べている;
《 明日は、私の五十九回目の誕生日。総理番記者の皆さんから、お誕生日プレゼントを頂きました。いくつになっても、嬉しいものです。 》

いったい“これ”のどこが問題だろうか!

ぼくがこの写真を見た“村野瀬玲奈オフィシャルブログ”は以下のように批判している;

★ これ↑はまた、日本でのジャーナリズムと権力者の「仲間意識」、あるいは「共犯者関係」をよく象徴する写真です。

この写真に付いた、『この女性たちは、「喜び組」でいらっしゃいますか??』というコメントに笑いましたが、この女性たちは本人たちの意識がどうであれ、ジャーナリストではなくて、安倍のスポークスパーソンなんでしょう。さらに言えば、このうちの何人かは安倍の「積極的なファン」だと想像します。表面的に笑顔を保って安倍に本音を話させてそれを通じて「安倍政治の暴力性を世間に広く知らせよう」と考えている人はこの写真の中にはほとんどいないのではないでしょうか。ジャーナリズムとは権力の悪をあばく役割があるはずですが、この表情は本当に「喜び組」でしかないと思わざるをえません。こういうところから報道機関は政治と癒着し、権力とお仲間、いえ、暴政の共犯者となっていくのだと思いました。

さらに、首相番を若い女性に担当させるという報道機関の横並びのある種のセクシズム感覚。経験豊富なベテラン記者に男女区別なく担当させるという発想は報道機関にはないのでしょうか。あーやだやだ。
(以上引用)

ぼくはこの村野瀬玲奈に共感する。
この有名な人を中心とする権力は、消費税率を上げて、貧乏人からまたまたフンダクルのである(ケーキがよくなっても貧乏人にはなんの恩恵もないことは、歴史が証明している!しかもケーキがよくなる保障はなにもない)
まったく今の世の中ほとんどすべて、“あーやだやだ”である。




<追記>

もちろん“喜び組”は、この首相番の若い女性記者に限らない。
この“若い女性記者”を雇用するニッポン・ジャーナリズム組織に限らない。
老いも若きも、知識人(物書き先生)も、ただのひと(SNSでごちゃごちゃ言っているだけのひと)も、なにも言わない庶民とやらも、みんな“喜び組”でしかないこの社会が“あーやだやだ”なのである。
ドレイでいることが、安心で、居心地がよいというこの”伝統”のなかで生き続けるのはしんどい。





ベンヤミンの背中(彼はたしかにこの時代の先行者だった)

2013-10-01 13:19:46 | 日記

★ ヴァイマール体制を支えたリベラリズムへの批判は、すべてが崩壊し、亡命生活に入ってからも変わらなかった。亡命先からアドルノに宛てた手紙にはたとえばこう記されている。「ドイツに戻りたい気持ちはありますが、その郷愁には問題的な側面が備わっています。もしそれがヴァイマール共和国への郷愁だとしたら……まったくもって動物的愚劣さでしかありません」(1939年2月23日)

★ もちろん、進歩信仰への批判だけならベンヤミンにかぎられたことではなかった。ホルクハイマーもアドルノも共有していた。少し大胆に言えば、時代の危機、文化の問題性を多少とも敏感に感じとっていた知性の持ち主たちは皆、そうだった。

★ しかし、ベンヤミンはハイデガーに色濃い保守革命路線とも、共産党型の革命運動とも、いかにリベラリズムと進歩信仰への批判において共通しているとはいえ、やはり大きく異なっていた。ハイデガーの哲学的噴火のような文化批判に共鳴することは一度もなかった。すでにハイデガーの就任講演「歴史的時間の問題」をはっきり拒否しているし、30年代には、ブレヒトと一緒にハイデガーの「粉砕」も計画していた。

★ 他方、友人が共産主義に傾倒しているのではないかと心配する長年の友ショーレムに対してベンヤミンは、自分はいかなる幻想も持っていない、現状への抵抗からこの思想を採用しているだけだと述べている。「こうした対抗モデルは私にとってはいかなる生命的な力の影すら帯びていません」(1934年5月6日)。あるいは、自分が唯物論の学問に触れているのは、それが自分自身の長年の形而上学的な言語哲学と緊張関係を持っているからであるとも述べ、ハイデガー学派のような「深遠そうな理念の王国」よりはまだしも左翼のほうがましなのだと、スイスの高名な評論家マクス・リュヒナー宛の手紙(1931年1月2日)に書いている。

★ さらにベンヤミンは、以上のように保守革命および共産主義という対抗モデルからも距離を取っていたばかりか、個人的出自を共有する人々の多くが受け入れ、実行した脱出モデルにも燃えなかった。すなわちユダヤ人のヨーロッパ離脱、パレスチナ移住をめざしたシオニズムにも、心は揺れながらではあるが、熱くなることは終始なかった。

★ このように彼は、保守革命家でもなく、共産主義者でもない立場を、さらにはシオニズムでもない立場を追及していた。その意味では「立場」などというものを拒んでいるわけである。(…)リベラルな幸福主義でなければ、つまりラディカルであれば、よかったのかもしれない。決定しないままのラディカリズム、この自己撞着とも思えるものがベンヤミンの求めたアクチュアリティの後ろ姿であろう。

★ だが、まさにことがベンヤミンの文章や生活の理解を難しくしている。彼のアクチュアリティの後ろ姿でなく、それを前から見ることは意外と難しい。第一次大戦前は、ドイツ青年運動の流れをくむ自由学校運動に没頭し、精神の純粋性に生きようとしていた。やがてユダヤ神学的な思考とマルクシズムのあいだを最後まで揺れ続け、他方で、保守革命にも共産主義にも関わりをもった。初期の言語哲学や純粋な理念の追求という「形而上学的」主題と、一時期の恋人アーシャ・ラツィスや同じく深い交流のあったブレヒトに象徴される、社会主義に向けての実践的な批評活動、その両者のどちらも、多少の重点移動はあっても基本的には捨てないことが、ベンヤミンの追求するアクチュアリティのあり方だった。そこに文章の難しさや矛盾の理由があろう。

<三島憲一『ベンヤミン 破壊・収集・記憶』(講談社学術文庫2010)>