★ 1922年5月21日「小岩井農場」の歩行の日付から、1923年9月16日「風景とオルゴール」詩群の日付までの1年4ヶ月は、賢治にとって、長い1年4ヶ月だった。22年11月には、賢治の固有の対(つい)ともいうべき妹とし子を喪っている。「永別の朝」「無声慟哭」の絶唱はよく知られている。23年7、8月には、賢治の生涯でいちばん遠くまでの旅に出ている。「オホーツク挽歌」行である。この当時の日本地図の北限にあった樺太(「サガレン」)に至るこの時の旅が、賢治にとって、とし子の存在のゆくえを求める旅であったことはすでにみてきた。
★ 「鈴谷平原」でその旅の極北に立った詩人はこう記している。
こんやはもう標本をいつぱいもつて
わたくしは宗谷海峡をわたる
だから風の音が汽車のやうだ
「標本をいつぱいもつて」賢治は旅を折り返す。存在のゆくえを求めるその旅にあって、詩人の乗り継ぐべき鉄道はもはや、風の鉄道でしかありえぬことが予感されている。
永久におまへたちは地を這うがいい。(「宗谷挽歌」)
詩人の幻想はこのようなことばを置いて、「上方とよぶその不可思議の方角へ」向かう軌条にのりうつる。『銀河鉄道の夜』の骨格が構想されるのは、この挽歌行の時である。<銀河の鉄道>は第4次元に、あの<透明な軌道>の方に、離陸した樺太鉄道である。
★ 「樺太鉄道」というこのときの詩篇には、<サガレンの八月のすきとほつた空気を>という一節があるが、「サガレンの八月」という未完の断片の中では、「何の用でこゝへ来たの、何かしらべに来たの、何かしらべに来たの。」とくりかえし吹きつけてくるサガレンの風にたいして、「標本を集めに来たんだい。」と「私」は答える。それは銀河の河原、「プリオシン海岸」のふしぎな問答の原型である。「標本にするんですか?」とジョバンニたちが聞く。「証明するに要るんだ」と、学者が答える。
★ 標本とは証明である。地層の内、気層の内に発掘されるべき証明である。証明とは、過去は現在しつづけるのだ、死んだたましいは今もありつづけるのだという、賢治がそのぜんぶを賭けても求めつづけた切実な問いへの答だ。「オホーツク挽歌」の水平の旅は、銀河の鉄道への離陸のために必要な助走であった。
★ それはとし子が「今も生きている」という、よくある感傷や自己欺瞞とはべつのものである。<とし子の死んだことならば/いまわたくしがそれを夢でないと考へて/あたらしくぎくつとしなければならないほどの/あんまりひどいげんじつなのだ>(「青森挽歌」)。そうではなくて、それは世界への視角のとり方(エピステーメー)――空間と時間について、風景や心象について、つまり<げんしやうするせかい>についての、ひとつのあたらしい視角のとり方をえらぶことへの、自由なのだ。それはぼくたちのみている風景に、いくつもの次元に重層する奥行きを与えてしまう、鮮烈なひとつの視界だ。
<見田宗介“補章 風景が離陸するとき”―『宮沢賢治 存在の祭りの中へ』(岩波現代文庫2001)>