★ 自我に先立つ世界、自我がない世界。ドゥルーズはそれを「無人島」といういくぶん不思議な形象を通じて論じている。しかも、極めて早い段階において、である。1950年に書かれ、長きにわたって未発表のままであった草稿「無人島の原因と理由」がそのアイディアを伝えている。(…)或る雑誌の「無人島」特集号に掲載されるはずであったが、いかなる理由からか、掲載にはいたらなかった。
★ 「無人島の原因と理由」は不思議なテクストである。陸島と洋島という地理学上の区分から始まる論述は、「或る島が無人であるということは、我々にとって哲学的には正常なことと思われて然るべきなのだ」というきわめて難解な、どうやら哲学的テーゼらしい何かを経て、無人島なる形象の本質に、ドゥルーズ独自の視点で迫る。
★ “無人島文学”とでも言うべき、ジャン・ジロドゥ『シュザンヌと太平洋』およびダニエル・デフォー『ロビンソン・クルーソー』の名が挙げられて、前者は肯定的に、後者は否定的に論じられ、そこから一種の神話批判のテーマが掲げられて、論述は幕を閉じる。単行本で7頁ほどの短文であるが、以上から分かるように、話題は、地理学、哲学、文学、神話学など、多岐に及んでおり、また論述も高度に圧縮されているため、その全貌を紹介することはできない。ここでは、あくまでも超越論的経験論の序章としてこのテクストを紹介するに留める。
★ (…)その後『意味の論理学』の補遺として収録された「ミシェル・トゥルニエと他者のない世界」で、ドゥルーズはこの無人島の逆説をより論理的に解説している。これはミシェル・トゥルニエの小説『フライデーあるいは太平洋の冥界』を論じた書評論文だが、トゥルニエの小説自体がデフォーの『ロビンソン・クルーソー』に取材して書かれたもので、無人島に漂着したロビンソンを或る種の哲学的な目線で追う物語になっている。「他者」という論点からこの小説を読み解いたドゥルーズの論考が「無人島の原因と理由」に通底する主題をもっていることは間違いない。
★ 自我があって外界のものを対象化する作用を獲得するのではなく、対象化作用の獲得によって初めて自我が発生する。したがって、他者は知覚領域における対象ではないばかりではなく、私を知覚する主体でもない。知覚する主体/知覚される客体という構図そのものが他者によって成立するものだからである。他者がいなければ自我もない、という逆説。他者がもたらす最も根本的な効果とは「私の意識とその対象の区別」だということになるだろう。「この区別は、実際には他者の構造から帰結する」。この命題はもちろん、その反対命題を伴う――「他者が不在だと、意識とその対象はもはや一つでしかない」。
<國分功一郎『ドゥルーズの哲学原理』(岩波現代全書001―2013)>
* 「無人島の原因と理由」の翻訳は、ドゥルーズ『無人島 1953-1968』(河出書房新社2003)の最初に収録されている。
(追記・感想; ”日本”というのは、やはり一種の無人島なのだろうか?)
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