Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

Freedomについてまなぶ

2013-10-07 12:12:02 | 日記

★ 近代のリベラリズムが<国家>や<社会>の権力を批判するとき、その批判の照準は、主として、統合の過剰に向けられてきたと言える。それは、国家や社会があたかも個人を越えた一つの実在であるかのように見なされ、諸個人の生が、その統合――同化や動員――の力に巻き込まれることに自由への脅威を看取してきた。しかしながら、そうした集合的な「主体=実体」が人びとの生に及ぼす統合の力が低下し、いまや統合の過剰というよりもむしろ分断の深化によって自由に対する制約や剥奪が惹き起こされているとすれば、リベラリズムの批判はその標的を失うことになる。国家の権力は、依然として、自由にとっての脅威の一つであるが、それは、人びとの生きる空間の分断を与件とするものに変容しつつある。このことは、他者が、自由を脅かす敵として再び浮かびあがってきている事情とも密接に関係している。

★ 近年、かつてホッブスがとらえた自由への脅威、つまり<他者>による暴力が、再び、自由に対するリアルな脅威として見なされつつある。「暴力からの自由」「恐怖からの自由」への要求は、街路や住居のありようを変えるところまで昂進しつつある。自由と安全はホッブス的な意味でほぼ同義のものと見なされ、公権力の存在理由としても、初期の近代と同じように、治安――「法と秩序」――の維持がまず第一のものとして挙げられるようになってきている。

★ 自由と安全を同一視する傾向が強まっている背景としては、2001年のいわゆる「9.11」とその後の戦争の影響も無視できないが、人びとの生きる空間の分断・隔離が他者への不信、その(復讐の)行動への恐怖を喚び起しているという事情がより重要であろう。その徴候を示す行動に対する予防的な対応を含め、犯罪に厳しく臨もうとする政策は、すでに多くの人びとの支持をあつめている。

★ 安全に対する過度の強調は、リベラリズムが自由を擁護するために重視してきた権力制限を脱する余地すら国家に与える危険性がある。実際、それは、テロリズムへの恐怖が日々の生活に貼りつくようになったアメリカ合衆国では、治安権力に情報の収集、家宅捜査、外国人の処遇などに関して通常の法の支配を大きく逸脱するような権限を与えているし(2002年に制定されたいわゆる「米国愛国者法」とそれにつづく一連の反テロ法を念頭においている)、日本においても2004年に施行された「国民保護法」には、「武力攻撃事態」と定義される事態においては「国民の自由と権利に制限が加えられる」ことがありうる旨が記されている。

★ 「人びとが生きる空間の分断」は、(…)この四半世紀における<市場>の圧倒的な優位――国家や労働組合等がそれに対して行使しうるコントロールの著しい低下――によって惹き起こされていると見ることができる。グローバル化のもとで常態となった熾烈な「自由競争」は、国家による規制やそれが担ってきた社会保障の機能を、経済活動の自由――資本移動の自由化、労働市場の柔軟化等――を阻害し、国際競争力や民間の活力を殺ぐものとして批判する力を<市場>のアクターたちに与えている。

★ 自由は、「国家の規制」VS.「市場の自由」あるいは「大きな政府」VS.「小さな政府」というきわめて単純な二分法に即して論じられ、前者から後者へと移行することが、あたかも自由の領域を拡張することであるかのように語られている。実際、この間に、国家の機能は社会保障という側面においては後退し、年金負担をはじめとする社会保障の負荷を企業からさらに取り除く方向での社会保障の再編が進められようとしている。

★ 「政治的なもの」(国家)は、「社会的なもの」(雇用保険や社会保障)との結びつきを弱める一方で、「経済的なもの」との結びつきを強めている。あるいはもっと直裁に、「政治的なもの」や「社会的なもの」は「経済的なもの」によって植民地化されつつある、とこの間の経緯を要約することもできるだろう。

★ 現代における自由への最大の脅威を「経済的なもの」の圧倒的な優位に見いだすとしても、その力を制御しうるはずの当の「政治的なもの」や「社会的なもの」が行き詰まりを見せているというのが、否定しがたい現実であろう。重要なのは、国家VS.市場というニ項対立の文脈を受け容れたうえで、国家の力量を性急に回復することではなく、この間の規制緩和や民営化が誰にどのような自由をもたらしたのか、誰からどのような自由を奪ってきたのかを認識し、その認識を「政治的なもの」「社会的なもの」「経済的なもの」の間の新しい関係の構想へと繋げていくことだろう(その際、「社会的なもの」の思想は、経済的・社会的格差の拡がりにたんに社会統合に対する危険性のみならず、「各人の自由な発展」に対する障害を見いだすところから展開しはじめたことが想起されるべきである)。自らが享受している自由のあり方を自ら批判的に評価し、私的な問題として受けとめられている問題を公共的な問題としてとらえ返す視野をひらくことは、そうした構想のためにも不可欠である。

<斎藤純一『自由』(岩波書店・思考のフロンティア2005)>






餌食

2013-10-07 09:07:12 | 日記

天木直人ブログ(2013年10月07日)全文引用;

<消費税増税に賛成する国民は官僚にとって格好の餌食である>

 きょう10月7日の各紙が、安倍首相が消費税8%増税を発表した後の世論調査結果を一斉に報じている。各社によって多少の違いはあるが、総じて世論の大半が消費税増税の決断を評価していることになっている。信じられない数字だ。しかしそれを見て私は世論調査が捏造されたとまでは言わない。

本当の事を知らされていない大多数の国民が、「仕方がない」と思って支持している結果だと思う。

なぜ「仕方がない」と思うのか。それは超高齢化社会に向かって財政負担が増すと思わされているからだ。しかしそのような国民は、官僚の次のような思惑を知ったらそれでも「仕方がない」と思うだろうか。

人口構成の大きな部分を占める団塊の世代はあと20年もすれば皆この世からいなくなる。
その後は少子化の結果人口は減っていく。

それでも消費税はなくならない。税率は下らない。その時官僚たちはあり余る税収入でやりたい放題だ。すなわち高齢化社会による負担は過渡的なものなのである。そして過渡的なものである以上、それは税制を変えなくてもやりくりすれば凌げる。その仕事をするのが公僕である官僚なのに官僚は悪知恵を働かす。

かつて年金未納問題が大騒ぎとなった時、年金制度の抜本的な見直しが論じられ、その議論の中で、年金制度を考え出した官僚の悪知恵が暴露された。

集めた年金が支払われるのは40年先のことだ。それまではその集めた金を好きなように使える。それは裏返して言えば、40年たってその金を支払わねばならない時は、世の中はどうなっているかわからない、どうとでも理由をつけて年金の支払いを誤魔化すことができる、ということだ。

その言葉どおり、金がたらなくなったから年金支払い年齢を引き延ばし、年金支払額がどんどんと削られている。消費税増税もまさに官僚の悪知恵が作り出した詐欺だ。今消費税を上げておけば後輩官僚たちはあり余った予算を好き放題に使えるのである。官僚組織は永遠であるというわけだ。私はそのような官僚の悪知恵を知っているから消費税増税に反対する。それどころかあらゆる増税に反対である。

国が破綻すればどうなるかって?国民は国がなくなってもやっていけるが官僚は国がなくなった瞬間に終る。国がなくなって一番困るのは官僚である・・・

(以上引用)