★ ヴァイマール体制を支えたリベラリズムへの批判は、すべてが崩壊し、亡命生活に入ってからも変わらなかった。亡命先からアドルノに宛てた手紙にはたとえばこう記されている。「ドイツに戻りたい気持ちはありますが、その郷愁には問題的な側面が備わっています。もしそれがヴァイマール共和国への郷愁だとしたら……まったくもって動物的愚劣さでしかありません」(1939年2月23日)
★ もちろん、進歩信仰への批判だけならベンヤミンにかぎられたことではなかった。ホルクハイマーもアドルノも共有していた。少し大胆に言えば、時代の危機、文化の問題性を多少とも敏感に感じとっていた知性の持ち主たちは皆、そうだった。
★ しかし、ベンヤミンはハイデガーに色濃い保守革命路線とも、共産党型の革命運動とも、いかにリベラリズムと進歩信仰への批判において共通しているとはいえ、やはり大きく異なっていた。ハイデガーの哲学的噴火のような文化批判に共鳴することは一度もなかった。すでにハイデガーの就任講演「歴史的時間の問題」をはっきり拒否しているし、30年代には、ブレヒトと一緒にハイデガーの「粉砕」も計画していた。
★ 他方、友人が共産主義に傾倒しているのではないかと心配する長年の友ショーレムに対してベンヤミンは、自分はいかなる幻想も持っていない、現状への抵抗からこの思想を採用しているだけだと述べている。「こうした対抗モデルは私にとってはいかなる生命的な力の影すら帯びていません」(1934年5月6日)。あるいは、自分が唯物論の学問に触れているのは、それが自分自身の長年の形而上学的な言語哲学と緊張関係を持っているからであるとも述べ、ハイデガー学派のような「深遠そうな理念の王国」よりはまだしも左翼のほうがましなのだと、スイスの高名な評論家マクス・リュヒナー宛の手紙(1931年1月2日)に書いている。
★ さらにベンヤミンは、以上のように保守革命および共産主義という対抗モデルからも距離を取っていたばかりか、個人的出自を共有する人々の多くが受け入れ、実行した脱出モデルにも燃えなかった。すなわちユダヤ人のヨーロッパ離脱、パレスチナ移住をめざしたシオニズムにも、心は揺れながらではあるが、熱くなることは終始なかった。
★ このように彼は、保守革命家でもなく、共産主義者でもない立場を、さらにはシオニズムでもない立場を追及していた。その意味では「立場」などというものを拒んでいるわけである。(…)リベラルな幸福主義でなければ、つまりラディカルであれば、よかったのかもしれない。決定しないままのラディカリズム、この自己撞着とも思えるものがベンヤミンの求めたアクチュアリティの後ろ姿であろう。
★ だが、まさにことがベンヤミンの文章や生活の理解を難しくしている。彼のアクチュアリティの後ろ姿でなく、それを前から見ることは意外と難しい。第一次大戦前は、ドイツ青年運動の流れをくむ自由学校運動に没頭し、精神の純粋性に生きようとしていた。やがてユダヤ神学的な思考とマルクシズムのあいだを最後まで揺れ続け、他方で、保守革命にも共産主義にも関わりをもった。初期の言語哲学や純粋な理念の追求という「形而上学的」主題と、一時期の恋人アーシャ・ラツィスや同じく深い交流のあったブレヒトに象徴される、社会主義に向けての実践的な批評活動、その両者のどちらも、多少の重点移動はあっても基本的には捨てないことが、ベンヤミンの追求するアクチュアリティのあり方だった。そこに文章の難しさや矛盾の理由があろう。
<三島憲一『ベンヤミン 破壊・収集・記憶』(講談社学術文庫2010)>
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