Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

恋の季節

2013-10-28 16:45:25 | 日記

岩谷時子さんが25日、肺炎のため死去した(97歳)


忘れられないの あの人が好きよ
青いシャツ着てさ 海を見てたわ

私ははだしで 小さな貝の舟
浮かべて泣いたの わけもないのに

恋は 私の恋は 空を染めて燃えたよ

死ぬまで私を ひとりにしないと
あの人が言った 恋の季節よ

恋は 私の恋は 空を染めて燃えたよ

夜明けのコーヒー ふたりで飲もうと
あの人が言った 恋の季節よ

恋は 私の恋は 空を染めて燃えたよ

夜明けのコーヒー ふたりで飲もうと
あの人が言った 恋の季節よ
恋の季節よ 恋の季節よ

<恋の季節>



ため息の出るような
あなたのくちづけに
甘い恋を夢みる 乙女ごころよ
金色に輝く 熱い砂の上で
裸で恋をしよう 人魚のように

陽にやけた ほほよせて
ささやいた 約束は
二人だけの 秘めごと
ためいきが 出ちゃう

ああ 恋のよろこびに
バラ色の月日よ
はじめて あなたを見た
恋のバカンス

陽にやけた ほほよせて
ささやいた 約束は
二人だけの 秘めごと
ためいきが 出ちゃう

ああ 恋のよろこびに
バラ色の月日よ
はじめて あなたを見た
恋のバカンス

<恋のバカンス>



哀しいことも ないのに なぜか 涙がにじむ
ウナ・セラ・ディ東京 ムー
いけない人じゃ ないのに どうして 別れたのかしら
ウナ・セラ・ディ東京 ムー

あの人はもう 私のことを 忘れたかしら とても淋しい
街は いつでも 後ろ姿の 幸せばかり
ウナ・セラ・ディ東京 ムー

あの人はもう 私のことを 忘れたかしら とても淋しい
街は いつでも 後ろ姿の 幸せばかり
ウナ・セラ・ディ東京 ムー
ウナ・セラ・ディ東京 ムー

<ウナ・セラ・ディ東京>





CARAVANSERAI キャラバンサライ

2013-10-28 16:02:46 | 日記

★ カルロス・サンタのアルバム『キャラバンサライ』の第1曲は「転生の永遠のキャラバン」と題されている。インドでの修業時代にサンタナに霊感を与えたグルの教えは、わたしたちのほんとうの自己はいくつもの身体とその生涯を宿としながら永劫の転生をの旅を続ける。わたしたちの個体とその<自我>はこの永劫のキャラバンの一期の宿(サライ)であるというものであった。インドの古い哲学の教えるところだ。

★ けれどもサンタナがウパニシャドの教えをこの魅惑的な比喩に具象化しようとした時、たぶん無意識につけ加えたものが二つある。第1にキャラバンサライは、数多くの隊商たちがそこで行き会い、共住し、また散っていく場所でもあった。第2にそのキャラバンサライは、隊商たちが行き会う結節点でありながら、そのことのゆえに、やがてそのうちのいくつかは自立する<都市>たちとして主体化し、逆に隊商たちを自在に支配するまでにも到る力の場であった。

★ 最古の諸文明がユーラシアと北アフリカのいくつかの地に発生し繁栄したその当初から、この大陸を数知れぬキャラバンの群れが往き来していた。バビロニアとエジプトの住居跡の最下層はすでに、これらの諸都市が隊商によってはるかな遠隔の地と結びついていたことを示す。

★ 紀元前3千年紀にすでに隊商は幾多の明確な隊商都市を形成していた。(……)これらの諸都市のうちの多くは1次的には、周辺の農耕、牧畜地帯の諸産物を交換する人びとの集散地として発生し、時には始めから遠隔の地の交易の、また政治的支配の基地として創設され、成長していた。都市はさまざまな仕方で2次的な、(時には幾重にも折り重なった仕方で派生的な)集住地であったけれども、それらはやがて自立化し、主体化し、そのもともとの形成者である周辺地域の共同体や遠隔共同体、<移動する共同体>たちをその支配下におくまでに至る。<近代>はこの都市から生まれた。都市の原理の普遍化が近代であった。人間の歴史の中で最大の事件はこの<都市>の発生とその主体化である。

★ 生命の歴史の中でこの<都市>の形成と比定しうる事件は、<個体>という第2次的な集住系の出現と、その<主体化>である。

★ わたしはこの稿を、<自我という現象>の謎を追って死んだふしぎな詩人にして科学者であったM.K.(1896~1933)に贈りたいと思う。

<真木悠介『自我の起源』(岩波現代文庫2008)>



★ 人がひとつの思想を見出して共感し、ほんとうに自分の生を方向づけ、意味づけするような力として獲得するのは、ほとんど「身体的」といってもいいような感覚の基底において、この思想と呼応し共振することがあるからである。

★ 「論理として」人が思想を論証し/反証する時でさえ、その論証し反証すること、その激しさや執拗さや静かさ等々は、思想の言語という形式のずっと以前に、語られない共感/反感の地層から噴き上げてくるものであり、あるいはこの地層に居を置いて透明に冴えわたったりしているものである。

★ 何に怒り、何を否定し、何を手放し、何に魂をゆり動かされ、何をこころにしみとおらせているのか。何にリアリティを感覚するか。リアリティを感覚しないか。<ほんとうのもの>をどこに見出すか。それとももう<ほんとうのもの>などを求めないのか。何に魅かれるか。どういうことばに魅かれるか。どんな生涯に魅かれるか。どのようなもの、どのような思考、どのような生活のあり方をはじめから感覚として排除しているか。

★ 感覚が形成されるのは、経験からである。意識の生成にずっと先立つ時期からの、家族の内や外、仕事の中、恋愛や友愛の中、街頭やメディアの中で、あたりまえのことであるかのようにくりかえされる、経験の歴史。反対に想像力の外部から突然のように襲い、それまでの自分の生の全体をばらばらに解体して去ってゆくような経験の歴史。これらの経験は、家族の関係や企業のシステム、恋愛と性の形式、都市やメディアの構造とそれらの変動をとおして個人に回帰して来るものである。

★ 自然の災害や遺伝の資質から来るものも、家族や職場や恋愛や性や都市やメディアの構造とその変動をとおして切実な現実として経験される。このように生きられている関係の構造とその変動は、都市化、消費化、情報化、虚構化といった、現代日本の基礎的な構造とその変動の様々な切断面である。だから思想の社会学は、感覚の社会学であり、経験の社会学であり、そして構造の社会学である。

<見田宗介『現代日本の感覚と思想』(講談社学術文庫1995)学術文庫版あとがき>





“本と旅する 本を旅する”

2013-10-28 09:02:53 | 日記

<毎日新聞社説:読書週間 読み聞かせが養う力> 2013年10月28日 02時35分

 秋が深まる中、27日から読書週間が始まった(11月9日まで)。今年の標語は「本と旅する 本を旅する」。老若男女が活字に親しむことで、生活を豊かにしたい。

 全国学校図書館協議会(全国SLA)と毎日新聞が合同で実施した「第59回学校読書調査」の結果がまとまった。注目すべきなのは、就学前に家でよく読み聞かせをしてもらった子ほど、読書量が多かったことだ。

 全国SLAと毎日新聞は毎年、小・中・高校の児童や生徒を対象に調査をしている。まず、その年の5月にどれだけ書籍を読んだかを調べるが、1カ月間の平均読書量は小学生10.1冊、中学生4.1冊、高校生は1.7冊だった。
 この10年間を振り返るといずれも微増傾向で、不読率(5月に一冊も読まなかった人の割合)も減っている。しかし、特に高校生でよく読む生徒とあまり読まない生徒との二極化が顕著だった。

 鮮やかな数字となって表れたのが、小学校入学前の読み聞かせが、よく本を読む子を育てていることだ。この10年ぐらいで、読書の習慣が学力の向上につながるという認識が広がり、乳幼児期の読み聞かせも重視されてきた。このため、「よく読んでもらった」という割合が、特に5年前に比べて大幅に増えた。
 そして、「よく読んでもらった」子は読書量が多く、不読率は小学生で4%、中学生で12%と低かった。幼児のころに本の楽しさを知ると、成長してからも読書が身近なものになっていることがうかがえた。

 幼児期の読み聞かせは、豊かな想像力を養う。自分が実際に体験していないことを心に思い描くのだから、当然だろう。また、使える言葉がどんどん増えていく。もちろん、子供と、読んで聞かせる人とのきずなが深まるきっかけにもなる。
 あるベテランの先生は「母親だけでなく、父親、祖父母、幼稚園や保育園の方々、誰でもかまいません。忙しかったら、寝る前の5分でも10分でもいい。本の選び方も難しく考えないで、自分が感動した本を読んであげてほしい」と話す。
 「ブックスタート運動」も関心を集めている。市区町村などの乳児健診などの機会に、絵本を贈る活動だ。全国SLAの小林功参事は「現物の本の力は大きい。保護者に早い時期に読み聞かせをすすめられる」という。

 国語力はあらゆる学力の根幹だ。たとえば、早い時期からの英語教育の必要性がしきりに議論されている。しかし、肝心の母国語の能力をつけないと外国語の習得などおぼつかない。読み聞かせの習慣をもっと広げ、子供たちに本という豊かな世界の魅力を知ってもらおう。
(以上引用)