Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

1984年6月、初夏

2013-10-03 19:15:59 | 日記

★ サルペトリエール病院の小さい病室のなかでミシェル・フーコーは友人たちに会う。(…)夏がすでにパリには輝き、病院の建物は広大な庭園のただなかにある。建物に達するには相当長く歩かなければならない。フーコーは笑う。冗談を言う。発売されたばかりの例の二つの本について発表された最初のいくつかの記事に論評を加える。以前より快方に向かっている様子だ。

★ 6月25日の午後のさかり、一通のAFP電が、数々の編集室に、ついで知識人社会に、驚愕をひき起こす。ラジオとテレビが「ミシェル・フーコー、死去」と報じたときだった。

★ 6月のその朝、きわめて早い時刻だった。そして太陽はパリの上にまだその姿を現していなかった。だが、ピチエ=サルペトリエール病院のうしろの小さい中庭には、数百名の人々がミシェル・フーコーに最後の敬意ささげようとしてすでに集合していた。長時間、待った。大いなる沈黙。ついで、かすれて、よく通らず、悲しみゆえに変わってしまった声が突然、聞こえてくる。

★ 「私を駆りたてた動機はというと、ごく単純であった。ある人々にとっては、私はその動機だけで充分であってくれればよいと思っている。それは好奇心だ。――ともかく、いくらか執拗に実行に移してみる価値はある唯一の種類の好奇心である。つまり、知るのが望ましい事柄を自分のものにしようと努める体の好奇心ではなく、自分自身からの離脱を可能にしてくれる好奇心なのだ。もしも知への執拗さというものが、もっぱら知識の獲得のみを保障すべきだとするならば、そして知る人間の迷いを、ある種のやり方で、しかも可能なかぎり容認するはずのものであってはならないとするならば、そうした執拗さにはどれほどの価値があろうか?はたして自分は、いつもの思索とは異なる仕方で思索することができるか、いつもの見方とは異なる仕方で知覚することができるか、そのことを知る問題が、熟視や思索をつづけるために不可欠である、そのような機会が人生には生じるのだ。[…] 哲学――哲学の活動、という意味での――が思索の思索自体への批判作業でないとすれば、今日、哲学とは何であろう?自分がすでに知っていることを正当化するかわりに、別の仕方で思索することが、いかに、どこまで可能であるかを知ろうとする企てに哲学が存立していないとすれば、哲学とは何であろう?」

★ これはフーコーの言葉である。『快楽の活用』への序文の一節だ。それを読みあげるのはジル・ドゥルーズ。群集は耳を傾けている。ミシェル・フーコーのたどった数知れぬ道を横切ったことのあるすべての人々、彼の数知れぬ姿の一つとなじんだことのあるすべての人々が混じり合っている多種多様な群集だ。大学の職場のなかで、政治闘争の場で、あるいはその双方の場で、友人関係のなかで、情愛関係のなかで…

★ 1989年の初頭、ささやかな本が刊行された。『コレージュ・ド・フランス年鑑』のためにフーコーが記した《講義概要》を、それは集めている。彼が書いた最後の概要は、《主体の解釈学》に当てられた。1981-82年度の講義にかんするものである。その末尾には、ストア派の教えにかんする以下の言及を読むことができる。
「死にかんする瞑想の独特の価値が生み出されるのは、世論では一般に最大の不幸と考えられている事態を、その瞑想があらかじめ思索するからだけではないし、また、その瞑想のおかげで、死は不幸にあらずということを確信できるからだけではない。自分の人生にたいして回顧の視線を、いわば先取りの思索によって投じうる可能性を、その瞑想こそが提供してくれるのである。自分は死に瀕しているのだと自分自身のことを考えることによって、われわれは現に自分が行いつつある行為の一つ一つをそれ独自の価値において評価することができる。(…)」

<ディディエ・エリボン『ミシェル・フーコー伝』(新潮社1991)第3部・第9章“一つの芸術としての人生”>

* なお、『コレージュ・ド・フランス年鑑』のためにフーコーが記した《講義概要》の翻訳は、『フーコー・ガイドブック』(ちくま学芸文庫2006)に収録されている。






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