Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

愚者の“民主主義”

2013-10-08 08:22:41 | 日記

<丸山健二ブログ “一刀両断”(2013-10-07 19:22:22)>引用(全文);

 民主主義とは、つまり、愚者たちの犠牲になることです。

 愚者が愚者たる所以は、賢者が賢者たる所以である極めて少数ということに反比例して、絶対的大多数を占めていることなのです。そうでなければ、選挙でもって、毎回毎回こんな連中を選び、投票するはずがありません。かつて有名人だったから、人柄がよさそうだから、顔立ちが好みに合うから、立派な学歴を持った、元偉い役人だったから、有名政治家の息子だから、握手してくれたから、土下座して涙を流してくれたから、孫を抱いてくれたから、息子や娘の就職や結婚に力を貸してくれたから、笑顔が素敵だから、地元に橋を架け、高速道路や新幹線を通してくれたから、原発や大企業を誘致して働き口を増やしてくれたから、一杯飲ませてくれたから、などといった、そんな呆れ果てた理由と口実でもって、熱心に選挙に参加する者が大多数なのです。

 要するに、選挙に打って出ようとする連中は、その事実をよくよく承知しており、一部の賢者など最初から相手にしてはいません。そんなことをすれば敗北するからです。

 愚者たちに的を絞り、欺きやすいかれらの心をかすめ取り、愚かに過ぎる票をかき集めて政治家になろうとする連中は、当然ながらまともな人間ではありませんし、ろくな輩ではないのです。勝利したあかつきには、かれらは必ずや、ぺこぺこ頭を下げ、媚を売り、愛想を振りまいた反動として、また、ひた隠しに隠していた本性をむき出しにして、元を取ることを考え、えげつない手段を用いて実行に移し、下世話な欲望を満足させようとします。これの繰り返しが選挙というものであり、民主主義なるものの実態なのです。この一点から目を逸らしてはならないでしょう。

(以上引用)






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2 コメント

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no philosophy (noga)
2013-10-08 10:54:18
> 本来はここで、村田奈津恵さんの死を無駄にしないためにも、国や政治家、警察やJRが踏切の危険性をなくすために、高架にしなければいけないと話で盛り上がって良いはずだ。> しかしながら、そんなニュースは全くない。> つまりは、美談でお終いで、彼女の死は 社会的には葬り去られてしまったと言うことになる。> 彼女の死を無駄にしないためにも、危険な踏切をなくすように動くべきだ。
同感です。政治音痴では務まらない。
> マスコミの社会性とは本来はお涙頂戴ではなく、今後に向けて、人々にどう動くべきかを訴え、それと同時に政治を動かすことだと思うがいかがだろうか。
同感です。政治は未来を規定する。だが、日本語には未来時制の文章はない。だから、日本人は未来の内容を表現しない。
我々には、’我々は何処から来たか’、’何者か’、’どこに行くのか’という哲学的命題を考える習慣がない。
これらの命題は、印欧語の時制 (過去・現在・未来) に対応しているが、日本語には時制がない。だから、我々は何処にも行かない。行くアイディアがない。
> なんだが、相も変わらず、情緒的なマスコミ。> これでまた悲惨な事故や、美談があったらば、あっと言う間に看板がすげ替えられると言うことでしかない。 
 日本語は、「いま、ここ」を表現するための言葉である。その内容は、次々と変わる。 



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Unknown (warmgun)
2013-10-08 13:46:54
noga さま

この丸山健二ブログを“引用”するのは、ちょっと迷ったんです。
つまり、ここに書かれていることは、“あまりにもあたりまえ”だからです。

けれども、この文にぼくが反応したのは、こういう“あたりまえ”のことを言う人がほとんどいなくなっているからです。

おっしゃるとおり、具体策なき“美談”とか“前向きに”とかが、特に震災・原発事故以降マスメディアや世間を席巻しているわけだ。
ぼくはもう先があんまりないので(笑)“未来”に期待しない(どうでもいい)わけではありません。

ぼくが、まだ本を読んだり、このブログを書いているのは、やはり“未来”が必要だからだ。
それと“ともに”、最近特に気になるのは、“過去”、それも自分が生きたこの“戦後”60余年とその前史です。

日本人の意識が、“現在”に囚われ、現在しか見れないことが、“時制”によるかどうかはぼくはあまり考えたことがありませんが、そうかもしれない。

それから“フィロソフィ”(西洋哲学)の受容と、その翻訳語(日本語)の関係についてもたしかにいろいろな“問題”はあると思う。
けれども、最近、『純粋理性批判』や『存在と時間』のようないちばんハードな古典についても新訳が出ていますね(ぼくは読んでないが)、つまり、“受容”は継続している。

そして、政治にしても哲学にしても、たんに“読めばいい”のではないけれど、自分の生活のなかから生じる問題に対して、“まなぶ”こと自体が、現状に流されず、あらゆる自由の圧殺に“あらがう”行動であると考えます。

“若者”にもっとまなんでほしい!
同時にぼくと同世代の引退老人にも、まなんでほしい(謙虚に、最後のたたかいを!)
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