Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

アンチ・オイディプス

2013-10-15 22:09:09 | 日記

ただ欲望というものと社会というもののみが存在し、それ以外の何ものも存在しないのである。

★ 社会的再生産の最も抑圧的な、また最も致命的な形態でさえも、欲望そのものによって生み出されるものなのだ。あれこれの条件のもとで欲望から派生する組織の中で生み出されるものなのだ。我々は、このあれこれの個々の条件を分析しなければならないであろう。

★ したがって、政治哲学の基本的な問題は、依然としてスピノザが提起することができた次の問題(この問題を再発見したのはライヒである)に尽きることになる。すなわち、「なぜ人々は、あたかも自分たちが救われるためででもあるかのように、自ら進んで従属するために戦うのか」といった問題に。いかにして人は「もっと多くの税金を!パンはもっと減らしていい!」などと叫ぶことになるのか。

★ ライヒが言うように、驚くべきことは、或る人々が盗みをするということではない。また、或る人々がストライキをするということでもない。そうではなくて、むしろ、餓えている人々が必ずしも盗みをしないということであり、搾取されている人々が必ずしもストライキをしないということである。

★ なぜ人々は、幾世紀もの間、搾取や侮辱や奴隷状態に耐え、単に他人のためのみならず、自分たち自身のためにも、これらのものを欲することまでしているのか。

<ドゥルーズ+ガタリ『アンチ・オイディプス』;國分功一郎『ドゥルーズの哲学原理』から引用>


ちなみに、河出文庫『アンチ・オイディプス』の宇野邦一の翻訳も参考にかかげる(どちらの翻訳が“良い”という比較をするためではない);

★ ほかのなにものでもなく、ただ欲望と社会的なものが存在する。社会的再生産の最も抑圧的、屈辱的な形態も欲望によって生産され欲望から出現する組織において生産される。まさに私たちは、この組織がどのような条件において出現するかを分析しなければならないだろう。だからこそ政治哲学の根本問題とは、スピノザがかつて提起したものと同じなのだ(それをライヒが再発見したのである)すなわち「何ゆえに人間は隷属するために戦うのか。まるでそれが救いであるかのように。」どうして人は「もっと税金を!もっとパンを減らして!」などと叫ぶことになるのか。ライヒがいうように、驚くべきことは、ある人びとが盗みをし、また別の人びとがストライキをするということではない。そうではなくて、むしろ餓えた人びとが必ずしも盗みをしないということ、搾取される人びとが必ずしもストライキをしないということである。なぜ人々は何世紀も前から、搾取や屈辱や奴隷状態に耐え、他人のためだけでなく、自分たち自身のためにさえも、これらを欲するようなことになるのか。






無人島

2013-10-15 13:31:23 | 日記

★ 自我に先立つ世界、自我がない世界。ドゥルーズはそれを「無人島」といういくぶん不思議な形象を通じて論じている。しかも、極めて早い段階において、である。1950年に書かれ、長きにわたって未発表のままであった草稿「無人島の原因と理由」がそのアイディアを伝えている。(…)或る雑誌の「無人島」特集号に掲載されるはずであったが、いかなる理由からか、掲載にはいたらなかった。

★ 「無人島の原因と理由」は不思議なテクストである。陸島と洋島という地理学上の区分から始まる論述は、「或る島が無人であるということは、我々にとって哲学的には正常なことと思われて然るべきなのだ」というきわめて難解な、どうやら哲学的テーゼらしい何かを経て、無人島なる形象の本質に、ドゥルーズ独自の視点で迫る。

★ “無人島文学”とでも言うべき、ジャン・ジロドゥ『シュザンヌと太平洋』およびダニエル・デフォー『ロビンソン・クルーソー』の名が挙げられて、前者は肯定的に、後者は否定的に論じられ、そこから一種の神話批判のテーマが掲げられて、論述は幕を閉じる。単行本で7頁ほどの短文であるが、以上から分かるように、話題は、地理学、哲学、文学、神話学など、多岐に及んでおり、また論述も高度に圧縮されているため、その全貌を紹介することはできない。ここでは、あくまでも超越論的経験論の序章としてこのテクストを紹介するに留める。

★ (…)その後『意味の論理学』の補遺として収録された「ミシェル・トゥルニエと他者のない世界」で、ドゥルーズはこの無人島の逆説をより論理的に解説している。これはミシェル・トゥルニエの小説『フライデーあるいは太平洋の冥界』を論じた書評論文だが、トゥルニエの小説自体がデフォーの『ロビンソン・クルーソー』に取材して書かれたもので、無人島に漂着したロビンソンを或る種の哲学的な目線で追う物語になっている。「他者」という論点からこの小説を読み解いたドゥルーズの論考が「無人島の原因と理由」に通底する主題をもっていることは間違いない。

★ 自我があって外界のものを対象化する作用を獲得するのではなく、対象化作用の獲得によって初めて自我が発生する。したがって、他者は知覚領域における対象ではないばかりではなく、私を知覚する主体でもない。知覚する主体/知覚される客体という構図そのものが他者によって成立するものだからである。他者がいなければ自我もない、という逆説。他者がもたらす最も根本的な効果とは「私の意識とその対象の区別」だということになるだろう。「この区別は、実際には他者の構造から帰結する」。この命題はもちろん、その反対命題を伴う――「他者が不在だと、意識とその対象はもはや一つでしかない」

<國分功一郎『ドゥルーズの哲学原理』(岩波現代全書001―2013)>

* 「無人島の原因と理由」の翻訳は、ドゥルーズ『無人島 1953-1968』(河出書房新社2003)の最初に収録されている。


(追記・感想; ”日本”というのは、やはり一種の無人島なのだろうか?)