Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

これからの民主主義;主権は民衆にある

2013-10-30 17:09:35 | 日記

★ 私たちが生きるこの社会の政治制度は「民主主義」と言われている。「民主主義」は「デモクラシー」の翻訳であり、「デモクラシー」は「民衆による支配」を意味するギリシア語の「デモクラチア」に由来する。民主主義とはつまり、民衆が自分たちで自分たちを支配し、統治することを言う。ここから一般に民主主義は、民衆が主権を有し、またこれを行使する政治体制として定義される

★ では、その主権はどのように行使されているか?
  主権者たる私たちが実際に行っているのは、数年に一度、議会に代議士を送り込むことである。つまり「民主主義」といっても、私たちに許されているのは、概ね、選挙を介して議会に関わることだけである。さて、議会というのは法律を制定する立法府と呼ばれる機関である。すると、現代の民主主義において民衆は、ごくたまに、部分的に、立法権に関わっているだけ、ということになる。

★ なぜ主権者が立法権にしか関われない政治制度(……)が、「民主主義」と言われうるのだろうか?それは近代の政治理論、あるいは民主主義の理論に、立法権こそが統治に関わるすべてを決定する最終的な決定機関であるという前提があるからだ。(……)近代の政治理論は主権を立法権として定義している。

★ 今問題にしている近代政治理論の前提とは、立法権こそが統治に関わるすべてを決定する最終的な権力、すなわち主権だ、という考えである。主権者が一定の領域内を支配し、治めることを「統治」と言う。近代の政治理論は、立法によって国家を統治することを目指したのだと言うことができよう。

★ 立法とは法律を作ることである。法律は作られたら適用されねばならない。国または地方公共団体が、法律や政令、その他条例などの法規に従って行う政務のことを「行政」という。国ならば省庁、地方公共団体なら市役所や県庁などがこの行政を担っている。さて、近代政治理論によれば、主権は立法権として行使されるのだった。すると、そこで思い描かれているのは、主権者が立法権によって統治に関わる物事を決定し、その決められた事項を行政機関が粛々と実行する、そういった政治の姿であることになろう。

★ たとえば日本の国政で言えば、国会が立法という形ですべてを決定し、各省庁に勤める官僚たちがそれを粛々と執行する……。地方自治体で言えば、市町村・都道府県の議会が条例設定・予算案承認といった形ですべてを決定し、市町村役場・都道府県庁の職員たちがそれを粛々と執行する……。そういう前提になっている。これは別に日本が独自に決めたやり方ではない。近代初期に、政治哲学によって作られた主権の概念に基づいて採用されているやり方である。

★ しかし、誰もが知っているし、しばしば指摘もされているように、議会が統治に関わるすべてを決定しているとか、行政は決定されたことを執行しているに過ぎないというのは誤りである。なぜなら、行政は執行する以上に、物事を決めているからである。

★ 実際に統治に関わる実に多くのこと、あるいはほとんどのことを、行政が決めている。しかし、民衆はそれに関われない。私たちに許されているのは立法権に(ごくたまに、部分的に)関わることだけだ。

ここにあるのは実に恐ろしいシステムである。主権者たる民衆は実際の決定過程からははじかれている。だが、にもかかわらず体制は民主主義の実現を主張できる。立法権こそが主権であり、立法権を担う議会こそが決定機関であるという建前があるために、民衆が立法権にさえ関わっていれば、どんなに選挙制度に問題があろうとも、どんなにその関わりが部分的であろうとも、その政治体制を民主主義と呼ぶことができる、そういうシステムが作り上げられているのだ。

★ ならば、これからの民主主義が目指すべき道は見えている。立法権だけでなく、行政権にも民衆がオフィシャルに関われる制度を整えていくこと。これによって、近代政治哲学が作り上げてきた政治理論の欠陥を補うことができる。主権者たる民衆が、実際に物事を決めている行政機関にアクセスできるようになるからだ。

★ 方向性は確認できたとして、では、行政権に民衆がオフィシャルに関われる制度としてどのようなものが考えられるだろうか?
ここでは私が思いついているものだけを列挙する。(……)近代の政治理論は、あらゆる政治イシューを議会という一つのアリーナに集約し、そこですべてを決するという一元論的な体制を構想してきた。それに対し本書は、問題の性格に合わせて様々な制度を活用できる、決定プロセスを複数化した体制を提案する。

★ 本書が提案する制度の一つは住民投票である。住民投票は行政が決定した政策に対し、住民が明確な意思表明を行う手段として有効である。現在のところ法的な拘束力はなく、一種のアンケートのようなものであるが、議会や行政がその結果を完全に無視するということは難しく、かなりの効果をもつ。ただ多くの場合、実施にまで至るのが難しい。住民投票の実施を請求しても、議会がこれをほとんどの場合斥けてしまうからである。この点に改良の余地がある。

★ 次に審議会などの諮問機関の改革。諮問機関は、政治家や役所が、ある案件について専門家を集め、そこで審議された内容をもとに政策決定を行うという組織である。しかし、多くの場合、そこに出席している委員の顔を見ただけで結論が見えると言われる。政治家や役所は、自分たちの政策の後ろ盾を得るために、検討するような振りをしてこうした組織を立ち上げることも多い。
したがって、その構成には何らかの制限が加えられねばならない。そして、これは問題の性格によって個別具体的に判断しなければならないものだが、住民・国民が必ず一定数参加できるようにしなければならない。

★ また、(……)この諮問機関を発展させた制度として、住民と行政の双方が参加するワークショップが考えられる。行政が決めて住民に説明するのではなく、行政と住民が一緒に考えるのである。
ただしこれには条件がある。(……)議論をうまく進めるための専門家が必要である。そこで、ファシリテーターと呼ばれる専門技能をもった人に参加してもらう。

★ 最後にパブリック・コメント。現在、行政が何かを行う際には周知期間を設け、広く意見を公募することが義務づけられている。しかし、いかなる意見が多数を占めようとも、当初の行政の決定が覆されることはなく、「広く意見を集めた」という言い訳のための手段に成り下がっているとの指摘が多い。(……)特定の意見が一定数あるいは一定のの割合を占めた場合には、当該事案の再検討を義務づけるなど、パブリック・コメントを形骸化させない制度が求められる。

★ 議会制民主主義には様々な問題がある。だが、議会制度そのものを根本から改変するのは難しい。しかし、そこに様々な制度という強化パーツを足し、議会制民主主義を補強していくやり方ならば実現は難しくない。制度を少しずつ増やしながら、たえまなく民主主義を強化していくことができる。(……)今後、様々な制度が強化パーツとして考案されていく必要がある。

★ 民主主義について考えるというと、私たちは民衆が立法権にどう関わっているか、どう関われているかという点ばかりを考えてしまう。つまり、立法府たる議会と民衆の関係ばかりを考えてしまう。しかし、現在の民主主義の問題を正面から考えるためには、立法権が議会に委ねられた時よりも前に遡らねばならない。立法権によって主権を定義し始めた時のことを問題にしなければならないのである。その定義は政治哲学によってなされた。だから、今の民主主義の欠陥に対して、哲学は責任を負っている。哲学に携わる者が、何としてでもこの問題を考え抜かねばならない。本書はそのためのささやかな貢献である。

<國分功一郎『来るべき民主主義』(幻冬舎新書2013)はじめに>





神の いない 世界

2013-10-30 13:57:51 | 日記

★ 第三者の審級――その代表が神です――が存在しているということ、つまり人々が第三者の審級の存在を信頼しているということは、どういうことかを考えてみるとよいのです。それは、必然的に「信仰の飛躍」を含意しています。信仰の飛躍というのは、根拠なしに、無条件に、「えいやっ」と飛び込むように受け入れるということです。神を信じること、あるいは神でなくても誰かを信じるこということは、ただ端的に、彼(彼女)、または彼(彼女)の言葉を受け入れるということです。

★ たとえば、こんな状況を想像してみてください。あなたが、何か、身に覚えのないことで嫌疑がかけられているとき、あなたが、親友や恋人に「俺はそんなことはやっていない、信じてくれ」と言うでしょう。そのとき、親友なり恋人なりがあなたに証拠を要求したら、ちゃんとした証拠があれば信じましょうと言ったとしたら、その親友や恋人は、あなたをほんとうには信じていないということです。その人がほんとうの親友や恋人であれば、あなたが真剣に訴えることを、無条件で、何の証拠など提示しなくても信じるでしょう。

★ このように第三者の審級が存在しているということは、無条件に受け入れられている前提がある、ということです。逆に言うと、第三者の審級が撤退し、存在しなくなるということは、すべてが反省的な選択の対象になっているということ、「ただ受け入れる」という部分が無くなっていることを意味します。

★ 今日、この惑星の進化や自然史について知られている事実からすると、地球の環境は、有機的な調和のとれた「自然」どころではなかった。そこには、現在恐れられている程度の温暖化とは比較にならないほどの環境の激変がありました。私たちが眼前にしているものとは比べものにならないほどの徹底した生物の消滅(大量絶滅)もあったのです。それらはしかも、いずれも、偶発的な要因――惑星の衝突や進化の暴走――によって惹き起こされているものです。それは、私たちが無意識のうちに「自然」に投影している、調和的な再生産の場どころではないのです。人間がその野生の姿の中で、まどろんでいられるような場所でもない。とするならば、エコロジストたちが称揚している「自然」とは、それ自体、幻想なのです。

★ 調和的な「自然」を、自然の本来の姿として受け入れるということは、そのような「自然」を創造したり、与えたりした「神」を信じているのと同じことです。信仰しているという自覚とは関係なしに、「自然」を無条件で受け入れれば、それは、特定の内容をもった第三者の審級を受け入れ、信じているということなのです。

★ こうしたことを前提にして考えてみると、私たちが、とりわけ今日の科学技術の進展とともに直面している事態が、いかに根源的で、大きなことであるかが、露になってきます。それは(与件・前提としての)「自然」の消滅です。

★ 今日の自然科学、とりわけ生命科学の発展を、それが潜在的に目指していることまで延長してみれば、自然が、もはや神から与えられた条件ではなく、人間による反省的な選択(……)の産物となりうる、ということなのです。自然は、今や、あらかじめ存在していて、人間があとから消極的に介入する対象ではない。そうではなくて、自然そのものが人間の自覚的な構築の産物となりつつあるのです。

★ 生命科学者は、人間によって作られた新たな生命のことを「Life 2.0」と、まるでソフトウェアのように呼ぶのだそうです。ということは、もともとの自然の生命は、「Life 1.0」だったという認識を裏打ちするものです。かつて「自然/人工物」の間には、越境できないような、質的な区別がありました。しかしLife 1.0とLife 2.0の差は、ただのヴァージョンの違いに過ぎませんから、相対的で連続的な違いしかありません。

★ 科学的な知見に依拠すれば、事実を、第三者の審級はもはや機能していないという事実を直視することができるのでしょうか。実は、そうはならないのです。逆に、現代社会では、科学的な知見こそが、最も強力な、事実を否認するスクリーンになってしまうのです。どういうことでしょうか。最初の方で述べたように、リスク社会のリスクの多くは、それが生起する確率を原理的に計算することができません。たとえば、地球の生態系の壊滅の確率など、原理的に算定不能です。あるいは、先進国のど真ん中でテロが起きる確率も計算できるものではありません。

★ ところが、科学は、原理的に答がないことにも、回答しないわけにはいきません。科学が提起していることは仮説ですから、嘘ではない。科学が主張することは、どんなに信頼性の高い通説でも、仮説は仮説ですから、結局、この件に関して「仮説」であるということは特に問題にはなりません。むしろ、科学は、その予想に、「客観性」を標榜する評価を持ち込みます。科学は、原理的に不可能なものに、客観的とされるような何らかの回答を与える。このとき、人は、それに自らが望むものを読み込んでしまうのです。

★ そして、今日の講義でやや詳しく紹介したように、市場においても、科学(金融工学)が、<恐怖>を否認する道具として機能したことを思い出してください。CDS(クレジット・デフォルト・スワップ)こそ、「第三者の審級の不在」を否認する、これ以上ないほど直接的な方法だったのです。最先端の(金融)科学的な裏付けをもった、<恐怖>否認の道具だった。

★ 奴隷は、自分の客観的真理を否認する限りで、死の恐怖の虜になっており、主人に隷属せざるをえません。これこそは、リスク社会の隠喩です。リスク社会は、第三者の審級(主人)がすでに撤退しているという真理を否認しようとしている社会です。

★ しかし、キリストの死は、第三者の審級の不在を勇気をもって引き受けることでした。

<大澤真幸『社会は絶えず夢を見ている』(朝日出版社2011)>