Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

一枚の写真;“あーやだやだ”

2013-10-01 14:30:16 | 日記

ここに掲げた写真ととも、現在“有名なひと”が以下のように述べている;
《 明日は、私の五十九回目の誕生日。総理番記者の皆さんから、お誕生日プレゼントを頂きました。いくつになっても、嬉しいものです。 》

いったい“これ”のどこが問題だろうか!

ぼくがこの写真を見た“村野瀬玲奈オフィシャルブログ”は以下のように批判している;

★ これ↑はまた、日本でのジャーナリズムと権力者の「仲間意識」、あるいは「共犯者関係」をよく象徴する写真です。

この写真に付いた、『この女性たちは、「喜び組」でいらっしゃいますか??』というコメントに笑いましたが、この女性たちは本人たちの意識がどうであれ、ジャーナリストではなくて、安倍のスポークスパーソンなんでしょう。さらに言えば、このうちの何人かは安倍の「積極的なファン」だと想像します。表面的に笑顔を保って安倍に本音を話させてそれを通じて「安倍政治の暴力性を世間に広く知らせよう」と考えている人はこの写真の中にはほとんどいないのではないでしょうか。ジャーナリズムとは権力の悪をあばく役割があるはずですが、この表情は本当に「喜び組」でしかないと思わざるをえません。こういうところから報道機関は政治と癒着し、権力とお仲間、いえ、暴政の共犯者となっていくのだと思いました。

さらに、首相番を若い女性に担当させるという報道機関の横並びのある種のセクシズム感覚。経験豊富なベテラン記者に男女区別なく担当させるという発想は報道機関にはないのでしょうか。あーやだやだ。
(以上引用)

ぼくはこの村野瀬玲奈に共感する。
この有名な人を中心とする権力は、消費税率を上げて、貧乏人からまたまたフンダクルのである(ケーキがよくなっても貧乏人にはなんの恩恵もないことは、歴史が証明している!しかもケーキがよくなる保障はなにもない)
まったく今の世の中ほとんどすべて、“あーやだやだ”である。




<追記>

もちろん“喜び組”は、この首相番の若い女性記者に限らない。
この“若い女性記者”を雇用するニッポン・ジャーナリズム組織に限らない。
老いも若きも、知識人(物書き先生)も、ただのひと(SNSでごちゃごちゃ言っているだけのひと)も、なにも言わない庶民とやらも、みんな“喜び組”でしかないこの社会が“あーやだやだ”なのである。
ドレイでいることが、安心で、居心地がよいというこの”伝統”のなかで生き続けるのはしんどい。





ベンヤミンの背中(彼はたしかにこの時代の先行者だった)

2013-10-01 13:19:46 | 日記

★ ヴァイマール体制を支えたリベラリズムへの批判は、すべてが崩壊し、亡命生活に入ってからも変わらなかった。亡命先からアドルノに宛てた手紙にはたとえばこう記されている。「ドイツに戻りたい気持ちはありますが、その郷愁には問題的な側面が備わっています。もしそれがヴァイマール共和国への郷愁だとしたら……まったくもって動物的愚劣さでしかありません」(1939年2月23日)

★ もちろん、進歩信仰への批判だけならベンヤミンにかぎられたことではなかった。ホルクハイマーもアドルノも共有していた。少し大胆に言えば、時代の危機、文化の問題性を多少とも敏感に感じとっていた知性の持ち主たちは皆、そうだった。

★ しかし、ベンヤミンはハイデガーに色濃い保守革命路線とも、共産党型の革命運動とも、いかにリベラリズムと進歩信仰への批判において共通しているとはいえ、やはり大きく異なっていた。ハイデガーの哲学的噴火のような文化批判に共鳴することは一度もなかった。すでにハイデガーの就任講演「歴史的時間の問題」をはっきり拒否しているし、30年代には、ブレヒトと一緒にハイデガーの「粉砕」も計画していた。

★ 他方、友人が共産主義に傾倒しているのではないかと心配する長年の友ショーレムに対してベンヤミンは、自分はいかなる幻想も持っていない、現状への抵抗からこの思想を採用しているだけだと述べている。「こうした対抗モデルは私にとってはいかなる生命的な力の影すら帯びていません」(1934年5月6日)。あるいは、自分が唯物論の学問に触れているのは、それが自分自身の長年の形而上学的な言語哲学と緊張関係を持っているからであるとも述べ、ハイデガー学派のような「深遠そうな理念の王国」よりはまだしも左翼のほうがましなのだと、スイスの高名な評論家マクス・リュヒナー宛の手紙(1931年1月2日)に書いている。

★ さらにベンヤミンは、以上のように保守革命および共産主義という対抗モデルからも距離を取っていたばかりか、個人的出自を共有する人々の多くが受け入れ、実行した脱出モデルにも燃えなかった。すなわちユダヤ人のヨーロッパ離脱、パレスチナ移住をめざしたシオニズムにも、心は揺れながらではあるが、熱くなることは終始なかった。

★ このように彼は、保守革命家でもなく、共産主義者でもない立場を、さらにはシオニズムでもない立場を追及していた。その意味では「立場」などというものを拒んでいるわけである。(…)リベラルな幸福主義でなければ、つまりラディカルであれば、よかったのかもしれない。決定しないままのラディカリズム、この自己撞着とも思えるものがベンヤミンの求めたアクチュアリティの後ろ姿であろう。

★ だが、まさにことがベンヤミンの文章や生活の理解を難しくしている。彼のアクチュアリティの後ろ姿でなく、それを前から見ることは意外と難しい。第一次大戦前は、ドイツ青年運動の流れをくむ自由学校運動に没頭し、精神の純粋性に生きようとしていた。やがてユダヤ神学的な思考とマルクシズムのあいだを最後まで揺れ続け、他方で、保守革命にも共産主義にも関わりをもった。初期の言語哲学や純粋な理念の追求という「形而上学的」主題と、一時期の恋人アーシャ・ラツィスや同じく深い交流のあったブレヒトに象徴される、社会主義に向けての実践的な批評活動、その両者のどちらも、多少の重点移動はあっても基本的には捨てないことが、ベンヤミンの追求するアクチュアリティのあり方だった。そこに文章の難しさや矛盾の理由があろう。

<三島憲一『ベンヤミン 破壊・収集・記憶』(講談社学術文庫2010)>