ここに掲げた写真ととも、現在“有名なひと”が以下のように述べている;
《 明日は、私の五十九回目の誕生日。総理番記者の皆さんから、お誕生日プレゼントを頂きました。いくつになっても、嬉しいものです。 》
いったい“これ”のどこが問題だろうか!
ぼくがこの写真を見た“村野瀬玲奈オフィシャルブログ”は以下のように批判している;
★ これ↑はまた、日本でのジャーナリズムと権力者の「仲間意識」、あるいは「共犯者関係」をよく象徴する写真です。
この写真に付いた、『この女性たちは、「喜び組」でいらっしゃいますか??』というコメントに笑いましたが、この女性たちは本人たちの意識がどうであれ、ジャーナリストではなくて、安倍のスポークスパーソンなんでしょう。さらに言えば、このうちの何人かは安倍の「積極的なファン」だと想像します。表面的に笑顔を保って安倍に本音を話させてそれを通じて「安倍政治の暴力性を世間に広く知らせよう」と考えている人はこの写真の中にはほとんどいないのではないでしょうか。ジャーナリズムとは権力の悪をあばく役割があるはずですが、この表情は本当に「喜び組」でしかないと思わざるをえません。こういうところから報道機関は政治と癒着し、権力とお仲間、いえ、暴政の共犯者となっていくのだと思いました。
さらに、首相番を若い女性に担当させるという報道機関の横並びのある種のセクシズム感覚。経験豊富なベテラン記者に男女区別なく担当させるという発想は報道機関にはないのでしょうか。あーやだやだ。
(以上引用)
ぼくはこの村野瀬玲奈に共感する。
この有名な人を中心とする権力は、消費税率を上げて、貧乏人からまたまたフンダクルのである(ケーキがよくなっても貧乏人にはなんの恩恵もないことは、歴史が証明している!しかもケーキがよくなる保障はなにもない)
まったく今の世の中ほとんどすべて、“あーやだやだ”である。
<追記>
もちろん“喜び組”は、この首相番の若い女性記者に限らない。
この“若い女性記者”を雇用するニッポン・ジャーナリズム組織に限らない。
老いも若きも、知識人(物書き先生)も、ただのひと(SNSでごちゃごちゃ言っているだけのひと)も、なにも言わない庶民とやらも、みんな“喜び組”でしかないこの社会が“あーやだやだ”なのである。
ドレイでいることが、安心で、居心地がよいというこの”伝統”のなかで生き続けるのはしんどい。