Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

アサリの気持

2011-06-05 09:50:48 | 日記


ぼくが子供の頃、“メロンの気持”という歌があったと思う。


<震災、アサリにもストレス 東邦大調査、殻の模様に異変>アサヒコム2011年6月5日5時47分

 福島県の沿岸で、二枚貝のアサリの模様に東日本大震災の影響とみられる異変が起きていることが、東邦大学の大越健嗣教授らの調査で分かった。9割の個体で殻の途中に溝ができ、それを境に色や模様が変わっていた。津波で環境が激変したことによるストレスが主因とみられるという。






ところで、(話題変わるが)、‘あらたにす新聞案内人’で元朝日新聞編集委員の松本仁一というひとが“サファリスーツのすすめ”というのを書いている、引用します;

《イスラエルの政治家やビジネスマンは服装にこだわらない。初代首相の故ベングリオン氏はネクタイをしたことがなく、英エリザベス女王との会見も開襟シャツで押し通したそうだ。
 外相のペレス氏と会見したとき、開襟シャツのことを尋ねてみた。ペレス氏は答えた。「私たちはこの国の将来に責任を持っている。問われるべきは私たちがそのために何をしたかであり、私たちが何を着ているかではない」。
 周りを「敵」に囲まれ、ひとつ判断を間違えるとイスラエルという国がなくなってしまう。そんなときに国民が政治家に求めるものはスーツではないのである。》
(以上引用)


“元朝日新聞編集委員”というのは国際経験豊かなひとらしいのである。
ちょっと“経歴”を見てみる;

《まつもと・じんいち 1942年長野県生まれ。1968年東京大学法学部卒。朝日新聞社に入り、社会部員、外報部次長、ナイロビ支局長、中東アフリカ総局長、編集委員を歴任した後、2007年に退職。以後、フリーのジャーナリストとして活動中。
 ボーン・上田国際記者賞、日本記者クラブ賞、日本エッセイストクラブ賞等を受賞。著書に「アフリカ・レポート」(岩波書店)、「カラシニコフ」(朝日新聞社)など。》(引用)


すんばらしい、御経歴である。

こういう“人生経験ゆたか”なひとの言っていることは、“聞くべき”であろうか!
すなわち、“この夏は、みなさん、サファリスーツで行こう!”。

しかしぼくには、疑問がある。

《周りを「敵」に囲まれ、ひとつ判断を間違えるとイスラエルという国がなくなってしまう。そんなときに国民が政治家に求めるものはスーツではないのである。》


この“元朝日新聞編集委員”の国際感覚とは、

イスラエルを取り囲む“国”を、<敵>と見る価値観(世界観)を疑わないのである。

もちろん、問題は、“スーツ”の種類ではない。

数々の賞をもらっている“ジャーナリスト”の国際感覚は、この程度である。


バカ!






小岩井農場へ

2011-06-04 10:01:00 | 日記


今年、2011年も、春がきて、初夏がきて、梅雨の季節にはいろうとしている、また酷暑の夏が来る。

この間、ぼくの頭に浮かぶ言葉があった。
この間は、たんなる季節の推移(繰り返される)ではないことも起こった。

《雪が往き
 雲が展けて(ひらけて)つちが呼吸し》


ぼくはこのフレーズをこの言葉どおり暗記していたのではなかった。
これが、どこで読んだ一節かも記憶していなかった。

天沢退二郎『宮沢賢治の彼方へ』(ちくま学芸文庫)で、この言葉が、宮沢賢治“小岩井農場・パート一”にあることがわかった。

この天沢退二郎の本も、断続的にしか読んでおらず、まだ中途である。

“きれぎれ”なのだ。

いまこのブログを書こうと思っても、この『宮沢賢治の彼方へ』に引用されている、“きれぎれ”な賢治の詩句をさまようばかりだ。

いちおうちくま文庫版『宮沢賢治全集Ⅰ=春と修羅、春と修羅補遺、春と修羅第二集』を机の上に出す。


(私はどうしてこんなに
下等になってしまったらう。
透明なもの燃えるもの
息たえだえに気圏のはてを
祈ってのぼって行くものは
いま私から 影を潜め)



これは、賢治自身が”小岩井農場”から削除したパートにあった。

『春と修羅』におさめられた“小岩井農場”はパート1からパート9までで構成されているが、パート5、パート6は、削除されている。

《二つのパートを賢治はなぜ省いたのか?》(天沢退二郎)



わたくしはずゐぶんすばやく汽車からおりた
そのために雲がぎらつとひかつたくらゐだ



これが、“小岩井農場”の書き出しである。
天沢退二郎は、賢治が、“詩を書くために”、小岩井農場に行ったことを跡付けている。

すなわち賢治は、手帳とシャープペンシルを持って、歩きながら、詩を書いた(試みた)
もちろん、賢治の詩も童話も、それからおびただしい推敲(書き直し)をともなうものであった。
(そこで、“パート5と6”は削除された)



たむぼりんも遠くのそらで鳴つてるし
雨はけふはだいじやうぶふらない


というフレーズの“たむぼりん”に、ぼくはボブ・ディランの“ミスター・タンブリン・マン”を想起する。
すなわち、ここで(ぼくのなかで)、賢治とディランが出会う。


現在、“時事的に”、<東北>は話題である。

“東北の人”、宮沢賢治。

ぼくのルーツも東北にあり、ぼくはそれを“誇る”だろうか?

いや、宮沢賢治こそ、(ぼくにとって)、唯一の“日本の近代人”である。
漱石ではない。



《幻想が向ふから迫つてくるときは
 もうにんげんの壊れるときだ》


ユリア ペムペル わたくしの遠いともだちよ
わたくしはずゐぶんしばらくぶりで
きみたちの巨きなまつ白なすあしを見た
どんなにわたくしはきみたちの昔のあしあとを
白亜系の頁岩の古い海岸にもとめたらう
(小岩井農場パート九)



宮澤賢治は、自己滅却の求道者だったか?
あるいは、ナイーブな“童話作家”、 素朴な東北の田舎者だったのか?


<ポストモダン>は、震撼せよ。
<ジャック・デリダ>は、‘こむらがえり’せよ(笑)


このひとがいたから、東北はあかるい。

このひとがいたから“日本の近代”に絶望しないで、すむ。



わたくしという現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(『春と修羅』序)



いかりのにがさまた青さ
四月の気層のひかりの底を
唾し はぎしりゆききする
おれはひとりの修羅なのだ
(風景はなみだにゆすれ)

まことのことばはうしなはれ
雲はちぎれてそらをとぶ
ああかがやきの四月の底を
はぎしり燃えてゆききする
おれはひとりの修羅なのだ
(“春と修羅”)




雪が往き
雲が展けて(ひらけて)つちが呼吸し



ぼくはまだ読み始めたばかりだ、

ぼくはまだ歩き始めたばかりだ。







言葉

2011-06-04 07:15:33 | 日記


ぼくが今朝起きて見たツイッターから;

takagengen 高橋源一郎
「ぼくがやるよ」というしんちゃんの大声で目が覚めました。寝言です。でも、気がついたら、たいへん珍しいことに、しんちゃんがおねしょをしておりました。着替えさせて、洗濯中。でも、しんちゃんもれんちゃんもまだ寝ています。穏やかな週末、ではちょっと「恋する原発」の続きを書きます。

ryohatoh 波頭亮
kenichiromogiがリツイート
日本の政治を良くするために、気を取り直して今後も出来ることをしていきましょう、と茂木さんに言われました。茂木さん偉い。そう思います RT @bixametica: 茂木さん(@kenichiromogi)や波頭さん(@ryohatoh)も、今の与党執行部は本当にだらしがないし…

levinassien 内田樹
昨日は「菅首相、退陣を示唆」という号外まで出たのに・・・人間ここまで「食言」してよろしいものでしょうか。でも、今日不信任案出していたら、絶対可決されていましたね。菅さんの無表情には鬼気迫るものを感じます。
15時間前

(以上引用)



いくらでもこういう<言葉>を貼り付けられます。

すなわち、毎日、毎分、毎秒、“言葉”は生産されています。

ある言葉は、有料で、ある言葉は“タダ”なんです。

それだけです。

今日のぼくのブログ(無料)は、以上で終了して“よい”と思う。


しかし不親切かもしれない。

不親切なブログは、アクセス数を稼げない。

<ぼくのブログ>は、もともと不親切なので、けっして毎日200人の“訪問者”以上に広がらない。
ぼくが“有料で”本を出したところで、売れません。

もちろん売れない本を出す出版社は、ありません。

だから、ぼくは“資本主義”に反対なんです。

(笑)

日本で、“いちばん売れた人”が、<虚言>しか言わないわけだ。

ぼくが、プルトニウムや永遠に消滅しない核廃棄物より怖いのは、“言葉が無意味になることだ”といくら言っても、“わからない”ひとには、永久にわからない。


虚偽による言葉の無意味化、というのも、“汚染”します。

いまおこっていることは、“それ”ですよ。

神がいるなら、そのひとが一生にどれだけ無意味な言葉を使用したかを、“計量化”して、地獄でのランキングを決めてほしい。

しかし、神はいないわけだ。

まあこういう“高級な”はなしをしても、だれも“わからない”、自分にも“わからない”。


それで、わかっていることは、<汚染>なんだよ。

つまり、ぼくはもともと、“しゃべれない”ひとだし、このブログも、“やっと書いている”。

得意なのは(と自分で思ってる)ことは、読むことだった。

ところが、原発事故以来、この“読むこと”が(さえ)、機能不全におちいってきた。

以上を、“簡単に”(だれでもわかるように)言えば、本が読めない。

<読めない>ことは、ぼくにとっては、個人的な危機なんだ。

“個人的な危機”というのは、一般に、“一般人”には、カンケーない。

ゆえに、こんな“個人的な問題”は、ブログに書くべきでない。

“書くべきでない”ことを書くのも、このブログの特徴(ユニークネス=そんな英語あったかな?)である。


あらゆる“メディア”を使って、<書くべきこと>を書いている=言っている人々に、幸いあれ!

地獄が君を待っている。


ぼくは、個人的に、<読書計画>を立て直す。

死ぬまでは生きている。

日本列島が核汚染されようと、デジタル電波やソーシャル・メディアで、全世界が(痴呆)汚染されようと。

ぼくには、死ぬまで、感情は、ある。






グロテスク

2011-06-02 19:55:09 | 日記


今日の午後中テレビで、“不信任案否決”を行う、奇怪な国会中継をずっと見ていた。

もう見たくもない顔がぞろぞろ出ていた。

彼らは、野次を飛ばし、居眠りをし、わけもなくニヤケ、壇上で賛成とか反対とかの“演説”が行われているのを無視して次々と不信任案に賛成するひとりの議員を“説得”するため、抱きつかんばかりであった(議場入場の際には、実際に抱きついてその議員を拉致した;笑)

演説するひとも、まったく心にもない“被災地の人々のために”を選挙演説の習慣から“連呼”するばかりである。
“反対”演説の民主党若手議員は、議場の他の議員に“反対投票をお願いします”と土下座せんばかりであった(笑)

国会とは、論議する場であって、“連呼”とか“土下座”などをする場ではないはずであった。
戦後60年、まったく進歩しないグロテスクな“田舎芝居”を見せつけられた。

ぼくは、もう二度とこういう人たちの顔を見たくない。
つまりこの人たちの存在は、“グロテスクな顔”(あるいはスーツに隠されたボテ腹)であって、彼らの“言葉”ではない。

この中継を経てテレビスタジオでは、また別の“したり顔”した人々のご大層な“解説”が展開された。
またもや、言葉は、徹底的に愚弄された。

自分の利権と保身にしか関心のないテレビ・タレントども。

彼らにとって言葉とは、いかに自分に有利になるかを獲得するためのトリック=手段でしかないのだ。

ぼくは“政治家”のみに言っていない。

原発事故の今後の行方も恐怖だが、この“日本語の壊滅”こそ、最大の危機である。

疲れてかすむぼくの視界には、“大津波と原発爆発”で粉々に壊滅する国会とテレビ局が見えた。








リアリズム

2011-06-02 12:30:21 | 日記


★ けれども、私は真に効果的な小説を完成する希望を捨ててはいません。それは(略)読者大衆の真実尊重の傾向――つまり心理分析とか明確な例証という支配的な流れにつながる傾向にではなく、その感情面に訴えるものなのです。

★ そこには、踏査すべき巨大な処女空間があり、凍結したままの広大な地域が著者と読者の間にひろがっていると思われます。この踏査は、ユーモアから素朴さに至るあらゆる種類の共感をとおして行われるべきであり、体系的精確さをもって行われるべきではありません。

★ 朗読する人と聴く人の間では、ある特定の瞬間において、話を信ずる気持がはっきりとし、形を取ってきます。(略)文章が何かちょっとした逸話めいたもの、家庭的なものを通じて働きかける瞬間。一枚の風景画とか、大衆新聞の大長編連載物語や映画のストーリーを前にしたときのように、どんな女の子でも思わず「まあ」と溜息をつき、そうすることによって、それまで行間にあった空虚を充たすはずの、そんな瞬間です。

★ 私に言わせれば、書くこと、伝達することは、相手が誰であれ、事柄が何であれ、信じこませることができるということに他なりません。絶え間なく厚かましさを貫くことによって、はじめて、読者大衆の無関心という防壁を揺るがすことが可能なのです。

★ 『調書』には、軍隊から出てきたのか、それとも精神病院からなのかよくわかっていなかった男の話が語られます。(略)リアリズムなどまるで気にしませんでした(現実などは存在しないという感じが私にはだんだん強くなって行くのです)。

★ 私が訂正したあとにもまだ文中に残っているかもしれない、ぴったりしない表現や誤植についても、同じくあらかじめお詫びしておきます(私は自分で原稿をタイプせねばなりませんでしたし、しかも両手の指一本ずつしか使えなかったのです)。

★ 最後に申し上げさせて頂きたいのですが、私は、ある若い娘の死の翌日に起こることをできる限り単純に語る、もう一つのはるかに長い物語を書きはじめております。

<ル・クレジオ『調書』(新潮社2008、原著1963)>






古舘伊知郎は菅直人よりエライのか?

2011-06-02 10:27:24 | 日記


現在、6月2日の午前中、“不信任案”が通るかどうかわからない。

昨夜、“報道ステーション”を見たら古館伊知郎というひとが、この“権力ゲーム”について怒ってみせた。

今日の“天声人語”でも、“B級コメディー”という表現がとられた。

この“日本の政治=B級コメディー・権力ゲーム”は、《制作費の大半が血税》であり、この“ゲーム”は、空前の災害で被災地で苦しむ人々の前で演じられている。

しかし古舘 伊知郎や天声人語や朝日新聞に、それを“批判する資格”があるのだろうか。

ない。

“ない”どころではない。

“彼ら”は、その《B級コメディー・権力ゲーム》によって稼いでいるのだ。

今日の天声人語を引用する;

ざっと見て、いまの日本には「戦場」が三つある。津波で多くの命と財産を失い、10万人が避難所で暮らす東北の被災地。内外に放射能と不安を広げる事故原発。そして、これらに一丸であたるべき者たちが争う国会だ▼谷垣自民党総裁は、菅首相との討論で「だからお辞めなさい」と迫り、内閣不信任案のカードを切った。震災という共通の敵が暴れている時に、陣内で斬り合ってどうする▼菅おろしの勢力は「震災で政権延命を図るな」と批判するけれど、国難の政治利用ならお互い様だ。「被災者のため」と言い張る野党に、民主党の「党内野党」が呼応する。これが政策にかこつけた政局でなくて何だろう▼領土問題などでの「甘さ」に我慢ならない保守論壇も、震災対応の不手際をここぞと攻め立てる。曰(いわ)く、この首相では国が滅ぶ。では空前の大災害を、誰がいかに収めるというのか▼経済学者の浜矩子さんが、「絶句につぐ絶句……仕事しろ」と政治状況を嘆いておられた。情けないのは右往左往する与党議員だ。とうに政党の体をなさぬ民主党ながら、党に残ったまま不信任に賛成するのはずるい。造反といえば格好いいが、信念より打算が見え見えである▼ベトナム戦争の最前線を命がけで取材した開高健は、戦場を「ウソのないたった一つの場所」と書いた。作家の定義に従えば、永田町は戦場の名に値しない。しかもこのB級コメディー、制作費の大半が血税だから泣くしかない。せめて短編で終わりますように。(引用)


なぜ、今日、“大メディア”は、しがない(権力のない)おばさんのように、
《せめて短編で終わりますように》(引用)などと“言える”のだろうか。

この文章(言説、言葉)の責任の<主体>は、いったいどこにあるのか。

なんどでも言う。
天声人語は、“しがない”おばさん、ではない。
天声人語や古館伊知郎は、強大な<権力>によって保護され、高給を稼いでいる。

彼らは、そのギャラに見合った、言葉を発しているのか?
その自分の言葉に、いかなる責任を負っているのか?

この世のあらゆる悲惨に、怒ってみせたり、なげいてみせたり、《……でありますように》などとまったく無益な願望を、幼児のように、痴呆のように、垂れ流しているだけだ。

まさにこの<演技>こそ、《B級コメディー》である。

しかもそれは、《権力ゲーム》からカネをもらっている。

テレビや新聞が、東京電力から、いかに“カネをもらってきたか”も、この原発事故であきらかになった事態である。

もちろん、問題は、“朝日新聞社”とか“東京電力”とかの個別企業だけの問題であるはずがない。
まさにそれは、“日本国”、“日本社会”、“日本人”のシステム=関係性の問題であると同時に、日本という場所に生まれ、<この世界>との関係の中で、生きていく<私>の問題である。

それは、<戦場>である。

開高健が、《戦場を「ウソのないたった一つの場所」》と書いたのは、そういう<意味>である。

開高が“体験した”ベトナムの戦場は、どこにでもある。

どの戦場のさなかでも、うまく立ち回って得するやつらは、いるのである。

しかし、《ウソのないたった一つの場所》を求める人々もいるのである。



ぼくと同じように、“ギャラなしで”文章を書き続けている不破利晴の最新ブログの最後の段落を引用する;

「被災地で自ら命を絶つ人々」は、そんな国土全体を覆うような浅薄さに決着をつけるために自死を選択するように思われてならない。当然、そこにはTVでの仮想現実と真の現実との大きな乖離があることは言うまでもない。そん中、我々は何を考え何をすべきなのか。基本的姿勢はどうあるべきなのか。実は哲学的問題以上に大問題なのだが、悲劇的なのは実際に我々も同じような当事者にならなければ永遠に分からないであろうことだ。
 亡くなった方々の冥福を祈る。