Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

2011-06-05 12:13:45 | 日記


昨日の茂木健一郎連続ツィートです、下から上へ読んでね;

kenichiromogi 茂木健一郎
以上、「パターナリズム」(「父権主義」)についての連続ツイートでした。
6月4日

kenichiromogi 茂木健一郎
パタ(9)親が小さく見えた時、人はきっと大きく成長している。国が小さな、頼りなく、情けない存在に見えた時初めて、私たちは精神的に一人立ちできるんじゃないかな。国なんて、所詮そんなもんだよ。だって、不完全で弱い人間が集まってできている幻想に過ぎないんだから。
6月4日

kenichiromogi 茂木健一郎
パタ(8)子どもは、最初は親に頼るが、そのうち大きくなって、自分で生きるようになる。それから、親の面倒を見るようになる。日本人はいい加減に、パターナリズムの幻想から覚めて、自分の足で立つようになったらどうだろう。
6月4日

kenichiromogi 茂木健一郎
パタ(7)国がだらしないとか、政治家がダメだとか、そういう言説を信用しない。「しっかりと保護してくれるはずだ」というパターナリズムに対する期待の裏返しに過ぎないからである。国だって政治家だって、しょせんは人間。あなたや私と同じように、不完全なのだ。
6月4日

kenichiromogi 茂木健一郎
パタ(6)情報を隠蔽していた、というのもパターナリズムの裏返しである。隠蔽していたも何も、最初からたとえば英語圏にはその情報があったりする。言葉の壁を考慮しても、自分で情報を集めようとすれば、それはとっくに存在しているものだったりするのだ。
6月4日

kenichiromogi 茂木健一郎
パタ(5)「パターナリズム」が、日本で飛び交う言葉の背後に見え隠れする。大新聞が社説で「国はもっとしっかり」などと書くのも、その一例である。国はどうせ大したことをやってくれないんだから、自分たちでさっさとやるよ、という気持ちが、そこには感じられない。
6月4日

kenichiromogi 茂木健一郎
パタ(4)どうも、日本人は、国というものを何でもやってくれる親だと思っているところがある。だから、裏切られると怒る。わめく。なんでやってくれないんだ、と追及する。しかし、それは裏返すと、国が面倒を見てくれるはずだ、という期待があるということである。
6月4日

kenichiromogi 茂木健一郎
パタ(3)子どもは、親が何でもやってくれるものと思っている。その期待が裏切られると、地団駄踏んで泣いたりする。どうして買ってくれないんだよ〜! そのうち、親もまた人間であり、完璧ではなく、いろいろ欠点もあるのだということが見えてくる。
6月4日

kenichiromogi 茂木健一郎
パタ(2)TEDでは、組織や、肩書きがあればいい、などとは誰も思っていない。大切なのは、「広げるに値するアイデア」だけ。政府に期待だとか、補助金がどうのとか、そんなことを一人も言っていないのは、きわめて爽快であった。
6月4日

kenichiromogi 茂木健一郎
パタ(1)「広げるに値するアイデア」を議論する場として注目されているTED (http://www.ted.com/)に参加した時のこと。3日目くらいに気付いた。誰も、連邦政府に言及しないし、大組織の話もしない。みんな勝手にやっている。
6月4日

(以上引用)



これに対する内田樹の反応(下から上へ);

levinassien 内田樹
ですから、日本を冒しているのは「パターナリズム」ではなくて、実はinfantilism なんです。
6月4日

levinassien 内田樹
日本の「父」はアメリカです。安全保障も、領土問題も、国際条約も、隣国との外交も、すべて「父」の許諾なしには決定できないという事実を「そのまま」受け容れた人たちが政治家になり官僚になり文化人になりメディアの発信者になっている。
6月4日

levinassien 内田樹
それは「日本は主権国家ではない」という事実を「屈辱」として感じていた世代が社会の第一線から消えて、その事実を「自然」だと感じる世代がエスタブリッシュメントの中枢を占めるようになってから、意識の前景から消えたのだと思います。
6月4日

levinassien 内田樹
おはようございます。今日は神戸は洗濯日和です。シーツ洗っちゃお。昼から合気道のお稽古、明日の支度をしてから、夜は元町でフレンチなのであります。茂木さんがパターナリズムについて書いてますね。でも、日本人のパターナリズムが強化されたのは、やはりこの30年くらいじゃないかと思います。
6月4日

(以上引用)


“infantilism”を電子辞書ジーニアス英和でひいてみる;

“infantilism“ではのってない。

“infant”がある;
☆ 幼児、小児、乳児
☆ 児童、学童
☆ 未成年
☆ 動物の子
☆ 初心者、新米


だから“infant”の“ism”なんよ。



茂木健一郎=1962年生まれ
内田樹=1950年うまれ


ここで問題となっているのは、“パターナリズムpaternalism(父権主義)”らしい。

茂木が“父権主義”を言ったのに対して、内田が“幼児化”を対置した。

しかし、このような論議に、なにか<意味>があるんですか?


幼児は、<父>を批判して(否定して)大人になる。

ぼくにも、幼児たった頃は、ほぼ60年前にあった。

しかし、ぼくには、父はいなかった

父を前提として語るひとの論議は、ぼくには、無意味である。



世界が狭いひとたちの“気の利いたおしゃべり”には、うんざりだ。

結局、このひとたちも、<父権主義=権威主義=保守主義>にすぎない。


ぼくはもっとダイレクトに世界を読みたい。







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