Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

建築への意志

2009-06-25 22:14:45 | 日記

★ われわれの観点からみれば、プラトンはけっしてイデア的なものの「存在」を、あるいは知の基礎を安易に提示したのではない。実際、彼は哲学者=王を実践しようとして惨めな失敗をしている。彼は「不可能なもの」を想像的に実現したのである。この点からみれば、プラトンがその対話篇を、ソクラテスの殺害からはじめていることは象徴的である。以後の著作にソクラテスはさまざまなかたちであらわれる。しかも、われわれはたえず、そのソクラテスがすでに殺されたのだということを想起させられるのだ。そして、ソクラテスは彼を処罰した「法」の不滅性を証明するためにあえて自殺したことになっている。そのことは、イデア的なものの実現の「不可能性」を示すことであり、同時に、それを実現せねばならないという建築への意志を反復的にかき立てるものである。要するに、たんにイデア的なものの不可能性をいうことは、プラトンを否定することにはなりえない。

★ フッサールは、20世紀の形式主義が、数学だけでなく、あらゆる領域に浸透せざるをえないことを察知していたといってよい。それは今日ではコンピュータ科学や分子生物学に典型的にあらわれる。つまり、19世紀の人たちが、最後の牙城として残しておいた、精神、生命、詩といったものにそれが浸透するのである。1930年代には、それに対する反撥が「非合理主義」として爆発した。政治的には、ファシズムである。その渦中においてこそ、フッサールは、この形式のステータスを問うたのである。彼の周りには、社会そのものを党(哲学者=王)によって合理的に建築しようとするスターリニズムと、それに対抗して非合理的な情念的なものを解放するファシズムがあった。フッサールの姿勢は、そのいずれでもない。

★ 実体に対して関係を、同一性に対して差異を優越させる「哲学」は、すでにテクノロジーとして実現されている。われわれは、思弁的なものではなく現実化した「差異の哲学」に追いつめられている。たとえば、人間には機械と異なる「精神」があるということはできない。むしろ、コンピュータ(人工頭脳)を根底におくことによって、人間はいかなる意味で人間的なのかが問われなければならない。ロマン主義が神秘化してきた「生命」は、分子生物学によっていわば徹底的に形式化されてしまった。だが、むしろ、その上でこそ、生命を生命たらしめているものは何かが問われなければならない。

<柄谷行人『隠喩としての建築』(岩波・柄谷行人集2;2004)>


DEATH VALLEY ‘95

2009-06-25 14:51:36 | 日記

★ 両側を暗闇が包んでいた。霧にけぶった右手奥に、かすかに光の群れが蛍のように見える。それが次郎の生まれ育った東京だった。眼下には、行き来する大小さまざまな船舶もゆらゆらと仄かな光を放っていた。

★ この東京湾を挟んで、ある事件が起こり、そして記憶と記録に残った。ひとを左右に蹴散らしてこの湾がある、という気がした。ここでは命あるものはやっていけない。ゴミと有害物質のせいばかりではない。この湾に向かって生きていくのは難しい。寿命を全うしたければ、この湾を迂回するしかない。できるだけここから遠ざかるしかない。この死の谷に橋を架けたとしても、ひととひととの間に架ける橋はない、と誰かが言った。

★ 次郎はトンネルに入る直前、死の谷に向けて白百合の花束を放り投げる想像をした。そしてそれを最後に、トマト色のラシーンは人跡未踏の深い谷底に降りるように、オレンジ色の光に染まった海底トンネルに入った。トンネルは、まっすぐにどこまでも続き、またどこへも通じていないように見えた。

<青山真治『死の谷’95』(講談社文庫2009)>


殺される者への想像力

2009-06-25 11:58:46 | 日記
たとえば、イラクが爆撃され、カザで虐殺が行われていたとき、ぼくたちは、どんな立場であろうと、それを喜ぶことはできなかった。

とくに“子供”が血だらけであったり、その死体が瓦礫に埋もれている“映像”を見るとき、ぼくたちは、それから目をそむけた。

それらの“傷つけられた身体”、“不具になった身体”、“死体”に対して、“9.11の死者や不具者”をいくら対置しても、それは“計算が合う”事態ではなかった。

またぼくがここで“イラクやカザの死者たち”と言うことも、部分的であった。
“他の場所”でも虐殺されているひとはいるからである。
ぼくたちは、そういう死の“代表ケース”として、イラクやカザと言うだけであって、まさに新聞の片隅にしか報道されない死、あるいはまったく知られない死もあるはずである。

また、国家と国家の、民族と民族の、宗教と宗教の、イデオロギーとイデオロギーの、資本と資本の“戦争”による死だけがあるわけでもなかった。

しかし、この世界の死が、“自然死”だけでないことは事実である。
だからある種の死を、虐殺と呼ぶのである。

ぼくが、このブログを書く気になったのは、直接そういう主題を論じているのではない本を読んでいる時だった(いまからおよそ10分前である;笑)

単純なこと。

もしガザで虐殺が続いていたとき(ガザでなくてもいいのだが)、日本人であるあなたが、自分の子供が虐殺された“ように”、即座に、直接的に“感じる”ことができるなら、あらゆる“戦争”は、即座に否定されるだろうということである。

まさにこれが“できない”ことこそが、問題ではないかと思ったのだ。
つまりこのような“こころのはたらき”を<想像力>と呼ぶなら、想像力という機能の徹底的な欠如こそ問題である。

これを書いていて思い浮かんだが、“現実”はもっと厳しい。
たとえば先の“大戦”中、人の親である人々は、自分の子を戦争に送り出したのである。

この場合にもいろいろなケースがあっただろう。
親の立場だけでなく、子の立場もあったろう。
親は送り出したくなくても、子が勇んで出征することもあったろう。
あるいは親も子も、本当は戦争になど行きたくないが、そういう選択を許されない“強圧”があっただろう。
その強圧も国家や軍部からくるもの“だけ”ではなかったろう。
その強圧が“国家のために美しく死ぬ”とういような神話=幻想であった場合もあっただろう。

話が拡散したが、ことの本質はひとつである。

ぼくたちには、“想像力、想像力”というわりに、想像力が決定的にいつも欠けている。
この“条件”を自覚すべきなのだ。

“だから”、情報収集は必要である。

けれども、“情報”は、膨大に掻き集め、分類し、ファイルに保存して、安心していれば済むものでは、ない。

モノのような情報が、いくらあっても“想像”できない。

つまり、“知識”は“情報”ではない。

ぼくたちに必要なのは、まさに、“考える”ということがどういうことであるかを知ること、考える人間になることなのである。
これは“思弁”ではなく、“行為”である。

つまり“課題”はいつも単純である。


あなたはなにを望んでいるか?

2009-06-25 09:22:05 | 日記
まず手元の小説から引用しよう;

@同業者は私のことを自信家だという。しかしそれは闇雲な自信じゃない。・・・・・・私はいつもこう思っています。
欲しいと思ったものを手に入れると、その欲しかったものは消えてなくなる。あとに残るのは妄想だけ。
つまり、預金通帳の数字です。でも本当は誰もそんなもののために働くわけじゃない。そんなのは虚しすぎる。その虚しさから逃れるには、何も望まないか、すべてを望むか、どちらかです。何も望まないなんて不可能だ。だから私はいつだってすべてを望んでいます。その際限のなさ、終わりのなさに耐えるだけの勇気を持てるかどうかです。私はある。それが私の自信です。失って困るのは家族だけですし・・・・・・、失敗もたまには必要かとさえ思いますよ。
(以上引用)

さてこれを引用したのは、この小説でのITベンチャー若手企業家の上記発言に共感したわけではない、しかし、この発言に反発したわけでもない。
なにしろこの発言が最初に出てくるこの小説をぼくはまだ読んでいない(笑)

ぼくがここを読んで思ったのは、“私は何を望んでいるか?”だった。
この“疑問”は、ただちにこういう風に展開する;“私はこれまで何を望んできたか”。

この問いには、いがいに“即答”するのが難しいのではないだろうか。
それとも“これ”は、ぼくの固有の問題だろうか。

だからただちに(笑)この“問い”を、このブログ読者に投げつけることにした。

あなたはなにを望んでいるか?

この問いに対する答は、非常に具体的である方向と、抽象的である方向に分かれるかもしれない。

あるいは、モノを望むか、人を望むか、観念(幻想)を望むか?

ぼくはThinkPadのXシリーズの新型を買いたいとか。
あるいは、“あなたとセックスしたい(ただちに;笑)”とか。

なに、もっと“高級”なことを望むのだろうか。

だから、この“問題”は難しい。

ぼくは漠然と、“労働とカネと消費(私的所有)”というようなことを考える。
“労働とカネと消費(私有)”という視点は、現在についての思考の重要なポイントだと考える。

上記引用が何という小説からの引用であるか、知りたい人には教えないわけではない。



<追記>

たとえば昨夜読んでいた本から二つの命題を取り出してみる;

★ 人間の意識は彼の(彼女の)社会的存在によって決定される
★ 人間の思考は人間の活動(労働)およびそうした活動によってもたらされた社会関係に基礎づけられている

この“命題”に反対する(反対できる)ひとはいるだろうか。

あなたがどんな“右翼”であっても(笑)
あなたがどんな“観念論者”であっても。
あなたがどんなに“美的”なひとであっても。

上記の定義は、マルクス(カール・マルクスだよ)による。

ぼくがこの定義を読んだ本も、“マルクス主義の解説書”ではなかった。
“社会学(知識社会学、現象学的社会学)”のテキストとしてロングセラーを続ける、バーガー&ルックマン『現実の社会的構成』(旧タイトル;“日常世界の構成”)という本においてである。

たぶん、あなたは上記の定義に反対できない。

にもかかわらず、あなたは(ぼくは)上記の定義に背いて生きている。


耐えられない軽さ

2009-06-25 07:58:35 | 日記

今日天声人語;

▼ 承知しつつ、自民党の歴代総裁を眺めてみる。初代は鳩山一郎、2代石橋湛山、3代岸信介、さらに池田勇人、佐藤栄作、田中角栄……。好悪はおいてヘビー級が並ぶ。元気な東国原知事も、昔なら「私を総裁候補に」とは言いにくかっただろう▼近づく総選挙への出馬要請を受け、条件に「総裁のイス」を求めた氏の言動が波紋を広げている。裏も奥もあるらしいが、自民党も落ちぶれたというのが、少なからぬ国民の抱いた印象のようである
(・・・・・・)
▼ 花形不在に悩む「自民一座の古賀座長」は、近づく夏舞台が心配でならない。受けを狙って人気者に出演を頼んだら、思わぬギャラをふっかけられた。「なめられたものだ」と、座付きの役者が憤りの声をあげる――たとえれば、そんな図だろうか▼俳人の小澤實さんに〈夏芝居監物某(けんもつ・なにがし)出てすぐ死〉の愉快な句がある。端役なのだろう、監物某という者が、出てきたとたんに切られてしまった。さて、きたる選挙で東国原氏は主役を張るのか、端役なのか、それとも舞台に載らないのか。茶番に堕す危うさをはらんでの、軽き自民のカケである。
(以上引用)



自民党は“落ちぶれた”のだろうか、そんなことはないと思う。
もともとくだらないのだ。
“好悪はおいてヘビー級が並ぶ”
という場合の“ヘビー級”とは、どういう意味か。

戦後日本というのは、“軽薄短小”なものが“良い”という価値観にシフトしてきたのである。
それは、“ヘビー級”とか“重厚”に見えるものに、さっぱり“中身がない”からであった。

たいして中身がないのに、もったいぶって深刻に振る舞うことの愚かさを、“笑い飛ばす”のが、イキなのである。

“笑っていいとも?―いいとも”の掛け合いで、ぼくらは何十年もやってきたではないか。

その間に、子供は親になり、この軽薄な時代だけに育った子供たちが、“成人”になったではないか。

その“親子”がなによりも好きなのは、テレビであった。
かれらが共有するのも、テレビだけであった。

テレビ自体が、内容的にも物質的にも、“薄型”になった。

だれも“ヘビー級”など求めてはいない。

わたしとおなじくらいおろかなひとを笑って過ごせるなら、この人生はハッピーなのであった。

《茶番に堕す危うさをはらんでの、軽き自民のカケである》だって。

笑わせてはいけない。

とっくにすべては、茶番である。