Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

まずくなると怒る人とまぬけな記者

2009-06-17 15:25:10 | 日記
<日本郵政・西川社長怒る「失礼なことをいうな!!」>6月16日17時39分配信 産経新聞

 日本郵政の西川善文社長は16日、佐藤勉総務相との会談後に、総務省内で記者団とのぶらさがり会見に応じた。

--昨日、今日あたりの世論調査で、西川社長の続投に関して否定的な意見が大勢をしめる結果がでているが

西川 「よく読んでいませんからわかりません」

--そういう意見が大勢を占めたという事実はあるが

西川 「それはよくわかりません」

--それを受けて、どう対応するのか

西川 「ただ、これはねえ、もう鳩山総務大臣(ママ)のご指摘をいただいておりますので、これを重く受け止めて、厳しい反省の上にたって、必要な改革を加速していく。これが私の責務であるというふうに理解しております。その中で、けじめも考えていきたい」

--続投の意向に変わりはないか

西川 (無言)

--けじめってどういう意味ですか

--今後どうするんですか

西川 「けじめはつけます」

--もう一度聞くが、辞任ということも含めてか。けじめとは

 (西川社長、少しうつむく)

--(うつむいた西川社長を見て)うなずかれたということでいいか

西川 「(質問した記者をにらむ。語気を強め)失礼なことをいうな!! 何がうなずいたんだ!!(と怒声を浴びせる)」

--顔が動いたように見えたので…

 (西川社長がエレベーターの中へ消える)


河馬に噛まれる

2009-06-17 11:19:57 | 日記
つまらないマスメディアの話はやめて、本を読もう;

《ダケカンバの林にさえぎられて浅間は見えないが、噴火があると屋根に灰が降りつもる位置の、山小屋に来た》

この書き出しの一行を読んだだけで、この著者を言い当てられるひとが、たぶんいる。
ぼくには、自信がないが、ひょっとしたら当てられた。

大江健三郎である。
ぼくはこのブログを書く時に“有名人の名”を呼び捨てにするかどうか、まよう。
これまでは、基本的に“氏”をつけて“内田樹氏”というように表記した。
呼び捨てにする場合は、怒っている場合でもあった―(この内田樹というバカが・・・)
しかし大江健三郎や中上健次や村上春樹に、“氏”をつける気にならないのは、彼らがむしろ好きだからである。
(だから、“最近”、村上春樹氏と書きたくなった)

つまりかなり前に、“愛読”しなくなってからも、大江健三郎は“大江健三郎氏”ではなかったし、いまもない。

最近、近年日本の小説をほとんど読まなかった(中上健次をのぞいて)ぼくとしてはめずらしく、小説をつづけて読んだ。
このブログに書いている通り、阿部和重、青山真治、平出隆、村上春樹、古井由吉らを読んでいる(進行形である)

そうしたら、気になる“名”が呼びかけるのである。
三島由紀夫である。
そして今朝、本棚から大江健三郎『河馬に噛まれる』(講談社文庫2006)を取り出した。
この文庫は2006年の刊行であるが、ここに収録された短篇が書かれたのは、1983年-1985年だという(文庫解説による)
まさに“村上氏”の新作の年代である(笑)

ぼくにとって、ある時期からの大江健三郎は、とても読むのがおっくうな作家となったが、これは“一般的”にもそうではないか(ぼくは大江の愛読者であるという人にあったことがない)

きょうもこの『河馬に噛まれる』の書き出しを読み、すぐに巻末の“解説”の方を読んでしまった。
この解説を書いている小嵐九八郎というひとは、ぼくの知らない名である。
これを読んでこの書き手が、元“社青同解放派”であることを知った。
この人の文体には癖があって読みにくいが、いいたいことはよくわかった、ぼくは“活動家”ではなかったが。

たとえば小嵐氏の友人の元“武闘派”のひとが、この小説の感想をこう述べた;
《・・・おれとはまるで反対の人間、そう、リンチの嵐のなかで便所掃除をしていた少年、そいつが、その便所掃除というとんちんかんを浅間山荘の決戦後も続けて、河馬と水の流れの共生みたいなところへいくってえのが、悲しくなるほどいいなと思った》

大江は“連合赤軍事件”にこだわり(忘れず)、春樹は“オウム事件”にこだわった。
こういう“こだわり”のみが、“ある時代”へのこだわりである必用はないが、現代を生きる作家として、こういうことにこだわるのも、“正常”なことであった。

しかし、必用なのは、“こだわる”こと自体ではなく、そのこだわりを、現在においてどう言説化できるかなのだ。

たとえば平出隆は1980年代の最後の頃、猫にこだわっていた。
自分の借家とか、引越にこだわっていた。

つまり、ひとには多様なこだわりがあり、そのこだわりが、“政治的”であるかは、“社会的”であるかは、“文学的”であるかは、“人間的”であるかは、“美的”であるかは、“倫理的”であるかは、“テーマ”ではないのである。
100歳になるまで、“神話”にこだわったひともいた。
“路地”と“闇の国家”にこだわって死んだひともいた。

いまも、ぼくにとって、大江健三郎は、気の重い人である。
ぼくは『河馬に噛まれる』が読めるだろうか。

しかし解説の最後で小嵐氏は書いている;

★ そして、この暴力を含め肉体の損傷を描く時、こちらの思い違いか、国家、イデオロギー集団、肉親の“障害”と普遍的な広がり、宗教集団と大江健三郎氏が綿綿と熱を帯び、折りに、難解な言葉を敢えて選んで表現する底には、実体に、枝葉に、細胞に、人類の類というテーマが満ちていることに心が至る。その眼差しは、どんな一人でも含みたい、再生したいという優しさであろう―に。

★ それは、暴力の摑え方の複眼的な強さであり、撃たれても撃たれても舞う(略)ムハメッド・アリのようなしなやかな暴力への対峙である。



からっぽの人間

2009-06-17 08:50:06 | 日記

《浮気心と、妻に済まないと思う心のはざまで男は疲れ、ひとりつぶやく。「私の生活は、良心と欲望が互いにしのぎを削っている時間が多すぎる。いずれが勝っても、敗者は私なのだ」》

今日の読売新聞(日本でいちばん売れているとされる新聞)の“編集手帳”の書き出しである。

いったいなんの話だと、お思いですか?

“麻生首相のぼやき”なんだそうです。

“えっ、麻生首相は浮気までしてんの?”とあなたは、誤解してはいけないのです。

こういうのを“ブンガク的レトリック”というのです(村上春樹が得意なヤツさ)

今日の読売・編集手帳の全文は、上記のレトリックの“解説”に費やされています。
こういうのを“紙面の無駄”というのでは、ないのでしょうか?
“紙面の無駄”というのは、“資源の無駄”でもあるわけですから、読売新聞が大好きな“資本主義”に反するのではないでしょうか。

《◆選挙を前に、堂々、世論の逆を張る。人物の器が大きいのか、並の器で空洞だけが大きいのか、この人ばかりは分からない》

というのは、この編集手帳の“決めの言葉”です。

この編集手帳の書き手(集団的“読売”人格)は、こんなことも“分からない”で、毎日“売文”で暮らしをたてている、あわれな人々なんです。
なにしろ“読売”ですから。

つまり麻生首相に匹敵するほどの“並以下の器で空洞だけが大きい”人々なんよ。

というか、みんな“空洞”でしょうが。

空洞な“人間”が、浮気をしようと、政治をしようと、無意味ですよ。

無意味な人間が、なにを言おうと、0×0はたしか“ゼロ”です。

からっぽ×からっぽも、からっぽです。

つまりぼくらは、からっぽの言葉を、毎日読まされているんです。

からっぽの言葉と、からっぽの政治と、からっぽの“人間”は結局、おなじ“モノ”です。

人間ではありません。

“人間失格”、桜桃忌が来ます。



アホらしい日本語

2009-06-17 08:09:03 | 日記

“あらたにす”の“新聞案内人”というのは、ほとんどがくだらない文章なのだが、いま見た森まゆみさんの“「いやはや語」めった切り”というのは、よかった、引用する;

○ 私にとってのあきれ、あきらめ語録
まず、簡単なところから。当たり障りのない行政用語。「いきいき」「さわやか」「いこい」「水と緑の」「ふれあい」「きらり」。あまりに安売りで言葉が安っぽいし、実態を反映していないことは火を見るより明らか。その裏に「住民に対する適正な指導」とか「合理化と民間活力の活用」なんて本音の鎧(よろい)がちらりと見える。

これらの言葉は、当たり障りのないところからNHKの番組名にも多用される。そのNHKで気になるのはニュース番組の「など」だ。羅列する時間がないので、なんでも「など」で片付けているような気がする。でも「3年前に殺人事件を起こすなどして」はぎょっとしないか。事態の深刻さと「など」の能天気があわないのだ。

もうひとつ、ドキュメンタリー番組のあまりに画一的な造りと、タイトルにかぶさる「……をみつめます」というナレーションもいやはや。関東番組審議会の委員をしていて、何度も意見を言ったが、相変わらずである。全体にナレーションの語彙がきわめて少ない。

○ 長持ちしないメディアの新造語
メディアの作る「負け組・勝ち組」「アラフォー」などの新造語もいやはや語。たしかに母子家庭はシングルマザー、離婚すればバツイチ、性的嫌がらせはセクハラ(セクシュアル・ハラスメント)と言い換えることにより、少し印象が明るくなり、実態を明るみに出すという点では貢献したとも言えるが、これらもすぐ賞味期限切れになる。

セクハラはともかく、アカハラ(アカデミック・ハラスメント)、アルハラ(アルコール・ハラスメント)までくると言葉遊びの感が強く、インパクトはない。
「ニート」「ひきこもり」「パラサイト」「限界集落」「ワーキングプア」「ネットカフェ難民」「名ばかり管理職」……。学者もメディアもよくもまあ、人のことを勝手に名付けてくれるよな。それがあっという間に流行語になる。少なくとも自分は流行に乗って使ったりはしまい。

20年ほど前、ある社会学者の報告書を見たら、ずっと木造賃貸住宅にしか住めない人たちのことを「木賃アパート沈殿層」と分類してあり、まさに古いアパートで汚い天井を見上げていた私は、その学者に殺意を抱いたのであった。

業界人が使う横文字は、たいていゾワッとくる。コンセプト、クライアント、プレゼンテーションのたぐい。レストランでも宿でもオーナーとかスタッフとか言うところは嫌いだ。社長というのはもっといや。店の主人、宿のあるじ、それでいいのではないかしら

○タレントの「立ち位置がいい」とかいう業界用語
テレビ局では収録の際よく、「さくっと」「さくさくっと」やってくれと頼まれる。もたもたせず簡潔に、ということらしいが、この精神の業界化がいや。「あのタレントは立ち位置がいい」なんて言い方も、いかにも業界的で好きではない。

かと思うと、この前、初めて小さなビデオ作品を作った若者を「監督、監督」と呼ぶ女性がいた。一人で作って誰を監督したって言うのよ。映像の世界もまた、カリスマ化と権威主義から逃れにくいようである。

情報誌の定番。「また格別」「極上の癒しをお約束」「おすすめはこの店」。こうしてかけがえのないはずの旅はただのお仕着せの疑似体験になってしまうのだ。ゆめゆめだまされまいぞ。

マニュアル語。「ご注文のほうは以上でよろしかったでしょうか」「千円からいただきます」「こちら、たぬきうどんになります」は、アルバイト用マニュアルを作った人が日本語ができなかったことに起因するらしい。これ以上は、すでに言い尽くされているから省略。ただあの鼻中膈(びちゅうかく)の抜けたようなふにゃふにゃ発音はどうにかならないものか。

○「たぬきうどん」になる前は何だったというのだ
不必要な言葉を数多く言わされて、喉を痛めるから鼻先で言うのだとアルバイト学生に聞いたことがある。中身と重みのない言葉を若者に言わせるのはやめよう。くせになるから。
接続詞では、「なので」が流行っているらしいがこれも嫌い。「ですから」「というわけで」と言えばいいのに、なに、この唐突な感じと甘え。女性では「……なときに」で会話を繋いで行くのが最近はやっている。「……ので」「……したら」ですむところを、おおげさな、自分をセレブ化しようとするナルシズムを感じる。

山口百恵さんが引退する時のインタビューで、内面をナイーヴに告白するような「……な部分で」を多用し、あっという間に芸能界に広まったと記憶する。ほとんどテレビを見ない私が言うのもなんですが、「……ときに」も誰か、人気者の口癖ですかね。

○「させていただく禁止令」を発布したらどうか
敬語はあまりにひどい。会議などで「後ほど送らさせていただきます」なんて舌をもつれさせている若い人に、「お送りします、でいいのよ」と言ってあげたい気持ち。「させていただく」の乱用で、限られた時間内にしゃべる内容は減るし、印象に残らない。

「拝読させていただきました」「拝見させていただきます」という人も多い。まずビッグビジネスから<「させていただく」禁止令>を出したらどうでしょう。
「やられてください」「食べられてください」「見られてください」「来られてください」の「ラレラレ語」。「なさって」「召し上がって」「御覧になって」「おいでになって」と言うのだよ、くらいは自分の子供に教えましょう。

そして最近気になる政治情勢。私は民主党支持というわけではないが、政権交替はあった方がいいと思っている。でも党の新代表、鳩山由紀夫氏がいう「国民の皆さん」はいやである。「国民」なら「一人一人が」のニュアンスがあるが、「皆さん」となると 集団になってしまう。「ホームレスの方々」といった政治家もいたが、下手に敬語をつけるのは馬鹿にしていると思われないかなぁ、という小心さが現れてしまう。「国民」でいいんではないの?

思いつくままに書いて、ちょっと梅雨のひぬまの鬱憤(うっぷん)ばらし。
そういやあ、この「鬱」という字を入れるか入れないかでもめてますな、当用漢字。

最後に一言。私の削らないでほしい字は「勺」(しゃく)です。
「男に逢う前は、かならずこうした玄人っぽい地味なつくりかたをして、鏡の前で、冷や酒を五勺ほどきゅうとあおる」
ご存知林芙美子の名作「晩菊」。別れた年下の男が会いに来る晩の女心。すがれた肌をほんのりさせようという。いや、こんな色っぽい話じゃない、毎晩、あと一合、いや五勺だけと悩める私には一番だいじな漢字です。


サッカーについて考える

2009-06-17 07:33:22 | 日記
“鳥男”君のブログをひさしぶりに見たらこうあった;

《「モノづくり」とか「野球」とか世界のトップにたてるモノは日本人の長所が色濃く反映されている。
サッカーはそうではない。ようやく試行錯誤の上「個性」の重要性に気づいた。それはドイツ大会敗戦後の中田ヒデの発言「せめて走る事は出来たはずなのに僕らは走ることすらしなかった。だからピエロと言われ様と走り続けた」という発言から始まり、オシムの「考えて走る」に繋がった。日本人の個性は実は走ることではない。民族的能力としてスタミナはあるほうだが決してそれは個性として打ち出せるようなものではない》
(引用)

さすが、サッカーに入れ込んでいるひとだけあって、本質を突いている。
現在のスポーツ・ジャーナリズムは、この程度のことも言えない(ぼくはそういうものを見てはいないが、わかる)

上記の引用は、前後も引用しなければ“わからない”から引用したが、この文章で肝心なのは、ようやく日本のサッカーは、《「個性」の重要性に気づいた》ということである。

日本のサッカーが《試行錯誤の上「個性」の重要性に気づいた》か否かをぼくは知らない。
最近サッカーをまったく見ていないからだ(見る気をなくした)
だが、ぼくはずっと日本のサッカーがダメなのは、“個性がない”からだとおもってきた。
だから肝心なときには、決して、勝てないのだ。

こんなことは、“日本のサッカーだけを見ていないひと”には、ただちに“分かる”ことであって、なんらwarmgunのユニークな意見ではない。

ぼくはこういうことを、“ストレートな認識”と呼ぶのだ。

サッカーのはなしを、“日本人の国民性”というような議論につなげるべきだろうか。
ぼくは、あまりつなげたくもないのだが、やはりつながるだろう。

鳥男君もつなげて、以下のように展開している;

《正直言って日本人にはセンスがない。
悲しいぐらいにセンスがない。
センスがないことが個性だといえるくらいセンスがない。
たとえば国民が選んだ政治家。これほどセンスのない生物をオイラは見たことがない。
ちょっとでも良いセンスを持った人間はたたかれる。歴史的にもそうだ。後世からは好まれるがその生きてきた時代からは嫌われる。
織田信長もそうだ。
坂本龍馬もそうだ。(彼の唱えた事は何一つ明治政府は実現しなかった。黙殺というか記憶にもなかったのだろう)
小泉元総理も昨今の政治家のなかでは良いセンスを持つひとだったが、嫌われている。(国民的には未だ人気があるほうだけど、政治家内人気はない。)
人々は相変わらず「反体制」を唱えている。
マジョリティがセンスがなくマイノリティがカッコイイと思っている。
ところが実際の行動はきわめて保守的だ。アメリカなんかの数倍保守的だ。
物事の本質を見抜く能力が極めて低い。

センスがある人を尊ぶ「粋」という言葉や織田信長、坂本龍馬といったセンスある人が歴史上の人気ランキングで常に上位にいるのはきっとないものねだりなのだろう。
考えてみれば漢民族の人気のある歴史話「三国志」や「水滸伝」は仁義礼を尊ぶ話だ。それもないものねだりからなのだろう。

人間とはそういうものということか…》
(以上引用)

上記の引用を読むと、ぼくには彼がなにがいいたいか“わかる”のだが、その展開と例示と結論には賛成できない。

つまり“個性があるひと”と“センスがあるひと”というのは、ちがうのである。

センスがないことが、強烈な個性であることもあるのである(笑)
鳥男君がここで挙げている人々は、強烈ではあるが、ぼくにはセンスがないひとに思える。
織田信長、坂本竜馬のようなひとのことはよく知らない、だが、小泉元総理は知っている(笑)

ぼくが不可解なのは、鳥男君のような、わりとセンスがありそうな(非常に狭い領域であるが)“若者”が、このようなセンスなき誤解を平気で維持“できる”ことである。

鳥男君の“織田信長、坂本竜馬像”というのは、司馬遼太郎等の歴史小説やNHK大河ドラマから形成されたイメージに過ぎないのではないか。

かれらを実際に見たら、
《これほどセンスのない生物をオイラは見たことがない》
ということになるかもしれないのである。

いやいや、ぼくも“見てきた”わけではないので、鳥男君のほうがただしい可能性もある(笑)

ついでに言っておくと、ぼくは“アメリカ”という国もきわめて保守的な国だと思っている(このことについては、現在“勉強中”である)

たしかに鳥男君が展開している“ないものねだり”というのは、日本にもアメリカにも中国にも“ある”わけである。
しかしそういうのは、あくまで“大衆とニセ知識人”の意識にあるだけである。

そういうものを少しでも突破しようとした人々もいたのである。
だからそういう“言説を”(言説のみを)ぼくは、さがしている。

《正直言って日本人にはセンスがない。
悲しいぐらいにセンスがない。
センスがないことが個性だといえるくらいセンスがない。
たとえば国民が選んだ政治家。これほどセンスのない生物をオイラは見たことがない》

という言葉には、深く共感する。

けれども、ひとがこう書いているのを読むと、“センスがないのは日本人のみであろうか?”という疑問もおきる。
たしかにサッカーの具体性においては、多くのサッカー先進国に対しての日本の位置は、そうでしかない。

しかし、《人間とはそういうものということか…》というふうに一般化できない。

たぶん97%の“人間”がそうであっても、“ぼくたち”は3%の人間に賭けなければならない。

サッカーで(あらゆるスポーツで)“センスある人々”は、そういう賭けに出られるひとだったと思う。