Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

不破利晴への手紙

2009-06-13 09:35:41 | 日記
ぼくの先日のブログ“日本のロック;暗闇と稲妻”について、このブログを書くきっかけとなった不破利晴君からのコメントが届いた。
そのコメントへ返信を書いていたら長文になったので、ここに出す。


<不破利晴コメント>

不破でございます。

僕のエントリーをきっかけに、矢沢永吉についてはちょっとした物議を醸し出しましたね(苦笑)

矢沢永吉というよりも、矢沢ファンについては僕も以前から言いたいことはある。
でも、warmgunさんのブログがこれ以上荒らされるのも不本意なので、僕のブログで”ロック”と”矢沢”について思うところを展開してみましたョ(笑)


<返信>

いま君のブログを読んだ。
君が“責任を取る”のは当然だね(笑)

実はツナミンのブログにもこれに関する“評論家という仕事”というのが出て、それに対する各務さんのコメントも今読んだ(それに対するツナミン返信はまだ出てない)

君のブログについては、《日本に”ロック”が存在しない理由が、少し分かった気がする》というのが、ぼくも言いたいことであった。

つまり“日本のロック”とか“矢沢永吉”というのが、音楽の話だけではない、ということ(あるいは、“音楽だけの話”などない)
きみが“その話”を、“ファシズム的”なものに結びつけることにも共感する。

一方、ツナミンが本多秋五と加藤周一との比較において展開した、“嗜好の差”と“客観主義的アプローチ”という問題がある。

ツナミンはこのブログを、
《このように、“文学評論”にも単なる嗜好の違いを超えた質的差異があるとすれば、同じことは、すべての分野の評論についても言えるのだろうか? 
再び問う。「評論」とは一体、何なのだろうか?》
という疑問文で閉じている。

それで、ぼくもこのことを考えた。
これはそうとう根源的な問題だ。
ぼくも自分のブログで“こたえよう”と考えたのだが、問題がひろすぎて、現在ではまとめきれない。

ぼくはここで、ツナミンが“評論家とは何か”という形で提起した問題は、“クリティック=批判”とは何かという問題として捉える。

さまざまなアプローチが可能である。
★ もし“文芸評論”という問題に限っても、日本だけでも小林秀雄―江藤淳-吉本隆明―柄谷行人というようなひとがいる。
さらに平野謙、福田 恆存、中村光夫、秋山駿などなどの“文芸評論家”はいたし、加藤典洋、斎藤美奈子のように現在もいる。
ぼくはこういうひとたちを、たいして読んでないが、こういうひとたちと“作家たちの文芸評論(石川淳、大江健三郎、高橋源一郎など)”も存在した(する)
この“文芸評論”がこの国においては、“文芸”の評論であるだけでなく、一種の“思想”的展開であったことも事実(歴史)である。
★ “文芸評論”とは別に、あるいは関連して、“文学理論”とでも呼ぶべきものも存在する。典型的にはロラン・バルトの“理論”(ぼくはよくしらないが)のようなもの。吉本隆明の『言語にとって美とはなにか』などは、“理論”としてぼくの世代には読まれた。また“現代フランス思想”で、文学に無関心なものなどいなかった(バタイユ、サルトル、レヴィ=ストロース、フーコー、ドゥルーズ、デリダ・・・)
★ 一方ドイツには、カントの“批判”哲学があるだけではなく、“批判理論”と総称されるホルクハイマー、アドルノ、フロム、マルクーゼ等がおり、その周辺のベンヤミン、アレントの思想はむしろ最近復権している。この後継者とされるハーバーマスがいて、アメリカにも思想史的にアプローチしているマーティン・ジェイがいる。
★ 柄谷行人はこの批評―批判を“トランスクリティーク”として提起している。

つまりここにおいても、“日本の問題と世界の問題”があり、それは当然関連しているが、日本独自の偏差もある。
はっきり言えば、日本の“文芸批評”には、哲学・社会思想を“代行”してきた側面があり、しかもそれは、“海外思想の紹介”であった。
つまり、“海外の哲学・思想”を、“文学的に読んだ”のである。

問題は、あまりにも広大である。
むしろ“日本文学史”にしぼって、“これらの問題”を考えるために、ぼくは以下の本を参照すべきとしたはずである。
* 加藤周一:『日本文学史序説』
* 柄谷行人:『日本近代文学の起源』
* 小森陽一:『<ゆらぎ>の日本文学』
* 高橋睦郎:『読みなおし日本文学史』

さて、これから述べることが、このブログのポイントである(笑)
たとえば、上記の本をぼくが“選ぶ”のは、なんの“客観性”でもないのである。

ぼくは“日本文学史”の専門家ではなく、日本文学史に関する本を“読みつくした”のでは、まったくない。
にもかかわらず、ぼくが上記の本を推薦するのは、まったくのぼくの“嗜好”である。

“だから”ぼくは、ツナミンのブログに考え込んでしまったのである。
もちろん、ツナミンが“それはただの嗜好(好き嫌い)にすぎない、客観的なアプローチが必要だ”というのは、“ただしい”のである、ぼくも加藤周一『日本文学史序説』が好きである(加藤周一が客観的であるか否かの問題もある)

先日のぼくのブログで引用したサイードの言葉を思い出そう;
《対抗的であるということで、わたしがいわんとしているのは、ふるいにかけ判断し批判し選択することができること、その結果、選択と主体性とが個人へとはねかえってくるようなありようなのです》(引用)

これはかなりデリケートな“言い回し”である。
もちろんサイードが“知識人”であるのは、かれがパレスチナで生まれて、アメリカでキャリアを築いた“特殊性”にあるだけではない。
かれがその“特殊性”をもとに“比較文学”を行ったことにある。
もちろんその“学”も(ぼくは読んだわけではないが)客観的アプローチを目指すものであったろう。
しかし彼は、多くのひとから(良識ある人々から)、“主観的である”と非難されさえしたのだ。

なによりも“文学”とか“音楽”とか“映画”とか“美術”とかが、“客観的”でありうるだろうか?
その“作者”にとっても“享受者”にとっても。

もちろん“主観的に生産されたもの”を、“客観的に比較し、”選択する“ことが必要である。
しかしその“読み”(行為)は、自明ではない。

《ふるいにかけ判断し批判し選択することができること、その結果、選択と主体性とが個人へとはねかえってくるようなありよう》

ここでサイードが言っていることの“順番”に注目してほしい。
サイードは、“主体がまずある”とは、言っていない。
“それ”は相互運動である。

また、“主体(主観)”と“客観”の問題は、“まだある”のである。

以上、非常に不充分な記述である。
ぼくは、自分の結論を言っているのではなく、むしろ自分の課題(テーマ)を書いた。

ただ感覚的-感情的に言うならば、ぼくは“好き嫌い”ということは、非常に重要だと考える。