昨日、マイケル・ジャクソンの死を知っても、なんの感動もおこらなかった。
なによりも、ぼくは彼のファンではなかった。
彼のCDを2枚持っているが、ほんとうに聴き込んだことはない。
自分が、“聴いてこなかった”音楽家の死について、あれこれ言うことはない。
しかし、なんというニュース(言説)の氾濫であろうか。
なぜマイケルの“死因”などに、人々は関心をもつのだろうか。
いま天声人語と読売・編集手帳がともに、この死について書いているのを読んで、ぼくも黙っていることはできない。
このふたつの“論説”を比較するなら、読売のほうがマシである。
天声人語はマイケルについてわかりきった“事実”を書き並べたあとで、こう結んでいる;
《▼かつてこう語っていた。「僕はステージの上が一番安心できる。出来ることならステージで眠りたいぐらいさ。本当に、まじめにだよ」。享年は50。実際の人生より、舞台という虚構に住まって夢を見ていたい人だったかもしれない》(引用)
つまらない“感想”である。
この文章は、“音楽”についてなにも語っていない。
しかも“音楽以外のこと”も語っていない。
つまり音楽と人生の関係について、語っていない。
なぜそうなるのだろうか。
この書き手にとって、音楽が自分の人生だったことがないからである。
この書き手は、
《実際の人生より、舞台という虚構に住まって夢を見ていたい》
と書きながら、“夢を見ていたい”ということについての感受性をまったく持ったことがないのだと思う。
編集手帳は言う;
《◆宇宙から来た異星人のように歌い踊る若きスーパースターは当時29歳、社会面の短い記事を読み、優しい心に感じ入った覚えがある。奇行の噂と、醜聞と、孤独の影を身にまとうのは40代を迎えてである◆急逝の知らせを聞く。50歳という。〈人生でいちばん危険なことは、かなえられるはずのない夢が、かなえられてしまうことなんだよ…〉。富と名声を極め尽くし、傍目には生きていく愉しみを見つけあぐねて苦しんでいるようにも映った後半生を思うとき、ミヒャエル・エンデの童話「モモ」の一節が浮かぶ◆あまりに早すぎる――と書きかけて、ためらうものがある。痛ましいほどに長く生きてしまった人を見ているような、奇妙な錯覚が脳裏を去らない》(引用)
ぼくはこの文章を、“天声人語よりはマシ”と書いたのであって、まったく感心しない(笑)
なぜこの書き手は、“スーパー・スター”に対して“痛ましい”などという感想を“持てる”のだろうか。
好き勝手をして死んだ男に対して。
要するに、普段、“普通の人々の平常心“を規範としてかかげる、天声人語と編集手帳は、この”異星人“に、どんな共感が可能なのだろうか。
急に、異星人を理解し、共感したり、悼んだり“できる”ようになったのだろうか。
まさに“ムーン・ウォーク”を見るような奇術である。
笑わせては、いけない。
音楽としてのマイケル・ジャクソンなど、よくって、二流である。
マジに評価すれば、無意味である。
彼が論評に値するなら、それは、アメリカ文化の“ビョーキ”としてである。
つまりマイケルは、なんの“異星人”でもなく、ひとつの“症例”である。
そういう症例としては、たしかに興味深くなくもないが、音楽のはなしとしては、あまり面白くもないのである。
それにしても、このマイケルという記号は、徹底的な空虚だね。
もちろん、ぼくに関心があるのは、“別種の異星人”である。
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